№29 恋の戦争、開幕

 ……なにかにのしかかられている。呼吸が苦しい。


 夢うつつの床の中で、ハルはロクでもない寝覚めを迎えていた。


「おっはよー、ダーリン♡」


 ……だんだんと状況がわかってきた。


 自室のベッドで眠っていたハルの上で、影子がにやにやしながら仁王立ちならぬ仁王座りで見下ろしている。腕を組んで、まさに魔王登場といった風情だ。


 いつも通り不穏な感じにゴキゲンな影子に、ハルは寝ぼけまなこをこすりながら、


「……影子……もう、いいのか……?」


 あれだけのダメージを負ったのだ、数日経ったとはいえ本調子とは言えないはずだった。


 しかし影子はけらけらと笑い、


「アタシにゃ、影の中でチンタラ惰眠をむさぼってるのはしょうに合わねえんだよ。ま、三割くらいは回復した」


「そっか、よかった……」


 安堵を覚えながらも、次第に現状の認識が進んでいく。


 あのとき、影子は自分の思いに決着をつけた。


 みずからを罰することによって、この思いを正当化しようと。


 それまではハルに対して一歩引いたところがあったが、今はそれがない。完全に吹っ切れたようだ。


 それがいいことなのかどうなのかはわからないが、とりあえず影子がすっきりしてくれたのはよかった。


「それにしても、つれねえなあ」


「……はい?」


 大げさに嘆いて見せた影子にハルが疑問符を飛ばすと、影子はにんまりと笑い、


「このけなげなアタシがわざわざモーニングコールしに来てやったってのに、キスのひとつもしやしねえ」


「直でコールするなよ!」


「おやおやー? でもご主人様のご子息は今日も元気いっぱいのご様子ですがあ?」


「こっ、これは生理現象だろ!」


 股間を膝でつつかれて、ハルは慌てて弁明した。過去にもこういうことがあったような気がする。デジャブ。


 影子はそのままハルをベッドの上に組み敷くように体重をかけてきた。そしてその真っ赤なくちびるを耳元に寄せて、


「昨日、アタシで何回抜いたか言ってみな?」


 吐息とともに嫣然とささやきかけられて、ハルは真っ赤になる。


「ふはっ、図星か!」


「う、うるさいなあ! だいたい、家には出てくるなって言ってあるだろ! もう着替えるから出てって!」


 無理矢理影子を押しのけ、ハルはベッドの上に起き上がった。いまだに主張する息子が心底邪魔だった。


 さして抵抗もせずおとなしくどいた影子は、ふたつの三つ編みと黒いセーラー服をひるがえしながらハルの影に沈み込み、


「……覗いちゃうかもよ?」


「やめてよ!」


 それっきり、影子はけけけと笑いながら影の中に消えていった。しばらく待っていても出てくる気配はないので、覗かれる心配はなさそうだ。


 そわそわしながら制服に着替え、ハルは思う。


 ついに影子が本気を出してきた。


 今までなあなあにしてきた関係に、ケリをつけるつもりだ。


 きっとこれから影子はぐいぐい来るだろう。あの性格だ、それはもうあからさまなアプローチの数々が待っているに違いない。ヘタをすれば無理矢理既成事実を……ということも考えられなくはない。


 ハルとて男だ、そういうシーンになればもう打つ手はない。ただなすがままに影子の思いを受け止めることしかできない。


 そうなれば、ハル自身も答えを出さなければならないだろう。


 影子のことをどう思っているのか?


 これは恋愛感情なのか?


 たしかに、影子のことは憎からず思っている。が、なにか決め手に欠けていて、ハルは結論を先延ばしにしていた。


 しかし、ここらで年貢の納め時だ。


 ひとりの男として、影子の思いに答えなければならない日は、そう遠くない未来にやってくるだろう。


 影子のケジメが自分の手で自分に罰を与えることなら、それがハルのケジメだ。


 が、悪いことばかりではない。 


「……よし」


 制服に着替え終わったハルは、リュックを背負って部屋を出た。


 ほんの少しだけ、口元には笑みが浮かんでいた。


 


