3-3. 刃と爪

 正面に狼と化したリカルド。

 背後にオルガ。

 左には二つの倉庫。

 右には使われていない山積みのレンガ。


 風はほとんどなかった。

 まだらな雲の合間に、もうすぐ満ちる月が上っている。


 リカルドが胸を開いて息を吸い込み、両手を閉じて腰を落とした。

 重量を受け止める両足が、土を深く抉る。


 市は、ついにオルガや村人たちとこの怪物たちを理解できたと思った。

 なぜジュゼッペがこの村に行くよう頼んだのか。

 それはまぎれもなく、この村の人々が、人狼たちによって蹂躙されようとしているからだ。そして、それを助けようという者は誰もいないのだ。


 市はリカルドの強烈な敵意と悪意を全身に受け、怒りが耳元までこみあげてくるのを、必死に抑えつけていた。

 

 人狼が市に近づき、止まった。

 木々を通り抜ける風の中で、歯を噛みながら向かい合う。


 両者の間に、もう和解という選択肢はない。


 リカルドが地面を蹴って舞い上がった。

 月を背に爪を振り下ろす。


 応じて市が抜いた。

 抜刀は月光を照りかえして斜め上に。


 刃と爪。

 その硬度には歴然とした差があるはずだ。


 だが。


『見くびるんじゃねえ……』

「ぬうっ……」


 相手が人であれば、肉と骨を断ち切ったはずだ。

 その白刃が。


『お前の腕は三度見てるんだ。ロレンツォの家と、賭場と、刑場でよ……』


 リカルドの爪一本が、市の刃と拮抗している。

 人ならぬ膂力。

 市の刀は、このような相手を想定して作られてはいない。


 ジュゼッペの言葉が市の脳裏を駆け巡る。

 夜目が効き、力は強く、足は速い。

 軽い刃物程度で傷つくことはない。


『喰らいな、チェーコ……』


 逆の手が市のこめかみに迫る。


「ぬうっ!」


 市が地面を転がり、積んであったレンガの山を崩した。

 崩れた直方体が土埃を立ち上げ、闇夜に塵が舞う。


 だが、これが市の有利を作った。

 リカルドは目で市を追う。

 市は目でリカルドを追わない。


 細かく殺気がぶつかってくる。

 体を這いずり回る不快な気配を突き破り、市が踏み込んだ。


 三度の斬撃が、今度こそリカルドの腕と胴と首へ。

 市の右手に、固さと柔らさを合わせたような、複雑な手応えがあった。

 遅れて人狼の姿勢が大きく傾いた。

 全身から霧のように血が噴き出した。


『くそっ……!』


 リカルドは出血したが、それでも倒れなかった。


 リカルドの肉体は、もはや人とは完全に別の物だ。

 狼の喉から、人間には作りえない殺意が伸びてくる。

 煮えた油のように熱く、さらにねばりつくような殺意だった。

 

『人間なら、この程度で死んでたぜ……』

「人間でなくても、この程度で死ぬと思ってたよ」


『月が見える限り、俺たちは死なねえ……』

「そいつはうらやましい」


 人狼が姿勢を下げて四つ足に。

 バネ仕掛けのように予兆なく曲線を描いて跳ぶ。


 市は後ずさり、躓いて倒れた。

 ガチンという高く短い音が聞こえた。

 鉤爪のような爪が石に深い痕を刻んでいた。


 身をひねったが、裂けきれない。

 肩を削られて皮膚がはぎ落され、びしゃっと地面へ落ちた。


『脆い体を恨みやがれ……』

「うらやましいと言ったのは、あんたに月が見えるからさ」


 狼が歯をきしらせ、噛みつきにかかった。


 牙が鉄に勝ることはないが、脅威はその組み合わせと咬む力である。

 リカルドの小さな門歯、巨大な犬歯、その奥の裂肉歯。

 美しく整合が取れて発達した歯は、ヘラジカの大腿骨でも一瞬で砕くだろう。 

 直接噛みつかれたら、どんな人間であれ引きはがす手立てはない。


 市は刀を地面へ突き立て、緩やかに両手を前に出した。

 両手で四肢の末端ではなく、肘と胸倉の毛をつかむ。

 わずかに圧力を感じたところで、腰の力を駆使してその突進を受け流した。


 柔術がふわりと獣を回転させ、地面へと転がす。

 狼が立ち上がろうとするが、市が狙っていたのはこのタイミングだ。

 もう一度刀を手に取り、横一文字に。


 肉を斬る鋭い音。

 市の顔を、喉から噴き出した大量の鮮血が染めた。


 手ごたえがあった。

 刃が肉に埋まり、骨に届き、それを斬り、さらに肉を通り、空間へ戻る。

 間違いなくその感覚があった。


 市は知っている。

 この感触が手の内を通り過ぎて、生きている動物はないと。

 いかに屈強な獣であっても、これで命は絶えるのだと。


 リカルドの頭が宙を舞う。

 栓抜きで引き抜いたコルクのように。


 ごろり。

 ごろり。


 斬られた面を下へ向けて、土の上に止まる。


 だが、市は別のことも知っている。

 ジュゼッペが言っていたことを。


 決着はついていない。

 

