あなたがいてくれるから

桔梗 浬

気持ちに素直になることは難しい

「あのね。私好きな人が出来たの。だからね。もう蒼太そうたとは会えない」

「えっ?」


 レトロな喫茶店で、私は蒼太そうたにそう告げた。蒼太そうたはアイスコーヒーのストローを口に含んだまま驚いた顔をしている。


 私の大好きな蒼太そうた。年齢よりもだいぶ若く見える顔。まつ毛が無駄に長くて優しくて、結婚するなら蒼太そうた以外に考えられなかった。ずっとこのまま一緒にいるんだろうって思ってた。


「今、何て言ったの?」

「ごめん…」

「ごめんじゃなくて」


 蒼太そうたは本気で驚いているみたい。そうだよね。私もこんな日が来るなんて思ってもいなかったもん。


「もうね、会えないって言ったの。ごめん、行くね」


 それだけ伝えたかったの。と言って私は喫茶店をあとにした。本当はもっと話たい。今まで本当にありがとうって言いたい。でもそれはできないのだ。そう決めたから。


 蒼太そうたが追いかけてくるかと、心のどこかで期待しながらも人込みの中に身を隠すように急いで家に帰る。


 蒼太そうたが追いかけて来ることはなかった。でもそれで良い。私の気持ちが揺らいでしまうから。決意が鈍ってしまうから。


 私は目にいっぱい涙を溜めてひたすら歩いた。すれ違う人たちが不思議そうな顔で私を見ていても構わない。


 どうせ私はもうじき死ぬのだから。


* * *


『レベル4ですね。大学病院を紹介するので…』


 先日の先生とのやり取りが頭から離れない。私は手術をすることになる。もしかしたら長期の闘病生活が待っているかもしれない。もしかしたら来年の桜は見れないかもしれない。もしかしたら…。悪い事ばかりが頭の中で繰り返される。だって、私は余命を宣告されたも同然だったから。


 帰り道、カップルが楽しそうに手を繋いで歩いているのに出くわした。すごく幸せそうだ。私も蒼太そうたとこの道を手を繋いで歩いた。何度も何度も。映画を観て、食事して、お部屋まで送ってもらって…。


 蒼太そうたの手はいつも暖かかった。私の冷たい手をズボンのポケットに誘導して暖めてくれた。歩きづらいのにね。


 でも、すごく幸せだった。


 蒼太そうたのことを考えると胸が熱くなって苦しくて、目頭が熱くなる。だから考えないようにしよう。でもそう思えば思うほどつらくなって行く。


 そして、こんなことになった原因と病名を、ネットで検索する。どれもこれも辛いことばかり。私には症状が該当しないから、大丈夫だよ! でも…こっちは私の症状と同じ…と、気持ちはジェットコースターの様にアップダウンを繰り返す。キリがない。だからとっても疲れるのだ。


 気を取り直し、スマホの電源を切る。そして誰もいない部屋で一人、部屋の片づけを真剣に行う。だって、もし病院から戻ってくることがなかったら、見られたくない物は山ほどある。捨てられるものは捨てる。そう決めたのだ。


「これで、よし」


 仕事もとりあえず2週間休む手続きをしたし、入院の準備もある程度できている。私は奇麗になった部屋のベッドの上で目をつぶる。興奮して眠れない。


 どうして私が? 何がよくなかったの? 健康には人一倍気を付けてきたのに、蒼太そうたと出会えて浮かれすぎてたから、神様からいい加減にしなさいって、起こられてるのかな? そんなことが頭をぐるぐる回って、思考回路が混線している。


