第40話 水壺の姿

〇幕府側の反撃

 司家陣屋の長屋門前では、田代はじめ数名の用人が忙しく応対をしていた。近隣諸藩や在郷の武家が一斉に使者を送っていたのだ。使者は総勢で数十名に及び、陣屋内のいくつかの間に通し、順次司千勝と瑞雲が挨拶を受ける。待合いに使う部屋は、陣屋のみで間に合わず、用人の役宅へも振り分けられた。

 使者を他家から一斉に送り込んだのは幕府の戦略でもあった。呪殺が、特定の誰かに向くと考える以上、多人数を一度に狙いづらいはずだ。更に、誰の指図で誰が動いているか絞らせない狙いでもあったのだ。司領に多くの者が立ち入ることで、当然対応に多くの手が取られ、沸魄散を持ち込むであろう松や稀を引き入れることが難しくなる。また、目を増やし、入ってくる女を押さえる目的もあった。

 使者たちの挨拶は長く、爆発の推移や丿紫丸らの死亡について、また養子として丿を継ぐことになった瑞雲についても個別に長い説明を求める。時間が延々と費やされていった。


〇水壺の姿

 忠厚らは、田代の役宅で待たされることになった。既に二組の来客が客間などに通され、忠厚らは別間に通された。小者は、全員が表門横の長屋の空き部屋にて待つことになる。小者同士が顔を突き合せれば、一目で若い女であることがばれてしまう恐れがあった。

 稀は、恐々として、大きく開かれた戸口から中を覗き込んだ。格子窓から、陽射しが部屋を照らしている。板葺きの室内は、がらんとして無人だった。

「ほっ」

 稀は、胸を撫でおろしゆっくりと板間に腰かけた。

「はぁ…」

 ほんの三日前までの暮らしが嘘のように、家屋敷を払い、浮かれて家宝を持ち出し旅に立ち、それが何かの罠という恐れから逃げ隠れることになった。あの山怪の言葉から頼りの兄が魔物になったと聞き、矢も楯もたまらず、この目で確かめようと、二人の侍に付いて、母を残してここまで来た。今、その侍らとも離れ、こんな薄暗い長屋に一人でいる。忠厚らが、兄瑞雲に目通りが叶っても、自分等の小者が会えるわけがない。例え何かの運で、会えたとしても、それでどうなるというのか。

 稀は、土間の傍らに置かれた水壺を見つけた。柄杓を手に取り、蓋を開ける。壺には新鮮な水がなみなみと湛えられていた。水面に映る顔は、青白い少年のような心細い顔、月代も青く、髪が撫でつけられている。稀は、拙速で稚拙な決断をした自分に強く後悔していた。稀は、自分の変わり果てた姿を見つめながら、細かく震え、じわりと涙を溢れさせた。

「あれえ、どないかしやはったんですか。おなかいた(腹痛)やろか」

 稀が、びくりと振り向くと、そこには野菜と数尾のアマゴを入れた大振りのざるを抱えたお袖(お絹)がいた。

「あ…、私、あ、えっと…」

 稀が返事に詰まっていると、お袖は湯呑みをとってやろうと、板の間にざるを置こうとした。次の瞬間、稀は驚きの余り腰を抜かした。お袖の真後ろには、目深かに頬かむりをした封が立っていたのだ。もちろん今は着物も着ている。

 稀の中で、月の光を浴び、神秘的な警告を放った裸体の山怪の姿がありありと蘇った。

「あ、あ、兄上様の真の姿、きっとこの目で確かめてみせます。お前のような山怪の言葉など信じるわけにはいかないのです!」

 稀は、土間を後ずさりしながら柄杓を握りしめて身構えた。

 お袖は、二人のやり取りをぽかんと眺めている。二呼吸ほどして、封がやっと気づいた。

「ああ!社にいた瑞雲の妹!」

「ええっ」と、お袖も思わず声を上げる。

「来たらあかんて言うたのに!」と封は憮然とした声を上げた。

「だから、さきほど…」

 そこに八太夫が戻ってきた。八太夫の懐に隠れていた十寸が、小さな声を上げる。ほぼ同時に封が大声をあげた。

「こいつ瑞雲の妹や!来たらあかんて言うたのに!」


 混乱したやり取りが一区切りついた。八太夫は、表を確かめて木戸を閉めた。お袖はざるの野菜を煮始めた。稀は囲炉裏端に案内され、無言で目の前に出された水の入った湯呑みを見下ろしていた。

