フルールの白いエマシン

@ninth_

【第01章】フルールの白いエマシン

【第01節】もはや手遅れであり間に合わない

焚き火台の上で、薪が燃えている。

オレンジ色の揺らめきは時折、火の粉を舞い散らせた。

柔らかな春風が、森林に茂る若葉をざわめかせている。

アウトドアチェアに腰掛けて、俺、槇島悠人はノートPCの画面を眺めていた。


「どうにもならないな」


思わず吐き捨てた。

表計算ソフトの示す計算結果が、あんまりだったからである。


「老後資金三千万。これでも、まだ足りないのか? これ以上どうやって貯めろと言うんだ?」


今の調子で六十五歳まで仕事を続けると、大雑把な計算で貯蓄額はおよそ三千万円になる想定だ。

しかしながら、この貯蓄額を基に生活を続けていくと、八十歳の時点で残額がゼロになる。

年金受給額を加味してもだ。

自営業者は年金の受給額だけで生活をするのは厳しいとは耳にはしていた。

しかし、まさかこれほどまでだとは思ってもみなかった。


「一年間、たった七十万円の年金で暮らせるなんて、本気で思っているのか? この国の政治家は頭が湧いているな」


月額にすると、年金の受給額はたった六万円なのだ。

東京都内では一般的なワンルームの賃料は、平均で大体七万円を越える。

老後を暮らしていくためには、貯蓄額を切り崩して充てていくしかないのだ。

確信を得た今、早くなんとかしなければならないという焦燥が胸を締め付けてくる。


「早くって……。今、何歳だと思っている? 四十三歳だぞ」


思わず自嘲した。

もはや手遅れであり、間に合わない。

人生を立て直せる時期は既に過ぎていた。

何を決めるのにせよ、三十五歳、遅くとも四十歳くらいが限度だったんだろう。

仮に、今から住宅ローンを組んだとして、払い終わる頃には、七十、……八十歳だろうか?

住む家一つで、これだ。

結婚や子育ては、望むべくもない。

二十数年、IT系の何でも屋として真っ当に働いて、納税をし続けてきた。

それなのに、老後破産をする羽目になるとは。


「やはり取り返しは、つかないんだな……」


三十年後に無一文になり路頭に迷う。

それを実感すると、恐怖で、きゅっと胸が詰まった。

だが、この結果は薄々、想定していたことではある。


「そうでなければ、わざわざ、こんな所へ来たりはしない……」


キャンプ場に来たのは初めてだった。

新しく趣味として始めようと思ったわけではない。

普段と違う場所であれば、塞いだ気分が和らぐのではないかと期待をしたからだ。


「それで? 気を紛らわせられたところで、どうする? 現実は変わらないんだ」


八十歳。

頭と身体が、まともに動くかどうか怪しい。

そんな状況で進退が窮まって困るくらいなら、今すぐに終わってやろうか……?

一瞬、そんな考えが頭をよぎった。だが、さすがにそれはないと、すぐに振り払う。

しかしながら、このままだとジリ貧だ。

近いタイミングで抜本的に、やり直すしかない。

では、どうすればいい?

もちろん、過去に戻ってやり直すことなど、出来るはずもない。

だからといって、将来に関する良いアイディアを持ち合わせているわけでもなかった。

状況を変えるしかないのだろう。

そのためには現状から、別の立場へ移らなくてはならない。


「……今から、またキャリアを積み直すのか?」


何事においても、一流になるには十年は掛かるだろう。

それを、この歳から……?

