第33話 ひどくつらい悪夢
エリアスはアガーテを愛する方法を、いくつも知っている。彼のためなら、アガーテは気高き女王にも、卑猥な奴隷にもなれた。だというのに、あまり閨を共にはしてくれない。
アガーテを淫蕩な女だと思っているのだろう。少し外国へ出ただけで、別の男を閨へ招じ入れた女だ。好かれるわけがない。
しかも政情不安の国に自分が赴任しているというのに、妻は若い男と交歓に耽っていたのだから、許されるはずもない。
誓って王子以外との男性と関係を持ったことはないが、そういうことをする女だと見抜いていたのではないだろうか。
エリアスをひどく裏切ったというのに、彼はその夜、アガーテの閨を訪れた。するりと妻の横に滑り込んできた夫に、優しく抱かれた。
夫のそっとした手つきは、すぐアガーテをとろけさせてしまう。
すでに恍惚として、理性を完全に失くしているアガーテに夫は囁く。
「離宮では様々な感情を味わっただろう。君は様々な人に責められたはずだ。だから責めることはしない。それに——」
「……っ」
「私は君を責める資格はない。だから、私を裏切ったと自責しなくともいいし、悲しまなくともいい。恩寵を受けたと考えなさい——」
「……おん、ちょう?」
「恩寵。君がそのお方の子を
「……いやぁ……エリアスのこどもじゃないと……いやなの……」
エリアスが心底から苦笑の表情を見せた。
「そんなに君から愛されるようなことをしたかなあ? 私。それともまた、かのお方を弄んだだろう可愛らしい悪魔が出ちゃってる?」
今度は彼のしっかりした指が、彼女の細い首筋を滑った。
「恩寵を受けるたびに、私が全部上書きしてあげるよ。だから、お願いだから、帰ってきた時みたいな惨めな顔をしないで。——うん、覚悟はしていたけれど、これは心底嫌だな」
アガーテの白い首筋や鎖骨にゴットフリートがつけた跡があった。
「人の妻に何をしているんだ。付け直してあげるから」
エリアスの唇が、首筋を這う。エリアスの物として書き直されていくアガーテはくすくすと淫靡な笑い声を立てた。
「ねえ、早く——」
自分の中に夫を誘おうとすると、夫はアガーテの髪を鷲掴みにし、うっとりしている彼女の頬を軽く叩いた。
「本当に君は男を惑わすね。惨事が起きても嫌だから、私以外にはこうならないよう、かなり教え込んでいたつもりだけどな。でも、彼にはこういう姿をみせたの?」
「……んん、だって、王妃さまが、あなたの命をうばうというのだもの……」
「素直すぎるのも良くないよ。三百年も昔じゃあるまいし、ただの王妃や王子に、外国に駐在する外交官の命までを奪う力はない。任地の変更をできる程度。勘気をこうむれば、任を解かれて君と静かに過ごすことにはなるかもしれない程度。何せ、かの国と、わが国につながりのある暴力集団や過激派の行動を監視しているのは私たちなんだよ。外交官が殉職することはままあるけれど、それは不幸な事件に巻き込まれたか、保身や自制を怠り、相手国の暗部に入り込んだからだ。グリューンガウとこちらの外交問題に発展しかねないし、国内で犯罪でもでっち上げて牢屋に投獄した方がリスクは低いよ。安心して良かったのに」
「……エリアスはくるしくないの? かなしくないの……?」
理性が溶けていても、女は涙を流した。夫はその涙をやさしく指で拭う。その灰色の瞳が非常に鋭く冷たかった。
「悲しいし、苦しいよ。今、あの女の息子を殺してしまいたくて、すべての臓腑がひっくり返りそうな気分で、理性で抑えているところなんだよ」
エリアスは整った眉を寄せた。その温かい手が、アガーテの頭をつかんだ。そして、アガーテの乱れきった心を整え、しっかりと鍵をかけるように囁く。