「お供で来られた御家来衆は、門の向かい側のお長屋で集まっとって。間違ごうてこっちに来て良かったかも知れんのう」

 お袖が、無言で一杯の飯と、菜と魚を煮た椀物を稀の前に並べ、箸を椀に並べた。囲炉裏の向かい側に八太夫の分、少し控えた土間近くに自分の分を並べた。封は、板の間の隅の壁にだらりともたれている。

「まずはお召し上がりを。この子のことは食べてから…」

 稀は、一気に煮物と一膳の飯を平らげた。お袖は慌てて、残りを掬い、飯も稀の茶碗に盛り分けた。

「こ…、これは誠にご兄妹…」

「あ、ああ、ほんまに、大食らいがそっくりや」と、お袖が気づいて笑った。稀は、頬を少し染め、

「す、すいません」と恥ずかしそうに顔を落とし、初めて緊張を少し解いた顔をした。

 稀は、改めて部屋の隅で膝を抱える封を見据えた。八太夫は、その視線を遮るように座り直すと、

「お、お嬢さん。瑞雲…、兄上は間違いのう魔物になってしもうてます。恐ろしい『陰の壺』っちゅうもんで、人間を殺す寸前まで追い込んで、魂が抜けたところで『沸魄散』で肉体だけ甦らして、魂の抜け殻みたいな、なぁんでもいうこと聞く下僕『ながらうもの』を作ろうちゅう企みやったんです。兄上は、自分が下僕にされかけた時、こっちにあった沸魄散を全部吞み込んで、陰の壺を支配しとる丿紫丸を殺して、自分がその座に納まりよったんです。今度はお嬢さんに『沸魄散』を持ってこさして、改めて『ながらうもの』を大勢作ろうとしとるんです」と、順を追って説明し、更に投げかけた。

「そんな魔物に会うてどうなさる。改心させよっちゅうんですか。『沸魄散』を差し出そっちゅうんですか」

 稀は、つい今自問自答していたところにもう一度立たされた。稀は、涙を目に浮かべながら、それでも自分の意志を探り出した。

「あ、兄を、改心させます!!それが、叶わぬ時は死ぬ覚悟で参りました!」

 室内に稀の決意が張り詰めた。

「そ、それは立派なお志し…、」と言いかけた八太夫を制して、お袖が立ち上がり、八太夫の隣りに添うように座ると、

「改心なんぞせえしません。あの男は、澱を…『沸魄散』を探すためなら、庄屋の旦那様もお代官様も…、十四の娘も騙した挙げ句、突き殺したような男。あんたが死んでも、呪いの壺に足されるんが関の山…」とここまでを一気に喋ると、ぼろぼろと涙を流し、

「おやめなさいませ…」とかすれた声で言い切ると、八太夫にしがみついて顔を埋めた。

 八太夫は、お袖の肩を抱き背中を撫でながら言った。

「お嬢さん…は、『沸魄散』について、ようご存じで?」

「『沸魄散』は、一子相伝。ましてや女の私は…、詳しくなどありません」

 稀は、また一つ弱みを突かれた気がした。俯いたまま目を逸らすと小さく息を吸った。

「あの子が…、『沸魄散』、澱を生み出す生き物そのもの。何百年も閉じ込めて、あの子が生きていくために生み出した澱を奪いに奪って作ったもんが『沸魄散』。しかも、身分の高いお公家さんのためだけの薬。そのうえ、その薬を呪いの道具にするやなんて、可哀そうすぎるて思いまへんか」

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