人狼vs市

梧桐 彰

盲目の譜

1-1. 血と鉄

 怪物が立っている。


 屈強な体躯。

 闇の中、両目が火のように漂っている。

 深く固い黒毛に包まれた二足が、地面を握りしめている。

 大きく前に突き出た口が、わずかに動いている。


 月よ、と呟いている。

 月よ、俺の白い月よと。


 怪物の上下に二つ。

 一つは、西へ傾く上弦の半月。

 一つは、引き裂かれた死体。


 肉塊に残った温もりが、虫の鳴く音へ溶けていく。

 怪物の熱い息とともに。


 一八四八年、夏。

 イタリア半島、トスカナ地方、ピサ。

 物理学者ガリレオ・ガリレイが、この地で落体の実験をしてから二六〇年。

 怪物がいるのは、その街へ続く山道であった。


 砂利道には、むき出しの岩に作られた影が伸びている。

 風がわずかに吹き、左右の木々に微かな音を立てている。


 その中を。


 かつん。かつん。


 遠くから。


 かつん。かつん。


 ならされていない道へ木の音が響いてきた。

 怪物がその方角へ、逆だった毛に覆われた鼻を向ける。


『何者か』


 湿った声が山道を撫でた。


 人の気配はあるがランタンの灯りがない。

 遺体が持っていた松明も消えて、明かりは半月だけだ。

 その暗い中をまっすぐ近づいてくる。


『何者か』


 再度、怪物が誰何すいかした。


「へ、あっしでござんしょうか?」


 まっすぐに削られた白い杖の持ち主が、場に似合わない高い声を出した。

 ひょっと息をのみ、きょろきょろと首を振る。

 ぎこちなく頬をつり上げた。


 もういい年配で、でっぷりと太った大きな体、四角い顔。

 左手に杖を握り、口をぼんやりと開けている。


『そうだ。お前に問うたのだ』


 怪物は言いながら姿勢を下げ、牙を男の耳の高さへそろえた。

 男は、ほっ、と一つ息をつき、それから妙にはきはきと答えた。


「ははは、そうですか。あっしでようございましたか。

 あっしはね、按摩アンマですよ。

 腰とか肩とかにいただきますですね。

 あの、ここらへんのお言葉でいうと、マッサージでございます」


 言い終わると、男は深く頭を下げた。


 怪物は拍子抜けして言葉を止めた。

 自分の容姿に驚いていない。

 転がる死体にも驚いていない。

 そもそも、顔の向きが怪物からずれている。


 薄く開くまぶたの中には、黒目がのぞいていなかった。

 杖は足を支えているのではなく、その先を探っている。


 盲目なのだ。


「チェーコか」


 怪物は小さく口の端を歪めた。


「は、さようでございます。

 あ、耳と口は達者でございますよ。

 ただ、へへへ、このの言葉は、まだ慣れておりませんで、はい」


 微笑を絶やさずに男が答えた。

 杖を持っていない手を忙しそうに振りながら。


『東洋人。トルコ人か』

「は……とるこ……っていいますと、そいつはのことでございますかね。

 いや、いや、あっしの生国はもっとずーっと東の東。

 あなたがたがと呼ぶところですね」


『ふん。サムライというのか』

「ご冗談でしょう。こんな貧相なお侍はいませんよ」


『ではなぜ剣を持っている』


 男がぴくりと瞼を動かした。

 杖の先が、ガリっと地面をえぐる。


「……なんとおっしゃいましたかね」

『聞こえていたはずだ』


 男は一瞬真顔になった。

 顔に張り付けなおした笑顔は、先程よりもわざとらしい。


「持っちゃいませんよ。そんな物騒なもの」

『いいや』


 狼も目を細め、笑い顔のような表情を作る。


『鉄の匂いだ』


 男は、杖の先端に置いていた右手をそろり、そろりと下に動かすと、杖の中央を握りしめた。


「ずいぶん鼻がようござんすね」

『天性でな』


「こんなに血の臭いがする中で、よく鉄の臭いなんてかぎ分けられるもんです」


 ぴくりと目の端を引き攣らせ、怪物が死体へ目を落とした。


『血だと?』

「はい。血には鉄が入っている。だから臭いがよく似てるんです」


 男が答える。何ほどの事でもないという態度のまま。


『臭うのか』

「臭いますね」


『何者だ』

「もうお答えしましたよ」


『喋りすぎたな』


 怪物が地に四肢を下ろす。

 月の光が、四本の牙を照らした。

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