『なかなかだな……』


 地面の上に降りた頭から、それまでと変わらない声。

 黄金色の目が大きく開き、耳がゆらりと立ち上がる。


「うむっ……!」


 さしもの市も息を呑んだ。

 オルガも目を見開いて身を竦ませる。


 首のない胴体が立ち上がった。

 自分の頭を手に取り、それを首の上に乗せて押し付ける。


『言ったろう。死ぬことはねえとよ……』


 人狼の息が再び肺から吐き出される。

 熱い肉の臭いが市の頬に届く。

 四つ足に戻っても、その首は胴にとどまっていた。


「おじさん逃げて! こんなのかなうわけないわ!」

「オルガちゃん」


「おじさん! もういいの! もう十分よ!」

「そうはいかねえよ。いかねえが、しかし、参ったな……」


 リカルドが動いた。

 市も動いた。

 突然現れたつむじ風のように、同じ方向に回り始めた。


 突然、リカルドが土ぼこりの中を立ち止まり、まっすぐに右手を振った。

 市の体が吹き飛んだ。


「おじさん!」


 オルガが息を呑んだ。

 爪の直撃ではなかったが、手のひらの圧力をまともに受けた。


「ぐぬっ……」


 市が声を上げて身を縮め身を守った。

 リカルドの手がさらに追ってきた。

 市は包丁を組み込んだ砲丸のような手を何度も叩きつけられた。

 両膝をついて、地面を転がされた。

 頭がまだ朦朧もうろうとしていた。 

 大きな傷だけで三つはあった。

 さっきの一撃を喰らっていたら、もう命はなかったはずだ。


 リカルドが奇妙に口をゆがめた。

 なぜここまで無謀な立ち合いを挑むのかという表情だ。


『あきらめな、そろそろ……』


 大きく爪を振る。

 市は刀で一撃を受け止めたが、怪力が徐々に市の全身を押しつぶしていく。

 オルガが張り詰めた悲鳴を出し、リカルドは唸り声を絞り出して市をねじ伏せ、噛みつこうとした。

 あとわずかで、牙が市の喉へめり込む。


 だが、その時。

 市は左手を刀に添えず、懐に手を突っ込んでいた。


「なあ、リカルド」

『いまさら命乞いか……?』


 市の表情には余裕がある。

 リカルドがその態度に戸惑い、ぴくりと鼻へ皺を寄せた。


 一瞬。

 市が懐から銀貨を取り出し、親指で弾いた。


「さっき巻き上げた、こいつを返してやるよ」


 市が仕込み杖を銀貨に叩きつけた。

 丸い金属が、リカルドの心臓めがけて押し付けられる。


『しまった、貴様……!』


 胸に当てた銀貨が煙を立て、火傷のように円形の黒い痕を作っていく。

 リカルドが初めて苦悶の表情を浮かべた。

 市は峰に手を当て、心臓めがけてさらに銀貨をねじ込んだ。


「残りの支払いも負けてやるぜ」


 市は力を緩めなかった。

 左手を峰に添えて、力のかぎり押し込んだ。

 

 リカルドの喉から奇怪な音が噴き出した。

 歯をむき出して、鼻をびくびくと痙攣させている。


 市は身を震わせながらさらに力を込めた。

 リカルドはまだ倒れてはいなかった。

 胸から蒸気のように吹き出した禍々しい煙に包まれていた。

 喉から絞り出すような声が鳴り響き続ける。


 やがて大きく背を反らせると、急にリカルドの体は苦悶の表情と共に傾き出した。

 市の両肩に手を置いて何かをしようと試みたが、もうその前足には力が込められないようだった。


 勝負はついた。


 市が刀に当てた手を緩め、狼から離れようとした。

 これで終わりかと、市もオルガが同時に深く息を吐いた。


 ところがそこで、妙な方角から声が上がった。


「こっ、この野郎! 動くなあ!」


 不意に、物陰から男が現れた。

 銃を持っている。


「アロンソさん?」


 オルガが叫ぶ。


「この犬公! こいつを喰らえ!」


 動転しているアロンソには、リカルドの懐にいる市が見えていない。

 アロンソの弾は、リカルドではなく市に向かっていった。


 市が素早く反転し、刀で弾丸を真っ二つに切り割いた。

 弾丸の半分は月へ舞い上がった。

 だが、運悪くもう半分は下へ。

 地面へ。


 オルガが投げ、飛び散った爆薬へ。


 閃光。

 轟音。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る