そう考えると、気持ちが暗くなる。

一度、考えをクリアしたいと思って、瞼を閉じて、ゆっくりと深呼吸を続けることだけに集中した。

木々のざわめきを背景に、自分の呼吸音に意識を向け続ける。

不意に強い風が吹き抜けた。

突然、身体が震える。強烈な肌寒さを感じたからだ。

目を開いて、辺りを見回す。

周囲の木々が、針葉樹の巨木に変わっている。

青葉の茂っていた手頃なキャンプ地の面影は、どこにもない。


「……どこだ、ここは?」


驚きのあまり開いた口から、白い息が漏れていた。

周囲は暗く、静まりかえっていた。耳が痛くなるほどである。

そのせいで、薪のはぜる音が、異常なほど響く。


「何が起きたんだ……?」


異常なことが起きている。

移動した覚えがないのに、冷え切った深い森にいるのだ。

燃え続けている薪を見つめていることに気づき、急いで身の回りを確認する。


「……なくなっている物はないな」


覚えている限り、持ち物は、そのままの位置にあった。

スマートフォンを手に取って、急いで画面を確認する。

アイコンが、圏外を示していた。時刻は零時を過ぎている。

これから、どう動くべきなのだろうか……?

すぐに考えが纏まるはずがない。

だが、とりあえず無駄にならない行動は、起こしておくべきだろう。

財布、パソコン、通信機器、バッテリーをバックパックに入れ終えた。

空いたスペースには、手近にある道具を適当に放り込む。

放り出したままの長包丁が目に留まった。


「役に立たないでくれよ」


刃紋の浮いた刀身を革製の鞘に納めると、ベルトに通した。

バックパックを背負う。

クリップ式のL型ライトを、コートの襟元に留めた。


「さて、どうしたものか……?」


答えのない問いが、静寂に消えていった。

不意に、微かな音を耳が捉える。

息を潜めて物音を探った。

遠くの方で、木や枝が次々に折れているらしい。

何かが、移動しているようだ。

更に深く、聴覚に神経を集中する。

出所の方向が、ぼんやりと分かったところで、不意に音が途切れた。

動きを止めたのだろうか?


「行ってみるしかないな」


距離に関しては見当も付かない。

漆黒の森をライトで照らす。五メートルほど先までしか視界が確保できない。頼りないにもほどがある。

周囲と足元に注意を払い、用心深く進み始めて、十分ほどが経過した。

遠くから、恫喝する男の声と、女性の悲鳴が耳に届いてくる。


「どこからだ……?」


足を止めて、音の出所を探った。

何も聞こえない。

ライトの明かりで、辺りを探る。


「崖が、あるのか……?」


ライトの照らし出す、五メートルほど先で、急に地面が崩れていた。

ライトの照度を最低限まで絞る。崖まで慎重に近付いて、下を覗き込んだ。

かなり深い。

急峻な下り坂だ。二十メートルほど下まで続いている。

斜面には樹木が生えていない。崖下は月明かりで照らされていた。


「……あれか?」


坂を下った先にある平地の隅で、うずくまった女性が頭を抱えて震えていた。

こちらに背を向けた大柄な男が、女性へ詰め寄っていく。

長い髪を掴んで、顔を上向かせると、その頬を殴りつけた。

か弱い悲鳴が上がったが、すぐさま怒鳴り声にかき消される。

激高した様子の男が振り返らずに後ろを指さした。

うつ伏せに倒れている女性がいる。


(そう簡単に、人は死んだりしないよな……)


これから取る行動に対して、僅かに逡巡する。

だが、迷っている暇はないと判断して、急坂を駆け下りた。

もつれそうになる足を全力で動かし続ける。中腹に差し掛かったところで思い切り斜面を蹴った。

落下しながら両膝を抱え込み、男の背に迫ったところで、一気に膝を伸す。俺の両足が男の背中を蹴りつけた。

落下速度と全体重が乗った一撃である。

蹴り飛ばした男が、前へ倒れて地面にぶつかった。

着地と同時に突進する。

男が振り向きながら、立ち上がってきた。

目つきが尋常ではない。


(こいつは悪人で間違いない)


渾身の力を込めて、拳を男の顎に叩き込んだ。クリーンヒットである。

男は怒りの形相のまま白目を剥き、ぐらりと身体が傾かせた。そして、手をつくこともなく、地面へ横倒しになっていく。

急いでバックパックを降ろして取り出したロープで、気を失ったであろう男を後ろ手に縛り始める。

なかなか思うように手指が動かない。人を蹴ったり殴ったりしたせいで、身体が震えているからだ。

数分がかりで,ようやく男の拘束を終える。

作業を終えたからだろう。背中に注がれている視線に気づいた。

振り返ると、女性と目が合う。怯えた目をしていた。

成人女性のようだが、顔立ちがあどけない。

裂かれた衣服を押さえていた。胸元を隠す手が震えている。

近付こうとすると、地面に尻を突いたまま後ずさろうとする。


「何もしない」


近づくのを止めて、両手を上げてみせた。

だが、反応は変わらない。

怯えきっているせいで、こちらの意図を読み取る余裕がないのだろうか?