「……さあ、アガーテ、いい子だ。今まで何もなかったんだよ。君はひどくつらい悪夢を見てしまっていたんだ。私がグリューンガウにいる最中、君は王妃のところや友達のところへ行ったり来たりして、留守番をきちんとしていた。けれど、やはり体調が思わしくなくて、転地療養をした。その先で、やはり倒れてしまった。そんな不安定な心身だから、悪夢を見るのは仕方がない……」
朝日を感じて、ゆっくりと目を覚ます。レーヴェンタール伯爵夫人のアガーテは寝台の上で伸びをし、あくびをした。
悪夢を見た。慕わしい王妃に酷いことを言われて、美貌の第二王子の閨の指導をさせられ、些細なことから夫への不信がひどく増して、ついには夫を裏切り、周囲にも責められて、ひどく煩悶する夢を。
頬を真紅に染めて顔を覆う。
——なんという夢を見ているの。無礼で破廉恥にもほどがあるわ。王妃様にも、第二王子殿下にも。そしてわたくし、そんな愚かな女ではないはず。嫌な夢。
昨晩は、グリューンガウから一時的に帰還した夫と、久しぶりに濃密に閨を共にしたから、少しだけ体がだるい。声を出し過ぎたのか、喉も乾燥している。
こんこんと扉を叩く音が聞こえて、「どうぞ」と答える。女性の使用人数名が入ってきて、ご機嫌な顔で「おはようございます、奥様」と声を掛けてきた。
「おはよう。エリアスは?」
「旦那様は食堂で首を長くしてお待ちです」
「あら、急がないと」
アガーテはすぐに跳ね起きた。使用人達はすぐに夏用の朝のドレスをアガーテに用意し、濡れた布で女主人の花の顔を清めた。使用人が軽口を叩く。
「保養地からお戻りになられたばかりですから、旦那様に襲われたらお逃げくださいませ。風邪を召されます」
アガーテは吹き出す。
「エリアスになら何度襲われてもいいわ。でも、……そうね。流産したら一年くらいは身をいといなさい、ってお友達に言われちゃったのよね。無理はしないようにしないと」
「そうです。私の母親も、私の弟を流産しまして、しばらく調子が悪くて。奥様のことを心配しておりました」
「お土産があるから差し上げるわ」
「ありがとうございます!」
使用人はアガーテの黒く長い髪を梳り、薄く化粧をする。
いつもの通り、本当にいつもの通りの、安心する、少し退屈だが幸福な日常だ。
少し緩めの朝のドレスに身を包んで、寝室から下の階へ降り、食堂へ向かうと、夫が新聞を読みながら珈琲を喫していた。
「おはよう、アガーテ」
アガーテは夫を後ろから抱きしめて、頬に口付けた。夫もアガーテの頬に口付けを返す。
「おはよう、エリアス。何の記事を読んでいたの?」
「……経済の動向。そうだな、アガーテ、今日と明日、空いてる?」
「空いてる!」
「今日は君のご実家にアプリコットのお礼に行って、明日は少し画廊に絵でも見に行かないか?」
平凡な日常の、小さくとも心が満たされる喜び。アガーテは翡翠色の瞳を大きく見開いて、喜色をたたえた。
「そうしましょう。お母様とお父様とお兄様に久しぶりに会えるわ」
「
「えっと、ああ、お兄様が縁談があるとか……」
「……うまくいくように義兄上に整髪剤でも差し上げるか」
「そうしてちょうだい! まったく兄様ったら、寝癖のまま外出するのよ。明日の画廊は? どこにあるの?」
「ヘルヴァルト通りの方。別邸から馬車で三十分」
「随分と首都の端のほうにあるのね」
「だから
アガーテは席に座り、微笑んで朝食に手をつけた。
今日はゴットフリートが帰還し、国王への挨拶に参内する日で、明日からは第二王子の誕生祝賀の行事が始まるということを、彼女は知らなかった。
いや、エリアスが、その情報をすべて隠し通していた。
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