「会いたいよぉ…。ごめんね蒼太そうた…」


 私を忘れないでねって思うのに、早く忘れて違う子と幸せになってね、なんて矛盾した思いが交差する。もうぐちゃぐちゃだ。


 涙がツーっと流れ落ちる。涙って暖かい。 


* * *


 入院当日、スーツケースをガラガラいわせながら、入院棟で手続きを行った。手術前の検査入院。ベルトコンベアに乗せられた商品のように、淡々と検査が行われる。

 そして病室には、とっかえひっかえ担当医の先生たちが手術について説明をしに来てくれた。どの話も難しくてよく分からない。そしていろいろな書類にサインさせられた。


「疲れた…」

「疲れたでしょ~。大丈夫ですか? もう今日は何もないのでゆっくり体を休ませてあげてくださいね。あと爪。爪を短く切っておいてくださいね。せっかく奇麗に伸ばしてるけど…、またすぐ伸びるから、潔くね!」

「はぁ~い」


 私はしぶしぶ、看護師さんから爪切りをうけとる。私が爪切りを受け取ったのを確認して、看護師さんは嬉しそうに今度は隣の患者さんのところにお薬を届けに去って行った。


『奇麗な指をしているね』


 蒼太そうたが褒めてくれた指。あ…私はまた蒼太そうたのことを考えてる。もう終わりにしたのに、終わらせたのに。


 ダメだ…、気持ちが落ち込む。


 私は持ってきた本を読んで時間を潰すことにした。そろそろお見舞いの人たちが帰る時間だ。明日母がこっちに来ると言っていたけど、会うのが辛い。何でもないフリをするのはとっても疲れるのだ。


かえで?」


 幻聴だ。蒼太そうたの声が聞こえる。私は本を膝の上に置いて目をつぶった。蒼太そうたの事ばかり考えていたから…。我ながら恥ずかしい。


かえで

「えっ? 蒼太そうた?」


 幻覚なんだろうか? 病室に蒼太そうたがいる。嘘でしょ? 私は驚きのあまり、目をパチクリさせる。


「なんで…ここにいるの?」


 蒼太そうたはバツが悪そうに、小雪に聞いたと答えた。


「LINEしても連絡が取れなかったからさ、小雪ちゃんに聞いたんだ。小雪ちゃん、すごく心配してた。かえでが入院したって」

「あ…、ごめん。」


 気まずい空気が流れてる。お隣さんはきっと耳をダンボにしているに違いない。


蒼太そうた、ちょっと談話室にいこう。ここじゃあれなんで」

「あ、あぁ。起きて大丈夫なの?」

「うん。大丈夫だから」


 談話室は誰もいなかった。窓からは都内の夜景が見える素晴らしい環境だった。ここが病院じゃなくて、病気でもなくて、蒼太そうたとこの景色が見れたら…どれだけ嬉しかっただろう。


 何て言えばいいんだろう? 私の嘘はバレてるのかな? 本当は素直に「ありがとう」って言えばいい? でもそんなことをしたら、別れると決めた私の心が揺らいでしまう。泣いてすがってしまう。私を忘れないでって。そんな重たい女にはなりたくない。


かえで?」

蒼太そうた、もう帰って。来てくれてありがとう」

かえで…」

「私は大丈夫だから」


 全然大丈夫じゃない。不安で怖くて叫びだしたい。でも心配かけたくないの。わかって。だから…私の心が折れる前に帰って…お願い。


 蒼太そうたの足音が近くに聞こえた。そう思った瞬間、ふわっと暖かい蒼太そうたの温もりを背中に感じた。


かえで、一人で頑張らないでくれ。辛い時こそ俺を頼ってくれ」


 蒼太そうたが耳元で優しく囁く。ぎゅっと後ろから抱きしめてくれているのだ。とっても暖かい。ダメだ、泣いてしまう。不安な気持ちを蒼太そうたにぶつけてしまう。そうなる前に、この手をほどいてほしい。