いずれにせよ、今すぐに話は出来ないだろうと判断する。


「そのまま、じっとしていろ」


そう声を掛けてから、うつ伏せで倒れている、もう一人の女性に近づいていった。

仰向けにしてみる。

若い女性だ。二十歳前後だろうか?

頬に触れると、柔らかさと温かみが伝わってきた。

口元に掌を近づけてみる。息をしていることが分かった。

目を閉じたままである。

気を失っているのだろう。

申し訳ないと思ったが、少し強めに頬を数度叩く。

瞼がゆっくりと開いていった。ぼんやりしていた目の焦点が定まる。


「……ッ!」


目を見開くと、思い切り突き飛ばしてきた。

そのまま勢いよく立ち上がると、こちらを見たまま後ずさりを始めていく。


「何もしない」


敵意のないことを示すため、しゃがんだまま両手を大きく開いてみせる。

女性は素早く辺りを見回してから、問いかけてきた。

はっきりとした聞き取りやすい口調である。

ただし、日本語ではない。


「どこの言葉だ……?」


聞き覚えのある発音ではない。

手がかりを見つけようとして、彼女の姿を観察する。

瞳の色は薄い青色だ。肩口で切り揃えられた髪は白に近い金髪である。

ただ、顔立ちは彫りが浅く、東洋人のように見えなくもない。

小柄な身に纏う厚ぼったいコートは毛羽立っていて、その下に覗くワンピースは簡素なデザインで何枚かを重ね着しているようだ。腰の辺りを紐で縛っている。

中世ヨーロッパの農村で着ていそうな雰囲気の服装だ。

そう気づいてから、改めて、もう一人の女性の方に目をやる。

素材の風合いは少し上質のようだったが、似通ったデザインの服を着ている。

地面に転がる男の服は、到底、売り物とは思えないほど粗雑な上に汚れきっていた。


「コスプレの撮影会って訳じゃないだろうな……?」


思わず呟いてしまった。

小さな声は彼女に届いたようで、また話し掛けてくる。

やはり、耳に馴染みのない言葉だ。何を言っているのか分からない。

こちらが困っていることに気づいたのだろうか?

はっとした様子で、腰紐に括り付けた袋から何かを取り出してきた。放り投げて寄越してくる。

足元に転がってきた二つの小さな金属を拾い上げた。

細いアームバングルと小さなイヤーカフのように見える。


「身につければ良いのか?」


問いかけると、自分の耳と手首を指し示した。

彼女も同じようなものを身につけている。

真似るようにして、二つの金属片を右手首にはめて左耳に留めた。

耳たぶに、微かな痛みが走る。


「何だ、これは……?」


痛みを感じた直後、唐突に鮮明な映像が頭の中に次々と浮かび上がってきた。

あまりの目まぐるしさに、それが自分の体験した過去だと理解に至るまで時間が掛かる。

異常なほど隅々まで、はっきりとした光景は、思い出というよりは今まさに目にしているようだ。

明瞭すぎる記憶の奔流は、前触れもなく潮の引くように遠ざかっていく。

予想もしない出来事に、半ば呆然とする。


「もしかして、クオンをつけるのが初めて?」


困惑した表情が、こちらを見ていた。


「クオンって、これのことか?」

「そうだけど……。知らないの?」


唖然とした顔で、じっと見つめてきた。

ふと、こちらから目を逸らして、後ろ手に縛られた男に視線を向けた。


「念のため訊くけど。あれの仲間?」

「もちろん違う。それよりも教えてくれ。……これは、一体どうなっているんだ?」


聞こえる言葉は日本語である。

だが、それを話す唇の動きは全く異なっていた。

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