第8章 私には年下の美貌の恋人がいる

第39話 捨ててしまおうと思った

 捨ててしまおうと思った。


 適当に主君には言い訳しておこうと。


 ——お渡しはしました。伯爵夫人はありがとうございますとおっしゃったきりで。


 それとも。


 ——伯爵夫人にお渡しする前に、物盗りに盗まれてしまいました。


 こちらがいいだろうか。


 伯爵夫人に無礼にならず、うまく主君と夫人を引き離す方法はないものだろうか。


 あまりにまだ未熟で、いとけない主君に渡された紫水晶の指輪。これは主君の身の破滅をもたらすもの以外の何物でもない。

 これをマルタがあの優しく美しいレーヴェンタール伯爵夫人に渡したとしよう。伯爵夫人は主君の運命の女ファム・ファタールでありすぎる。また磁石のように惹かれあってしまうだろう。


 何度も陰に陽にいさめてきた。主君に。人妻を恋するのはお止めください、と。だが、幼児のうちからいままでマルタを煩わせたことなどほとんどない主君は、意志強く首を横に振る。

 マルタはそれに何も返せない。幼児のうちから真面目で聞き分けのいい王子を見ながら、ずっと望んできたことだったからだ。


 ——ゴットフリート様が、何でもいいから、もう少し何かを欲してくだされば。自己主張なさる機会があれば。


 それがこんな形で。


 どうして。何を間違えた。自分が王子を教育するにあたり、何を間違えたのだろう。


 紫水晶の指輪をまた見る。


 すると、声がかかった。王妃からだ。


「マルタ、あれ……、わたくしの次男、そう、ゴットフリート。ゴットフリートは息災か?」


 マルタは唖然とした。次男の名前を忘れるなんて。自分の生んだ子ではないか。


 優しく美しいレーヴェンタール伯爵夫人を思い返す。彼女ははじめて、ゴットフリートを女だった。


 というなら、マルタも主君として世話しこの上なく慕っている。姉のドロテアもゴットフリートを愛していた。けれど、マルタはたぶん、役目を罷免され、別の役目を任されることになったら粛々しゅくしゅくと従うだろう。そう教育された。ドロテアは、兄の王太子のほうばかり眼を向けている。


 そうではなく、人間としてゴットフリートを見つめ、その関係を思い悩むまでに考えてくれるのは、伯爵夫人が初めてだった。


 ——殿下、申し訳ございません。


 ***



 秋は気候が変わりやすいのか、昼間は晴れていた筈なのに、夜は冷たい雨がさらさらと降ってくる。


 今年の聖ディルゲン祭はとても盛況だったようだけれど、とアガーテは窓にもたれて、降りしきる雨を見た。

 聖ディルゲン祭。この国の守護聖人の記念日を祝う祭だ。貴族から庶民まで、こぞって大騒ぎをし、祭りに参加する。

 レーヴェンタール伯爵家の使用人達も浮き立っていて、アガーテは皆を祭へと送り出した。


 だが、日が傾き始める頃に、雨が降り始めた。使用人達はなかなか戻ってこられないようで、迎えをやらせることにした。


 迎えが皆を連れ戻しにくるのを待っていた時、呼び鈴が鳴った。

 ちょうど居間で読書をしていたアガーテは、ふとその鈴の音に小さな恐怖を覚えた。

 呼び鈴を鳴らしたのが王子ではないかとありえない予測をしたのだ。


 エリアスが蓋をしていた記憶は、——全て思い出した。罪深い自分。激しい官能。若い王子の肌の熱さ。もう二度とやらない、と己を厳しく律し、記憶から追い出さなければ、自分が保てなかった。


 自分の下腹に手をやる。何もその兆候は来ていないが、もし王子の胤を宿していたらと思うと震え上がる。たった一ヶ月ほどの同居生活で、王子の肉体のどこもかしこもをアガーテは身体の奥深いところで知ってしまった。どこを責めれば彼は奮起するのか、どうすれば彼はその瞳を蕩けさせるのか。その事実に、アガーテは錯乱しそうになる。そんな事実などいらない。認めたくはなかった。


 玄関まで赴くと、そこに立っていたのは、ずぶ濡れの老いた女だった。


「まあ、なんってこと」


 誰だかわからないが、アガーテは老いた女に近寄り、「大丈夫ですか」と声をかけた。


「ここはレーヴェンタール伯爵の別邸です。おわかりになられますか?」

「——わかっております」


 アガーテはどきりとした。

 王子の傅役、マルタの声だった。


 だが、マルタ自身に含むところはないので、アガーテは彼女を追い返そうなどとは考えなかった。むしろ知り合いなだけあって、冷たい雨に降られて哀れだという気持ちが優った。


「大丈夫ですか、傅役どの? 今、湯を用意いたします」


 マルタを浴室に案内し、清潔な衣服を用意した。彼女が身支度を整えると、客間に案内する。

 開口するなり、マルタは静かに頭を下げた。


「申し訳ございません、お手間を取らせまして」

「いいえ」


 アガーテは微笑んで、残っていた侍女にショコラをいれさせた。マルタに差し出す。彼女はショコラの入ったティーカップを受け取り、ゆっくりと一口飲むと、ふう、とため息をついた。


「大変ありがとうございます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る