第2話 妄想だから全てセーフ


白皙の美青年は、自身の名前をあると名乗った。

或との出会いは私が自宅へ帰宅し、急いで食事を終えて食器を洗っていたときのこと。


私は仕事から帰って来たのにも関わらず、家族が使った食器を内心苛立ちを抑えて洗い続ける。


いくら仕事をしているとはいえ、実家に住まわせてもらっている以上、私は文句を言える立場ではない。


だから毎日妹が26にもなって、就活や家事もせずに悠々自適に毎日を送る姿を見ても、その怒りを静かに抑えてきたのだ。


当然私も疲れているため、たまに食器をきちんと洗えていないこともある。


そんなことがあれば普通、代わりに洗ってくれることが普通——だと思っている。え? 普通だよね?


しかし、我が家の横暴極まりない妹様は、そんな汚れた食器を見れば、洗わずにわざと堂々と見えるところに出したままにする。

挙句に延々と皿が汚れていると文句をいうので、食器を洗うときも気が抜けない。


そのため、私は食器を洗っているときは、仕事以上に気力を振り絞り、血眼になっている。

今日も胸に妹への憎しみを抱きつつ、血眼の状態で食器を洗っていたのだ。



「そんなに必死にならなくても大丈夫さ、むしろそこまで気にすると逆に病むよ?」



なんて一言聴こえた瞬間、私は憎悪の矛先を声の持ち主に向けるが、このとき違和感を抱く。


なにせ、今聞こえた声は男性のもの。

しかしこの家には、母と私、妹の女3人しかおらず、現在妹は部屋にこもり母は静かにテレビを見ている。


まさか幽霊かと思い、リビングを見渡すと、背中をちょんちょんと触れられる感覚した。


思わず振り返ると、そこに或がいたというわけだ。


さて、皆様。ひたすら憎悪で感情を昂らせた中、まるで物語やゲームの中にしか存在しないような美青年に出会ったらどうするだろうか?


私は或の姿を見た瞬間、その非現実さに思わず恐怖から「ひっ」と声にならない悲鳴を漏らす。


本来なら、地団駄を踏んで「なに、このイケメン!?」と叫びたいが、そんなことをしてしまえば明らかに不審者となってしまう。


なにせ周囲を見渡す限り――いや、今声をあげても、母が私の方を見てもなにもいわなかったことから私はあることを確信していた。



「やっぱり、僕は君以外に見えていないわけだね?」



と、或は風呂からあがった私に対し、現状確認をする。


しかしそんな現状を確認し終えても正直私は現実感がないし、なによりも今目の前にいるこの美青年が胡散臭くて仕方ない。



「……うん、まぁそうでしょうね。というかあなたはそもそもどこからやって来たんです?」


「うぅーん、まずそれを聞いてしまうのかね君は。本当ならばもっと劇的に行きたかったんだけど……」



などと或は1人で勝手にぶつぶつと呟き出したため、もはやこの謎を本人の口から聞くのは当面無理な話だろう。


というより、1人芝居なら他所でやれ――丁寧な口調で訪ねてもこの一言に尽きる。

すると或は突如私に顔を近づけた。



「レディ、君は前世というものを信じるかい?」



などと、こいつは自身の麗しい笑みと美声をフル活用し、私の理性を崖の淵まで誘う。


一瞬死神に首を刈られたかと錯覚したが、なんとか理性を振り絞って出した答えがまぁなんとも情けないもので。



「いや、知りませんよ。まぁあるんだろうけど、実際ネットで検索したら意味の分からない話ばかりだったし……」



一応、私は現状確認の前に軽くそういった単語を調べてはおいた。

或があまりにも非現実的イデアルそのもののため、オカルトなどの知識が少しは現状打破の足しとなると思ったからだ。

しかし、結局それも無駄足に終わったわけで。


なにより今まで触れてこない話題満載な上、今も興味を持てない話だからこそ深掘りする気も起きない。


そして再三いうが、或自身がとても胡散臭い。これは重要事項であり、ここで彼が私の信用度を稼ぐかどうかで彼の今後の処遇は決まる。


私の言葉を聞くや否や、或は「もうちょっと乗っておくれよ~」と頬を膨らますが、私はそれを華麗にスルー。


仕事をするフリをして、私はパソコンでこの超常現象に近い現象を再度調べてみた。

1時間の格闘の末に分かったのは、恐らく或は思念体しねんたいの類ということ。


思念体というのは、肉体こそ存在しないが、肉体があるかのように認識される存在のこと。

つまり、何らかの思念が具現化して私に話しかけているというわけだ。


ただどうやらこの手の話題は、現代でも明確にされておらず、色々討論も繰り広げられているようだ。


そのため、私が或を思念体と定義づけるのはあくまでという認識だということを理解していただきたい。



「確かにこれじゃあ、周囲の人間に見えるわけがないなぁ……」



そう呟いて、私は溜息を吐く。


こいつがもし、他者の視界に映るなら、先程の風呂でちゃっかり一緒に入ってこようとしたことも、それを見て激怒した私がアッパーをかまして、あの後或が口にした変態発言の数々も咎めることが可能だ。


