3-4. 無事と有事
市は硫黄の香りで我に返った。
最初に声が聞こえた。
覆いかぶさる影へ反射的に上体を起こし、見えない目を開く。
「市さん、大丈夫か」
ロレンツォの声だ。
市はそれを頼りに記憶をたどった。
崩れたレンガを爆薬が吹き飛ばし、一帯が煙に包まれたところは覚えている。
アロンソの銃弾が地面に激突し、撒き散らされた爆薬に引火したのも理解できた。
「あっしは大丈夫みてえだな。オルガちゃんとアロンソさんは」
「どっちも無事だ」
その言葉を受けてか、市のそばに二人が寄って来た。
アロンソがかがみ、顔を寄せる。
「チェーコ、すまねえ」
「お前さんにはもう怒る気にもならないよ」
市が苦笑しながら立ち上がると、死臭の方角へ顔を向けた。
市の横にロレンツォが隣に立つ。
「この服は、リカルドですね」
「ああ、人狼だったよ。察しはついてたかい」
「予想はしていたが、証拠がなかった」
「グイードたちは多分、全員人狼だよ」
市はリカルドの屍に近づくと、すっと手を伸ばし、その体表をまさぐった。
「なんか変だな」
その言葉に、オルガもおずおずとそばに寄る。
「変。どこがですか?」
「頭がない。腕もない」
「吹き飛ばされてどこかに行ったのでは?」
ロレンツォがすぐに言った。
「地面で爆発が起きたんだ。足が残って上が吹き飛ぶかな」
「銀で浄化され、塵になったのだろう」
ロレンツォがよどみなく続けたが、市には何かその説明では辻褄が合わないような気がした。
市が気絶する前の最後の記憶は、狼の咆哮が遠ざかっていく、というものだ。
その吠え声はリカルドのものではなかった。
「とにかく家に戻りましょう。リカルドは死んだが、これで決着じゃない」
家の中の喧騒は凄まじく、それぞれが何かしらの作業を始めていた。
男の中には人狼への備えと思われる手製の武器や防具を作っている者もおり、一方で荷物をまとめている者もいた。
「どうだった」
「リカルドは人狼だった」
男たちが声を立てて立ち上がり、女の悲鳴が続く。
「グイードたちに機先を制されるとまずい。
報復が来る前に準備にかかるぞ」
ロレンツォが大声で告げた。
「そうか、しまったな……」
市が後悔を込めてつぶやいた。
怒りに任せてリカルドと斬りあったことで、事態は早まってしまったのだ。
いまさらそれを理解した。
リカルドは、単独で行動していたのではない。
その死を確認して、別の仲間がその証拠、つまり体の一部を持って行ったのだろう。
複雑な思いのまま、床に直接座り込んだ。
「戦う覚悟のある者だけ残れ。
女子供と老人は海沿いの一本内側を通って、ピサと反対のリボルノへ行け。
グイードたちは、逃げる先がピサだけだと思い込んでいるはずだ」
ロレンツォは集まった全員を三度見回す。
水をうったような沈黙に続き、男たちがうなずきながら立ち上がった。
市も立ち上がり、村人の邪魔にならないよう隅へ体を寄せた。
何かあれば自分も加勢しなければならないと自分に言い聞かせた。
ここまで話が固まっているのであれば、もう止めることはできないと判断するしかなかった。
「カルロ、銃と銃弾を配れ。
銃弾は銀が一人三十発。練習用の鉛弾を五発。
構え方と撃ち方はこれから教える。
ファビオ、爆薬を倉庫から出してくれ。慎重にな」
集まっていた男たちにピストルが配られた。
男たちが指示に応じて整然と並び、組織へと変わっていく。
ロレンツォは最後に、アロンソへピストルを渡した。
「今度こそ役に立って見せろ」
「ロレンツォ、俺でいいのか? 本当にこいつを使っていいのか?」
アロンソは青ざめた顔をしながらも、それを手に取った。
「もちろんだ。それと対決の前にリカルドの家に行け。
巻き上げられたものを取り返してから加勢してくれ」
アロンソが驚いた顔でロレンツォを見た。
「それじゃあいつらと一緒だ。もともと俺のものじゃない」
「私たちが勝った後のために必要だ。金も馬も」
「わ、わかった」
アロンソが立ち上がり、表へ向かった。
ロレンツォは続いて市とオルガのそばに寄った。
「ロレンツォさん、すまねえ。余計なことをしちまったな」
「どうせいつかはやらねばならないことです。
それより市さんに頼みがあります」
市の左手に何かをつかませた。
「オルガちゃんの日記だね」
「そうです」
「読めもしねえのに」
「いいや、あなたに預けたい。信用できる人に。
これを持って娘と逃げてください。
