第30話 こんなひどいわたしの幸せを

 空が黄金色に染まりかける頃、ヘンリエッテと父親、その他の客が去っていった。ゴットフリートは自室に戻ってため息をついた。身軽な衣装に着替えて図書室へと赴く。


 いくつか本を取り出して図書室を出ると、女官が廊下で話しているのが聞こえた。


 ——まったくなんなのかしら。レーヴェンタール伯夫人。

 ——ご年齢をわきまえず、ご夫君がいる身でありながら、まだお若い殿下と、毎晩、ねえ? どれだけそちらの欲がお強いのかしら?

 ——真面目な殿下を乱れさせるのはそれほどそそることなのかしら。

 ——レーヴェンタール伯爵閣下が、あの女に殿下共々復讐するなんて事になったら見ものだわ! 殿下はお守りしなければならないけれど。


 ゴットフリートはおもわず本を取り落としてしまった。その音に気づいた女官たちはまるで機械仕掛けの人形のようにこちらを向いた。女たちは、明らかに驚愕していた。


「……殿下」


 王子の紫水晶の瞳は凍っていた。女官たちに吹雪を吐き出すかのように、唇が開かれた。


「そなたらは浅ましい無駄口を叩くために働いているのか?」

「申し訳ございません、殿下」


 着飾った女官たちは半袖のシャツとスラックスとベストという身軽な姿の王子の前に身を投げ出す。まるで立て板に水のように、静かに美貌の王子は続けた。


「あまり僕の客人について耳を覆いたくなるような不当な文句を言うなら、僕のそばに仕える必要はないのではないか?」

 女たちは恐慌をきたす。

「……殿下! お許しを!!」


 冷静な調子のまま王子は容赦をしなかった。


「二度としないというのだろう。だが、そなたらは三度するだろう。そういう生き物だからだ。女のいらぬ喋りを僕は嫌いだ。王妃陛下もいらぬ喋りがうるさくてな。僕はそれで不調になる。それを知らぬのか?」


 王子は身を翻し、自室へと戻っていった。女官たちの前に傅役のマルタが顔を見せ、ため息を吐きながら、大きく首を横に振った。

 自室へ戻ったゴットフリートは本を机の上に置いて、苛立たしげにソファに座った。控えている侍従に、アガーテを呼んでくるよう命じる。

 毎日、自分のいないときに、あの恐ろしい悪口荒言を聞いていたのだろうか。愛しい女性ひとは。

 焦燥を覚えながらアガーテを迎える。彼女のドレスは、いつもの洗練された質素さとは違ったくすんだ灰色で、これといって面白みのないものだった。


「——アガーテ」


 白い頬に手を伸ばす。そっとそのあかい唇を奪い、優しく吸う。


「……貴女に酷いことを言っている女官たちはすべて解雇しておくから」


 彼女はうつむいた。やや間があって、首を横に振った。


「なりません」

「何故だ?」

「そうすると、マルタどのや一部の方を除いて、殿下のお世話をする者がいなくなります」

「なるほど」


 ゴットフリートは眉根を寄せ、ため息をついた。

 アガーテは少しはかなげに微笑んで、頭を下げた。


「殿下の誕生祝賀会も近うございます。わたくしはそろそろおいとま——」

「ならば女官全員を解雇してしまおう」


 愛しい女は眼を大きく見開いた。翡翠色の瞳が揺れている。


「で、殿下、これ以上は。わたくしは調子も良くなりました」

「僕の相手を毎晩すると噂される程度にはな。だが、毎晩ではない」


 アガーテは頬を染めて顔を背け、咳払いをする。


「こちらの離宮に長居しすぎましたし、あまりわたくしのような無関係の者がこちらにいると、様々な方の御不興を買うかと」

「誰の不興を買った? 具体的に」


 アガーテは俯いた。叔父のジークマリンゲン大公か、とゴットフリートは見当をつけた。穏やかそうな叔父も彼女におぞましいことを言っているのだろうか? 娘をゴットフリートに嫁がせたいから?


 気にする必要はない、と彼女のなよやかな首に手を伸ばそうとすると、優しく手を握り締められた。


「殿下、わたくしは死のうと考えていました」

「——?」

「子供のところへ逝きたいと、夫からも誰からも忘れられてしまいたいと。殿下と関係を持ち、夫に責められる女となれば、夫はわたくしを忘れて新しい妻を作りましょう」


 今からでもそうするがいい、離婚をしろ、とゴットフリートはアガーテに縋りそうになる。

 なよやかな指が、ゴットフリートのつむじを優しく撫でた。


「……でも、あなたは、こんなひどいわたしの幸せを真面目に考えてくれるのよね」


 少年はその言葉に、紫水晶の瞳を輝かせ、頬を真紅に染めた。


「愛し方は不器用だけれど」


 アガーテは可愛らしい少年の唇に感謝のくちづけを与えた。少年はほとんど泣きそうになりながら、アガーテの肩を抱きしめる。


「アガーテ、僕は貴女と人生を——」

「だから、わたしもあなたのことを考えます」

「え?」


 ゴットフリートは首を傾げた。足元から何かが崩れていくような予感がして。


 愛おしい女が、厳しい母のような顔をしていた。実母には決して向けられたことのない慈愛と厳しさの混じった目が、ゴットフリートを見据える。


「あなたはこの国の第二王子です。将来はこの国を背負って立たれる方です。だから、前を向いてください。上を向いて、希望を持って、大人になって、もっと強くなってください。あなたはあなたが思うより、もっと多くの人に必要とされています。だから、わたくしをただの子供時代の最後に閨事を覚えるための道具だったと考えて、もっとあなたをちゃんと愛してくれる人のところへ行きなさい」

「僕は貴女から愛されている! こんなにも!!」


 その愛がどんなものであれ、ゴットフリートにこんなことを言ってくれる人はいなかった。少なくとも母は、こんなことを言ってはくれなかった。自分を心底必要としてくれる人など、いなかった。アガーテだけが、自分を必要としてくれた。

 彼女は懐から何か取り出した。ゴットフリートが回収していた筈の結婚指輪だった。彼女は左手の薬指にそれを嵌め直す。


「やはり、わたくしは夫を愛するのをやめることができないのです」

「——やめてしまえ」


 紫水晶の瞳に金剛石ダイヤモンドのような涙がたまり、白い頬を滑り落ちていく。アガーテはそれを拭うことはなかった。


「……苦しい思いばかりするなら、夫を愛することなんかやめてしまえ!」


 アガーテはくすくすと笑った。ゴットフリートにはそれが悲鳴のように聞こえて、酷く哀しく思えた。


「嬉しい思いもいっぱいしていますよ。もうすぐ夫が帰ってくるのです。楽しみです」

「嘘をつくな」


 ゴットフリートはアガーテの肩を揺らした。


「楽しみなら、なんでそんなに怯えた顔をしているんだ」


 アガーテの顔は、微笑みながらも蒼白に染まっていた。

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