桜が散る夜に

よるのとびうお

第1話 月の陰る夜


『優しく輝くそれはいつの夜にも寄り添い

どんな人にも等しく光を向けた。雲で覆われてしまってもそれは確かに存在し、姿を変えても尚、美しかった。


 暦では一瞬にも満たないほど僅かだが、その木は満開になると、たくさんの人を集めた。しかし、全てが散ると見向きもされず、やがて周囲と変わらなくなった。


 その木は今日も、夜空に向かって手を伸ばす。

ひとときの輝きでは満たされず、それを覆い被そうと手を広げる。それが遥か彼方に映るとも知らずに』






 ______2023年4月×日



「はあ……はあ……はっ……はあ」


 月が薄雲に隠れているせいで、いつもより足元が見えない。辺りに人気もなく生暖かい空気が私の体を撫でていく中、私は慣れないヒールの靴を脱ぎ捨て必死に走った。背筋に汗が伝い、頭には呼吸と心臓の音だけが鳴り響く。怖い。それでも……アパートはもう見えている。


「はあ…はあ…早く……早く逃げ込まないと…!!」


 体は辛うじて動いているが喉が干からびる程に乾き、いくら吸い込んでも酸素が肺に届かない。誰かが追いかけてくる。どれ程走っても、何度道を曲がろうとも息遣いが離れない。後少しでアパートに辿り着くのに。それでも、今の私に後ろを振り返る余裕なんてものはない。靴は投げ捨ててしまった。硬いアスファルトのせいで足が焼ける様に痛み悲鳴をあげている。


「それでも、もう少し……!!」


 背後に迫る確かな恐怖が動かそうとする手足の邪魔をする。それでも恐怖を押し殺し、なんとか部屋の前にたどり着く。誰かが近づいてくる。鍵はもう手に持っている。ただ、恐怖で手が震え鍵が上手く入らない。いつもしている動作のはずなのに……!!


「ああもう! お願い!! 開いて!!!」


 ようやく収まった鍵を無理やり回し、開いた扉の隙間から玄関に滑り込む様に倒れた。


「はぁ……はぁ……はぁ……誰なの……」


 急いで鍵をかけると、私は玄関に崩れ落ちる。恐怖から逃れた今になって目には涙が滲み出し、手の震えが全身に伝わった。足は焼けるように痛い。後ろでは、ドンドンッと扉を叩く鈍い音が鳴り響いている。私は恐怖と痛みでその場から動くことすら出来なかった。しかし、すぐに音が鳴り止む。扉の向こうの気配も消えた。


「誰なの……何で私に近づくの……」


 誰か、助けを呼ばないと……! 手の震えを止められないままスマホを取り出し私は電話をかけようとした。その時、ガラスの割れる荒々しい音が部屋中に響く……!!


「なに!?!?」


 窓をこじ開け誰かが部屋に入ってくる音がする。何かが倒れ壊れる乱暴な音は次第に玄関に近づき……今、目の前にいる。脚に力が入らない。扉には自分で鍵をかけてしまった。身体がいうことを聞かない。それでも私は必死に逃げようと脚に力を込める! しかし、体は言うことを聞かない。ただ、ここから離れないといけない、それだけなのに……

 その内、迫り来る音は玄関の手前でぴたりと止まった。一瞬の静寂が流れ、部屋の奥から誰かがこちらに歩いてくるのが見える。既に恐怖は限界を超えている。私はただ、近づいてくるその人を滲む視界で見つめる事しか出来なかった。薄暗い部屋を誰かの足音だけが漂う中、扉から漏れる外の明かりが、ゆっくり、ゆっくりと迫り来る足元を照らした。

 次第に近づいてくる誰か。扉から漏れる明かりがついに顔を照らしたその時、私の呼吸は止まった。私はこの人を知っている。


 ──気がつくと私の身体がじわじわと熱い。


「………ちゃん? ……な、何で…‥」


 腹部に激しい痛みが襲った。しかし、私にはもう、刺さったものを抜き取る気力など失く、ようやく絞り出した最後の言葉は宙に舞った。身体の震えはゆっくりと止まっていき、生温かいものが伝うのを感じた。

 

 私は次第に消えてゆく意識の中で必死に心当たりを探した──








 ──ここで、ニュースをお伝えします。


 昨夜、アパートの一室で人が倒れている事件について、続報が入りました。


 被害者は緊急搬送された後に病院で死亡が確認され、警察はこの事件を殺人事件に切り替えて調査を続けていくとの事です。


 また、目撃者の証言で、金髪で眼鏡をかけた怪しい人物が走り去って行くのを見た、との事から現在、この人物について詳しい情報を追っています。


 以上、ニュースをお伝えしました。

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