 それなのに、私は蒼太そうたの力強い腕にそっと手を添えてしまった。ずっとこのままでいたい。


「俺が側にいる。かえでに嫌われてもずっと側にいてずっと手を繋いでいるから、放さないから。一人でどっかに行ったりしないでくれ」

蒼太そうた…」


 ダメだ…蒼太そうたが好き。大好き。ずっと一緒にいたい。


 私はボロボロ涙を流していた。そして嗚咽しながら泣いた。


「私、わたし…、本当は怖いの…」

「うん」

「私、死んじゃうかもしれない」

「うん、人はね、誰でも死ぬときは死ぬんだよ」

「髪の毛もまつ毛も全部抜けちゃうかもしれないよ。むくんで今以上にブスになっちゃうんだよ」


 私は不安に思っていること、蒼太そうたに見せたくない最悪の姿になることも打ち明けていた。大泣きしながら。子どもみたいに。


 蒼太そうたはうんうんって頷いて、さっきより私を強く抱き締める。


かえでは何か勘違いをしているよ。俺はねかえでの見た目とかそんなんで好きになったわけじゃないし、そんな理由で側にいるわけじゃないんだよ」

「でも、もうえっちもできなくなるかもしれないんだよ」

「うん?」

「ほら…やっぱり嫌でしょ?」


 私はやっぱり一緒にいちゃいけないんだって思う。後で悲しい思いをするくらいなら、今別れてしまった方がいい。


「それに…蒼太そうたに何もしてあげられない。美味しい料理も作ってあげられなくなるかもしれないんだよ」


 だって蒼太そうたは、私の作るご飯が好きだって言ってた。もうそれも出来なくなったら、蒼太そうたの為に私が出来る事は、何もなくなってしまう。そんなの自分が自分を許せない…。


「あのね、怒るよ。そんなのどうでもいいじゃない。一緒にいれたらどうにでもなるもんだよ」

「でも…」


 蒼太そうたはちょっと怒った様な真剣な顔で、私を見ている。


「俺が一緒にいたいって思ってるんだよ。そんな理由だけじゃダメなのかい? 辛い時も何かに怒りたくなった時も、全部俺にぶつければいい。そうして欲しいんだよ」

「本気で言ってる? 蒼太そうたの大事な時間を私の闘病生活に使って欲しくないの。蒼太そうたには幸せになって欲しいから」


 あ~もぉ、何て言えばわかってくれるんだい?って、蒼太そうたが悲しそうな顔をするから、私も悲しくなる。


かえでがね、俺を幸せにしてくれてるんだ。もう少し自信を持ってくれても良いと思うよ」

蒼太そうた…」


 そう、私は蒼太そうたが好き。やっぱり好き。


「ね。俺といると、良いことがいっぱいあるよ。信じて」


 何処から来る自信なのかさっぱりわからないけど、私は泣いて笑う。


「笑うか泣くか、どっちかにしたら?」


 蒼太そうたの優しさに包まれて私の不安は何処かに去っていった。


※ ※ ※


「宮崎かえでさんのご家族のかたですか?」

「えぇ、まぁ、婚約者です」

「よかった。手術は無事終了しましたので、病室にもう少ししたら戻ると思います。まだ麻酔が効いていますが」


 担当医の先生らしき人が早口でまくし立てる。


「あの…」

「あぁ~、大丈夫ですよ。細胞壁の検査をしてからでないと最終の判断は難しいですが、癌のステージとしては2もしくは3の前半といったところでしょう。なので治療も本人が心配していたものより軽くすみそうです」

「えっ? あ、でもレベル4って…」

「えっ? あぁ~ちゃんと説明したんだけどな」


 先生は白衣のポケットに手を突っ込んで、少し困った顔をしている。恐らくパニクった患者によくある話なのだろう。


「今後の治療方針はまた2週間後に。では。よかったですね」

「あ、ありがとうございました」


 そう言うと先生は部屋を出ていった。この後も手術が立て込んでいるのだろう。


 かえでは、大丈夫。


 かえでが目覚めたら、真っ先に「良く頑張ったね」って言おう。そして「大丈夫だよ。先生もそう言ってた」って伝えよう。きっと泣いて安心するに違いない。


 そして…あの日渡せなかったモノを、渡そう。


 蒼太そうたはポケットの中にしまった小さな箱を握りしめた。



END

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あなたがいてくれるから 桔梗 浬 @hareruya0126

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