スライム


ブルーベイズ 0 ー 3 ホワイトベアーズ


[ 8回裏 ]


ダグアウトに戻って急いでプロテクターやレガースを外す。

急がないと打順が回ってくる。

その前に大沢さんに言わないとタイミングを失う。


逃げたって思われてもいい。

実際、逃げ出すわけだから ……

おれのことなんてどうでもいい。


あの人に大記録を達成してもらいたい。

誰もがそれを望んでいる。

守備でスーパープレーを積み重ねてせっかくここまで来たのだから ……

この緊張の場面で19歳のトシがあんなプレーを見せたのだから ……


最後の最後で、おれのパスボールで台無しにするわけにはいかない。

この試合、ブルーベイズ打線は一度もナックルをまともに捉えていない。

大沢さんなら全球ナックルを要求して試合を終わらしてしまうだろう。


9回のおれはきっと ……

2ストライクからナックルのサインを出せない。



ダグアウトから眺めるスタンドの光景。

360度、大きな波濤がうねっていた。

拍手喝采が手拍子に変わっていた。

みんながみんな、目をまあるくして、もしくは優しく細めて一人の少年を追っていた。


ブルーベイズの初ヒットを凡打にした少年。

コータさん、森田さんに挟まれて緊張した面持ちでダグアウトに戻って来る。

あんなスーパープレーをしても相変わらず笑顔もなく表情は固い。

ダグアウトの前ではトーヤさんが拍手しながらトシを待っていた。

トーヤさんが突き出した拳に、トシの控え目の拳が合わせられた。

それだけでスタンドがまた爆発した。



「あそこ ……内野席の一番前」


「えっ ?」


いつの間にか隣に大沢さんが座っていた。

感慨深げに目を細めてスタンドを指差していた。


「ライトスタンドも結構多いな …あの向こうもいるいる ………きっとドーム全体で100人、200人じゃ利かないんだろうな」


「何の話ですか ?」


何にしろ大沢さんから話しかけてくれて助かった。すぐここで交代をお願い出来る。


「背番号51をつけた小学生の数」


「・・・えっ」


ブルーベイズはピッチャーが代わっていた。

キレのいいカットボールが武器のベテラン右腕がマウンドにあがっていた。


「彼らは今日の京川のプレーを一生忘れないだろうな」


・・・


「それはトーヤさんが完全試合を達成したら …って話ですよね」


「西崎の記録なんかより ……」


大歓声の中、コータさんがバッターボックスに入った。


「それを達成させるために、キャッチャーがどれだけもがき苦しんでいるのか。背番号51の少年たちは、祈る思いでそれを見守っている」


「ドームに来た小学生が試合をそんなふうに見ますか ? 」


「ここでずっと見ていると、あのしろくまビジョンには、何度もあの不気味な球筋がスーパースローで流れている。みんなが信じられないような目でそれを見ている。それはきっとテレビ中継でも同じだろう。あの訳の分からん球を、後逸しないよう懸命に捕球している京川の必死な姿。もう小学生にもなれば十分に胸に届くし、しっかりと響く。野球少年の胸に深く刻まれるんじゃないかな。西崎の記録なんてどうでもいいさ。例え9回にあの気色の悪いボールを後逸して、振り逃げで出塁を許したとしても、最後まで西崎の完全試合のために、あのスライムみたいなボールに京川が必死になって立ち向かった。その姿を少年に見せる事の方が西崎の記録なんかより何百倍も価値があるさ」



「不気味な球筋 …訳の分からん球 …気色の悪いボール …挙げ句の果てにスライムって、どさくさ紛れに4回もディスりやがった」



「えっ ?」



振り向くと後ろにトーヤさんが立っていた。



「お前、自分でもよく言ってるぞ」


大沢さんの涼しそうな顔。


「俺のは愛情表現だ。分身みたいなものだからな。お前のは明らかに悪口だ。他人からは気色悪く見えるチンポコだって、俺には愛おしいんだ。スライムは聞き捨てならん」


「おれのはシャキッとして凛々しいがな」


・・・何の話 ?


「そんなに気色悪いのか。それは痛ましい話だな」


いつの間にか水野さんもいた。


「例え話じゃっ !」


・・・



コータさんが凡退して、ダイチが打席に向かっていた。


おれはバットを持ってダグアウトを出た。



・・・交代なんて



とても言えない。



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