色々立て込んでしまったが、真っ先に解決すべき問題なのは、或をどうするかだ。


思念とはいえ、不可視な存在である以上、放置は可能だろうし、最悪追い払うことももしかしたら出来るかもしれない。まぁこいつの場合骨が折れるだろうが。


まして見た目はしっかり人間なわけだから、放置するのも私に残った僅かな良心が痛む。


なにより、変態ながらもこんな美青年が傍にいたら変な気を起こしかねない。

悩んだ末、私はまず或を説得して追い出す方法を試みた。


しかし或は私が口にする前からこの答えに気づいていたのか、非常に切なそうな目でこちらを見ている。


正に捨てられた子犬のような目でこちらを見て、私の言葉に牽制をかけている。

硬直が続く中、或は小さく溜め息を吐いて、そっと私の手を取った。



「ねぇ、レディ。君の名前は?」



再び美声と顔の良さのリサイクリングに、私は既知感を覚えるも、これもいいかと一瞬騙されかけて正気に戻ろうと首を横に振る。


いいや、まだだ。まだこいつに絆されてなるものか。そう心に強く言い聞かせ、なんとか追い出す方針で話を進めようと舵を取るが、それは不可能な話すぎる。


なにせこの絵図がいつか夢見た理想すぎて、思わず私はぽつりと自身の名前を明かしてしまう。



れん、だけど」


「へぇ……『こい』と書いて、『れん』……か。成程」



一瞬、私は或の言葉に違和感を感じる。

今私は『れん』とだけ答えたのであって、決して自身の名前を漢字で示したわけではない。


そんな違和感は不信感へと変わりかけるも、或はそんな猶予など持たせぬまま私にこう持ち掛けてくる。



「恋。今君は恋人どころか、意中の殿方さえもいないようにお見受けするけど実際のところはどうなのかな?」



いや、いいたくねぇ。それが私の本音である。


詳細は伏せるが、この恋愛下手さと恋人ガチャにことごとく失敗する私にはもう3年も恋人がいない。

私は黙秘を貫くも、或は果敢に攻めてくる。



「だとしたら、非常に寂しい思いをしているだろうに……。しかァしッ! 今、ここに! こんな美青年がいるということはつまり!?」


「わーい、乙女ゲーもびっくりな展開だぁ」



親切な私は、棒読みで或の言葉に乗っておいた。

すると或は、一瞬こちらを睨むように見つめていたが、すぐにこう切り返した。



「これは君にとってこうなことかは分からないが、先程頂いくらったアッパーは中々なものだね。思わず心と同時に意識も落ちるところだったよ」


「そのまま意識だけ落ちててくれりゃあいいのに」


「まぁまぁ。それはとにかく心身共に忠実な犬となってしまった僕は、あの瞬間に君を主だと認識してしまったのさ」



色々ツッコむべきところはあるが、正直私の精神にはそれに構う余裕はない。ゆえに黙秘の次はスルーへと作戦を移行する。



「はいはい、それで?」



そういって握られた手を振り払おうとするが、或は手を強く握ってそれを拒否。そして私の耳元でこう囁く。



「つまるところ、だ。僕は君以外に見えないし、君は美男子ぼくを自由に扱う権利という得られるわけだ。用途に関しては君の自由にすればいい。所詮僕は飼い犬だからね」



おい。お前はいい声をしながら、倫理的にやべーことを人様の耳元で囁く罪の重さを知らないのか?


―—と思うが、なぜか私の背筋は得体のしれない何かに撫でられていた。


いわば、これは悪魔の囁きのようなものである。


こちらへおいで、といった誘いの言葉が背筋をなぞり、なぜか地獄へと私を堕とそうとする。


必死に現世にしがみつく私に対し、或はとてつもない甘言きょうきを振り上げた。



「そう……例えば、ずっと君が行きたがっていた某夢の国にイケメンぼくと行けるとか」


「うっ、」


外出デートだけじゃないよ? 寝るときも隣に置いておけるよね?」


「ぐっ……」


「それだけじゃないぞぅ、肉体がないから四六時中一緒にいれるし。いつだって愛の囁きを聞き放題だよ」


「づぅ……ッ!」


「なにより、さみしーい独身生活もこれで幕を引けるんだよ?」


「がァアアアアア――—ッ!!!」



数々に襲い掛かる誘惑に、私は現世と地獄を繋ぐ蜘蛛の糸から思わず手を離したくなる。

確かにこんな美青年とあの夢の国で色々楽しめるというだけでも、かなりの役得だ。


さらに1人で寂しく寝ることもなくなるだと? 哀しき独身生活がこれで終幕おわりだと?


もう毎日帰宅して、某SNSをみるたびに「結婚だなんていいなぁ!」なんて悲痛な声をあげなくて済むというなら、或のことを離しがたいと思うのは当然だろう。


もはや、悪魔の誘惑に抗えない中、或はこう私に止めを刺す。



「法も倫理も秩序も関係ないよ? 結局妄想の類だから全て免除セーフ



そう耳元で甘く囁かれた瞬間、私の中で何かが切れた気がした。

この後、私は或との同居を許可するが、翌日あることに気づく。


或が私の妄想ならば、私の中で全てが自己完結するだけでは?


はたして、私はまだ心に残る独身という寂しさと、周囲に置いていかれるという虚しさに勝てるのか不安で仕方ない。


ちなみに私の昨日あげた悲痛な叫びは、当然家族達に聞こえていた。


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