無事にすべてが終わればまたお会いしましょう。ただ、それが無理になった時は、ピサの人狼退治人ジュゼッペに後見をつけるよう伝えてください」
「そいつはダメだ。あっしらはピサで待ってる。あんたが迎えに来るんだ」
「そうしたいが、誰も成功は保証してくれません」
ロレンツォが厳しい声を出した。
「ピサへ行くには川を渡ってグイードたちの集落を抜ける必要があります。
我々がグイードたちと衝突したら、その隙に間道へ向かってください」
市はロレンツォの真剣な声に押し切られ、ついに首を縦に振った。
「何の貸しもないのに申し訳ないが、あなたしかいない」
「恩はあるよ。一宿一飯を恵んでくれたじゃないか。
それに、あんたはあっしのことをわかってくれた。
そういう人は多くないんだ」
ロレンツォが市の肩へ腕を回し、市の額に自分の額を近づけた。
「あなたと友人になれて光栄だ。娘を頼みます」
「……わかった」
短く言って、居間の隅に戻った。
「みんな外に出ろ。もう帰れると思うな」
女たちは衣服をまとめ、子供を連れて外へ。
残る銃を持った男たちが、めいめいに頷いた。
ロレンツォが奥歯を一度噛みしめ、それまでと全く違う声を響かせた。
「始末に行くぞ! 俺たちを愚弄した奴らを!」
村人たちが憤りを吹き上げた。
喊声が響き、足が床を鳴らした。
「人狼を殺すのは私たちだ!
グイードの首をトスカーナ大公へ持っていくのは私たちだ!」
再び全員が声を上げた。
足を止めるわけには行かない。
ここから先に必要なのは戦意だけだ。
ロレンツォが大時計の隣に立てた、巨大な金属の十字架を抜き取る。
先を鋭く研いだ、槍のような大道具を肩に担ぐと、ドアを蹴り飛ばして開ける。
家の周囲を慎重に確かめ、それから家から少し離れた大きな岩のそばにかがり火を灯した。
「全員が五回ずつ鉛の試射を終えてから川向うへ行く。
一回目で銃を理解しろ。二回目で弾込めに慣れるんだ。
そうすればそれ以降は、落ち着いてまともに当てられるようになる。
見ていろ」
ロレンツォが全員の前で、一発分の焔硝を銃口から注ぎ込んだ。
硫黄と硝石の強い臭いが市の鼻を刺す。
続いて弾丸を込めると右手で撃鉄を少し起こし、火皿に点火薬を入れ、さらに撃鉄を起こす。
流れるように左腕に右手を重ね、引き金を引いた。
ガンという鈍い音と同時に弾丸が発射され、かがり火に照らされた岩に命中した。
ざわめきが収まるのを待つと、ロレンツォは一人一人に銃を配り、丁寧に使い方を教えていった。
一度覚えたものは横にずれて次弾を撃ち、次々に岩に弾丸が反射した。
外れたものはほとんどない。
競技用の標的と異なり人狼は大きく、多少の誤差は問題にならなかった。
問題なのは、何度か不発になり、特に四発目以降はフリントと当たり金が熱変化を起こして不発を起こし易くなっていったことだった。
そうなると撃鉄のねじツマミを緩めてフリントの当たり具合を直す必要があり、これが村人たちを不安にさせた。
ロレンツォはその手順の説明に追われ、結局、全て五回の射撃を経験するまでに一時間以上がかかった。
それでもリカルドが死んでから、まだ大した時間は過ぎていない。
その短い時間にすべての行動は始まりつつあった。
「ジロラモ、聖体を配れ」
老いぼれた酔っぱらいの修道士がよたよたと歩み寄る。
震える手で聖杯を取り出し、中から全員に白いビスケットを渡していった。
キリストの体、キリストの体とつぶやきながら。
聖餅をかみしめながら村人たちは隊列を組み、ロレンツォが突き出した槍の先へ向け、歩を進めていった。
どちらが勝つかはわからない。
だが、村人たちがこの機会に賭けていることは市にも伝わってきた。
「せんべいみたいなのを食べるときに、みんななんかつぶやいていたね」
「アーメンって」
「どういう意味なんだい」
「わからない。わかりたくない」
左手の木々が途切れ、黒々とした闇の合間に月明かりが点々と落ちる中、集団が黙々と川へ向かっていく。
やがて分かれ道を示す木の道しるべが見えてきた。
その先の橋にさしかかり、ロレンツォが大きな足音を立てて踏み込んだ。
市とオルガも、その後ろを離れてついていった。
視界が開けると、集団は木々を透かしてカンテラの光が漏れるグイードたちの酒場を目指していく。
風は周りの木々に遮られ、ほとんど何の音もしなかった。
悪夢のような時間が始まるのだと、その静寂が語っていた。
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