漂い消えゆくもの

時折射す一瞬の灯火が、その輪郭を照らす。


細い煙が空間に、にじんで消える様を

ただ、ぼんやり眺める。


3本目の IQOSメンソール。




流石に12時間の乗車は長く

不本意ながら、喫煙可の個室を取った。


数時間なら我慢するし、新幹線のように喫煙ブースがあるなら

そちらを利用するのだが。




夜の車窓に点在する、星空のような灯りが

少しずつ増え始めると、煌々と照らされた

人気のないホームを通過する。

そしてまた、街灯が遠く散りばめられてゆく。


そうして街から郊外へ、そして街へと

列車が移動している事を、規則正しい揺れの中で感じる。




辿り着いては過ぎてゆく街の中には

見知らぬ誰かの、寂しさや安らぎがあるのだろう。

そんな事ばかり思う。


通り過ぎた、どこかの街に君もいるのだろうか。




夜の静けさに、身を委ね

安らぎを求め始めたのは、いつ頃からだろうか。


子供の頃は暗がりが怖かった。

お化けが出そうだ、という子供らしい理由で。


家族が寝静まった、深夜のラジオを聞くようになった12歳くらいのような気がする。


誰もいない、誰にも邪魔されない

自分だけの夜に魅了されたからだ。



夜は良いな  何となく口にした。

煙と共に漂い、線路の音の中に消えていった。




「地の文が苦手」というフレーズをカクヨムで知った。

そもそも “ 地の文 “ とは何なのか。


調べたところ

『 会話以外の説明や叙述の部分で

大きく分けて情景描写、心情描写、説明文

などの機能があります 』



それは小説の本体そのものではないか。


地の文が苦手、という事は

会話、台詞の部分は苦手ではないという事で

小説の主と副が、逆ではないか。



少なくとも、複数の登場人物の関係性を綴る物語なのだろう。

それだけ、人との関わりを切望してるという事なのか。

現代的でもあり、世代間格差を感じる。



小説の原点は、作者の願望の投影である。

どこか、そういう

人との関わりを素直に表現する、彼らを羨ましく思う。

そして所詮、人種が違うのだとも。




尾崎豊の 『 時 』という曲がある。


尾崎は、君と僕という

相互視点で作詞をしていない気がする。


通り過ぎてゆく人混みの中

君は僕に気付くだろうか

離れようとしては傷つく痛みに

時は流れて__



この世界から隔絶された自分

という、尾崎自身の視点から見えるものを

描いていると思っている。



一体、何を思い この曲を書いたのか。

それは分かり知れぬ事だが、

この曲に共鳴してしまうのが、俺なのだ

という事だけは分かる。



繋がりの中で、生きてゆけるのも運命なのだ。

それが叶わない者も、この世にはいるのだ。

それでも、暗闇の安らぎだけは自分のものだ。



流れる眩しさに目を伏せる。

また、どこかの駅を通過したようだ。

そして、コバルトブルーの夜の車窓が続く。



いつも漂い消えてゆくものばかり



君は今どうしているのだろう__

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る