第38話 思い出せないの
***
レーヴェンタール伯爵家の別邸では、秋の色合いが日増しに濃くなっていた。アガーテは手ずからネバリノギクを花瓶に活けていた。
夏、ともにいてくれた友人のオストヴァルト侯爵夫人がやってきていた。アガーテが
「元気そうで何よりね」
香り高い紅茶を口にして、侯爵夫人は笑んだ。
「まぁ、ね。悲しがってばかりでもいけないし——」
アガーテは微笑み返し、手を洗って友人の向かい側のソファに腰を下ろした。侍女がアガーテに暖かい紅茶をいれる。
「夏、離宮でゆっくりしたのがよかったのかもしれないわね。第二王子殿下のご厚情に感謝するべきだわ」
友人はそういった。アガーテは少し困ったように微笑む。
「あの話は言わないで。今でも恥ずかしくてきちんと思い出せないの」
そう言いながら、アガーテは顔を覆った。
夫はあの後、二週間ほど滞在して任地へ帰っていった。
アガーテの実家のブリューム子爵家にも数日ほど泊まり、エリアスは縁談がある兄に祝いの品と整髪剤を贈った。
一家全員が失笑する中で、夫は義弟として手ずから兄のまとまりのない髪を整えた。夫に縁談の極意を箇条書きにして書いてもらい、兄はそれをお守りのように大事にした。そして、——兄は見事に縁談に失敗したのであった。
外交官である夫は敗因を冷静に分析した。兄はお見合い相手を前に緊張で別の女性の名前を連呼していたのが大きな敗因だった。兄はやけ酒をくらい、義弟たる夫はやけ酒に付き合った。次の日、酔った二人をアガーテは叩き起こした。——などという平凡な日々は愛おしかった。
とはいえ、不思議なことがあった。てっきり一緒に行くものだと思っていたのに、夫は何故か、アガーテを先にブリューム子爵家に行かせたのだ。本人は洒脱な礼装を着て、こういった。
——約束を思い出した。ちょっとくだらない劇を見に、ある劇場に行ってくる。そうしたら遅れて子爵家へお邪魔する。申し訳ないと皆様に申し上げて。
——誰と約束してたの?
——長年の恩人と。
疑問ばかりがアガーテの頭を駆け巡ったが、その後、遅れて子爵家に来た時の、エリアスの屈託のない明るい表情と、そのあとの兄の縁談をめぐるどたばた騒ぎで、すっかりそれが晴れた。
実家から帰ったあとは、本当にふたりだけの時間を過ごした。
——いま身ごもっていたら、確実にエリアスの子供だわ。
今、とアガーテは眉根を寄せる。自分にはエリアスしかいない。いないはず。
「アガーテ、何をずうっと照れているのよ」
友人が顔を覗き込んできた。友人は訳知り顔で微笑んでくる。
「うふふ、アガーテ、聞いたわよ。離宮で休んでいた時、第二王子殿下やジークマリンゲン大公女殿下のお話相手になっていたとか——」
「……ちょっとお茶の時間に呼ばれただけよ」
「あらまあ、謙遜しちゃって。おふたりとも、どんな方だったの?」
「ジークマリンゲン大公女殿下は本当に愛らしくてお優しいお方だったわ。第二王子殿下は……、ええと……?」
覚えていない。
「……ちょっと、しっかりなさって。アガーテ。せっかくお話を聞こうと思っていたのに」
どうして覚えていないのだろう。非常によくしてくれたはずなのだが。
その瞬間、丁寧にエリアスが蓋をしてくれていた記憶の壺が、ぱっくりと開いた。
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