「ほら、手つなぎ登校しようぜ!」


「やだよ恥ずかしい! それに、そんなからだくっつけないでよ!」


「えー、いいじゃん、当ててんだよ♡」


「当てるな!」


「セックスアピール♡」


 早速登校の途中から影子の猛烈な魔の手が迫った。片時もハルと離れようとせず、ハタから見れば仲睦まじい様子だが、ハルとしてはすでに憔悴している。


 これからずっとこういうのが続くのか……げんなりである。


 それに、もし誰か知り合いにこんな場面を見られたら……


「つうううううかあああああもおおおおおおとおおおおおおお!!」


 怨嗟の声とともに、ハルは横合いから降ってきたドロップキックに吹っ飛ばされた。どさどさと土まみれになりながら転がり、ああ、こうなるよな……と半ばあきらめの感情を抱く。


 ハルが起き上がるよりも先に、ドロップキックの主である一ノ瀬が胸倉をつかみ上げてがくがく揺さぶった。目が血走っている。


「なに私の影子様といちゃこらいちゃこら登校してんだ!? あんたの濡れた犬くさい負け犬臭を私の影子様につけるな!! 明日もこんなことがあったら、私包丁持って登校するからな!!」


 ハルを揺さぶり、口の端に泡をためながら怒鳴り散らす一ノ瀬。鬼気迫るものがある。


「おい、メス豚。アタシのダーリンになにしてやがんだ。負け犬はてめえだろ雑巾マ〇コが」


「……かっ、影子様……!」


「包丁なんて持ってきてみろ、今後一切アタシはてめえを視界に入れねえ。わかったな?」


「はい♡」


 影子の一声で一ノ瀬はただちに落ち着いてしまった。ぽいっとハルを放り出すと、いつものように影子にまとわりつきながら通学路を行く。


 ハルがため息をついていると、隣から音もなく手が差し出された。


「災難だったな、塚本」


「……倫城先輩……」


 ありがたくつかまって立ち上がり、からだを痛めたハルはかくかくした足取りで先輩につかまって歩く。


「ははっ、役得」


「役得とか言わないでくださいよ……」


「だって、こうでもしなきゃ塚本とくっついて登校、なんてできねえだろ?……強力なライバルも現れたことだしな」


 ぎらり、先輩の目に不穏な光が宿る。その視線は道行く先の影子の背中に向けられていた。


 影子が思いを表明した以上、同じハルに思いを寄せている先輩にとっては恋敵だ。それは影子とて同じだろう。


「あー! ハル!」


 先輩につかまってかくかく歩いていると、ミシェーラが走り寄ってきた。


「んん? ケツデカチチウシ、気安くアタシのダーリンに声かけんじゃねえよ」


「し、親友として、そういうの見過ごせない! ハルのひとり占めは禁止ヨ!」


「なんだ? 俺も混ざるべき?」


「めんどくさくなるので、やめてください……」


 ようやくひとりで歩けるようになったハルが、重々しいため息をつきながら告げる。


 対して影子は不敵な赤い笑みを浮かべ、


「いいぜ、まとめてかかってこいよ! アタシはもう負けないからな?」


 堂々たる宣戦布告をした。正妻宣言と言ってもいいかもしれない。


 完全に恋ごころを認めて、影子は確実にパワーアップしていた。もはや誰も影子を止めることはできない。ハルでさえも、である。


 どうしたものか、とお手上げ状態のハルは、助けを求めるように空を見上げた。


 秋は過ぎ去り、冬がやってきている。吐く息が白くなるのももうじきだろう。


 しばらくはごたつくことだろう。影子のことも、『影の王国』のこともだ。ハルの非日常的日常にも、また変化が訪れることだろう。


 この安寧を守っていきたい。そのために乗り越えなければならないものがあるとするなら、乗り越えてやろうじゃないか。


 春が来るまでにはきっと、すべてに決着をつけよう。


 失ったもの、手に入れたもの、そのすべてに決着を。


「ダーリン♡ ぱんつ見る?」


「つうううううかあああああもおおおおおおとおおおおおおお!!」


「まあまあ、落ち着けよ一ノ瀬。塚本、代わりに俺のブーメランパンツで手を打たないか?」


「やらしいのはダメヨ! 私、親友だから、そういったセクシャルハラスメント行為からハルを守るヨ!」


「ああああああああああもう!! 頼むから黙ってくれ!!」


 渦中のハルが叫ぶが、騒動は終わらない。


 こういう非日常的日常を抱いて、未来に進んでいく。それがハルの目下の願いだった。


 騒がしい一団の中心にいながら、ハルはこっそりと困ったような顔をして笑った。

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