紫陽花
緋雪
第一話 雨の日
本当のことを言えば、僕は、ただそこで涙を堪えていただけだったんだ。奴らに傘を壊されて、ランドセルの中のものを水たまりに全部落とされて。悔しくて悲しくて。
大粒の雨が空から落ちてきて、僕の代わりに泣いてくれていた。
「キミ、どうしたの?」
急に背後から声がした。振り返ると、優しそうなおばさんが立っていた。僕のお母さんよりは少し若いんだろうか、その人は僕に傘を差し掛けて言った。
「あ……その……お花がきれいだなあと思って……」
僕は苦しい言い訳をする。
「あら、ありがとう。でも、お花どころではなさそうね。膝、血が出てるよ。こんなにびしょ濡れで、傘はどうしたの?」
僕は、ボロボロの傘を見せた。ランドセルは中身ごと水浸しだ。
「そ、そこで転んだんです」
「あら……それは大変だったわね。入って。手当をしないと」
「いや……あの、僕……」
ほらほら、と急かされて、おばさんの家に入った。
贅沢というわけではないけれど、とても清潔な家で、綺麗な絵や写真が所々に飾られている。僕は、ダイニングテーブルの前に後ろ向きに置かれた椅子に座らされて、膝の手当をしてもらっていた。
汚すのが申し訳ないくらいの綺麗なタオルを貸されて、頭や体を拭く。
「はい、これ。飲んでね」
マグカップで、ココアを出してもらった。
「冷たい雨だったから、体も冷えたでしょ?」
ココアの温かさと、おばさんの優しさと相まって、堪えていた涙が流れてきてしまった。
「ごめんなさい……男のくせに……人前で……泣くなんて……カッコ悪い……」
そう言うと、おばさんは、僕の視線と同じ高さまで
「辛いときに泣くのは、男も女も関係ないと思うよ。……理由はわかんないけど、よく頑張ったね」
そう言ってくれた。
傘を借りて、お礼を言って、帰ろうとすると、おばさんが一輪の
「うちの花が綺麗だと言ってくれたから。どうぞ」
そう言って。
僕は、おばさんが、僕のことをよく知っているのではないかと、ちょっとドキッとした。
「綺麗な紫陽花ねえ」
お母さんが言う。病院のベッドの上で。
「転んだ所がラッキーだったじゃない。それにしても、親切な方ねえ」
お母さんは何も知らない。僕がいじめにあっていることも。
お母さんが入院してしまったから、お父さんが家事も仕事もしないといけなくなり、僕の制服や体操服がクシャクシャだったり、靴が汚れていたり、給食のない日のお弁当が、コンビニの弁当だったり……。そんな僕のことを、汚いの貧しいのといじめてくる奴らがいるんだ。
でも、そんなことで、お母さんに心配はかけたくない。お母さんには、ゆっくり休んでほしいから。
二日後、僕は借りた傘と、お祖母ちゃんから送られてきたみかんを持って、おばさんの家を訪ねた。お母さんに言われた通り、傘は開いて、一度ちゃんと干してから返しに来たのだった。
家のチャイムを鳴らすと、返事があって、
「何? 誰?」
と、派手な化粧の女の人に、雑な感じで言われた。
「あっ……あの、ここのおばさんは?」
「おばさん? 誰のこと?」
「僕、この前、ここのおばさんに手当をしてもらって、傘を借りたので、お返しに。あと……」
傘とみかんを差し出すと、
「ちょっと!!」
傘だけを取り上げて、
「あんた、何で、うちの傘持ってるの?! うちに入ったの? 気持ちの悪い子ねえ、警察呼ぶわよ! 帰って!!」
睨まれて、大きな声を出されたので、僕は逃げ出した。バタン!! 後ろでドアを締めた大きな音がした。
「家を間違えたのかな……」
そう思ったが、あの人は、「うちの傘」だと言った。どういうことなのだろう。
「ボク、どうかしたの?」
外に出ていたのだろう、近くの家のおばさんが、僕を見て声をかけてきた。
「あ……、いえ、家を探していたんですが、なんか間違えたみたいで。」
「あらそう。あ〜、間違えた家が悪かったわね。あのヒステリーの家じゃあねえ……」
「ヒステリー?」
「ううん、なんでもないの。ボクの探している家って、この近く?」
「ええ。優しいおばさんがいて……あ、とっても綺麗な紫陽花をもらいました。」
「紫陽花……は、あの家にはもうないよ。随分前に抜いちゃったみたい。綺麗だったんだけどねえ。奥さん、丁寧に手入れをしてたから。」
「なくなったんですか?」
「え? 奥さんがかい?」
「いえ、あの、あ、紫陽花が」
「ああ、紫陽花はね。奥さんは……どうしてるんだろうねえ。とにかく、今は、あのヒステリーが、あの家の奥さんで、あそこに紫陽花はないよ。」
「えっ……じゃあ、そのおばさんは?」
「いなくなった方の人は、実家にでも帰ったんじゃないの?そこまで知らないけどね。」
「そうなんだ……」
「あ〜、いけない。またお喋りが過ぎちゃった。小学生相手に何喋ってるんだろ、私。ごめんね〜、今のは忘れてね。」
「は、はあ」
「とにかく、ボクが探してる家はあそこじゃないと思うよ。力になれなくてごめんね」
そう言って、その人は、そそくさと家の中に入って行った。
結局、僕は、そのおばさんの家を見つけることができなかった。
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