第2話

 S市にはサーキットがあった。

 広大な敷地面積を持つ、世界的なレースも開催される本格的なものである。

 世界でも珍しい、数字の「8」の字のようなコースレイアウトは、この国の狭い土地事情を表すかのように工夫され、コースの起伏も地形を活かしたものであるとわかる。屈指の難コースとして名を馳せている。


 御子柴は、そのサーキットの近くにあるビジネスホテルでチェックインを済ませた。

 レースがある週末はこの辺りも混雑するのだろうが、幸い、平日の今日は空いていた。

 角部屋が空いていればそこにしてもらうようフロントに伝え、キーを受け取りエレベーターに乗る。


 室内はいかにもシングルらしく、必要最低限の面積しかなかった。

 ユニットバス、クローゼット、どれもが狭い。全て合わせて6畳と言われても納得できる。

 よくもまあ、これだけのものをこのスペースに詰め込んだものだと感心し、御子柴は手早くシャワーを浴び、タオルを腰に巻いた姿のままベッドに横になった。


 どれくらい横になっていただろう。

 不意にベッドサイドに置いてあった携帯が鳴る。

 目を開けた。

 音声着信ではなく、メールだ。

 その内容を見るや、御子柴は一瞬だけ目を見開き、すぐさま閉じて考えこんだ。

 やがて、右手の平で顔をなぞる。

 ゆっくりとベッド脇に座り、めんどくさそうに衣類を着込んだ。

 部屋を出てエレベーターに乗り、フロントにキーを預けて駐車場へ向かった。


 車で向かった先は、駅だ。

 ホテルからおよそ20分の距離にある、こじんまりとした駅。

 陽は沈んで久しいので、サーキット周辺の道は空いていた。

 円形ではなく長方形のロータリーの隅に、先ほどのメールの送り主が待っていた。


 身長は160cmほど。ブラウンがかったロングヘアーを後ろでまとめ、白いタンクトップの上にピンク色の七分袖のシャツを羽織り、裾がカットされたジーンズの足首からは細いチェーンのアンクレットが見え、素足にミュールを履いている。

 服装は目立たないが、その服装に不釣り合いなレポーターバッグを肩から下げているのが目立つ。


 古村星名。

 年齢は19歳。御子柴とはふたまわりほど年齢差があるが、それでも彼の立派な助手という肩書きだ。

 もともとは、2年ほど前に御子柴が少女買春グループの調査をしていたとき、付き合っていた男に騙されて買春させられそうになっていたところを偶然助けた。それ以来、御子柴の事務所に居着いてしまったクチである。


「何で来たんだよ」


 車を降りた御子柴はとがめる風でもなく、ただ呆然と星名を見ている。

「あたしがいた方が、ミコさんの仕事が楽になるかなって」

 相手が来てしまった以上、帰れとも言えない。

 またその理由も特に浮かばなかったので、仕方なく星名を助手席に促した。


「依頼主の女の人は何て?」


 車を出して開口一番、星名は本題に入った。

 御子柴は、今回の依頼人が女性だとは星香に一言も告げていない。

 横関真由の画像ももちろん無い。依頼の電話も今回は全て直接とった。星名は真由と話していないし、見てもいない。

 だが、彼女は依頼主が女性だと言った。見抜いた。

「ミコさんが言わなくてもわかるよ」

 星名はあっけらかんと言った。

「だってミコさん、今回の件について、なーんにも教えてくれなかったもん」

 助手に行き先以外はほとんど何も告げずにS市に来た運転者は目を細め、じっと遠くを見るような目つきになる。


「そんな渋い顔を作ってもダメ。ほとんど事情を話してくれないから、何をどう調査すればいいかわからなくて、あたしもここに来たんだから」

「俺だってどこから手をつけていいか、まだわからないんだぞ」

「そう。だからあたしも "所長" を助けるためにここに来たのよ。助手だもの。人間だもの」

 彼は"そういうことじゃなくて"と言い返そうとしたが、その前にホテルに帰ってきてしまった。


「せまっ」


 ホテルに着いて開口一番、星名は正直な感想を口に出した。

「そりゃあシングルだからな」

「何でダブルにしなかったのよ」

「いや、そもそもキミは事務所待機のつもりだったから…」

「キミ。他人行儀。留守番。あー、ひどい」

 若い助手は口をとがらせる。

「何でだよ。初期調査はいつもそうだろ」

「たまにはいいじゃん。初動からの流れを見ても」

 そう言われても、今日はもう何もすることがないのだ。


 真由は告別式で肉体的にも精神的にも疲労しているだろう。単刀直入に切り出しはしたが、必要以上に事情は聞けない。警察であればそれでも事情聴取をするだろうが、御子柴は警察ではない。


 仕方ない。もう一つ部屋をとるか。

 と、若い助手に頭が上がらない所長が立ち上がった時、星名はシャワーを浴びたいとバスルームに入っていった。

「ミコさん、経費削減。あたしここのソファで寝る」

 バスルームからそう声がした。

「そういうわけにもいかないだろ。ゆっくりシャワー浴びてていいよ。電車移動はキツかっただろうし」

「4時間かかったよ」

「だろうな」

 いや、そもそも経費削減なら事務所にいてくれた方がいいんじゃないかと思いながらも、御子柴は小さなテーブルの上を探る。


「事情も聞きたいから、ミコさんと同じ部屋でいい。女性が依頼主なら、女心のわからないミコさんに今回の件は荷が重いよ」

 それは言い得て妙だと思いつつ、御子柴はテーブルの上で手にしたリモコンを利き手に持ち替えてソファに座り、テレビをつけた。退屈な番組ばかりだったが、何もしないよりはマシに思えた。


 星名が髪を乾かしながらバスルームから出てきた。

 本来、御子柴が使うはずのバスローブを羽織っている。シャワーの熱で火照ったままなのか、頬が紅潮している。まだ10代だが、こういう時だけ色気がある。本人には言わないが。


 早速、今回の依頼のあらましをさらった。


 依頼主は横関真由、28歳。

 大手自動車メーカーH社の開発部長、横関茂雄の妻である。

 夫とは4年前にモーターショーで知り合い、3年前に結婚した。


 茂雄は当時48歳。

 実に、ふたまわりの年齢差だ。


 知り合うきっかけとなったモーターショーでの真由は、H社のコンセプトモデルブースのコンパニオンを担当していた。彼女が美人なのもうなずける話だ。

 二人は結婚して3年になるが、子供はいない。

 茂雄も真由も初婚同士であったが、茂雄と真由の両親がそれぞれ他界していたことから、二人に子作りを急かす存在がいなかったことになるのも一因かもしれない。


 その茂雄が。

 数日前に他界した。

 死因は、先ほど公民館で真由から聞いた通り、心筋梗塞らしい。

 茂雄が心臓に疾患を持っていなかったために、妻としては急すぎて腑に落ちないのだろう。御子柴に依頼して、主人の死が自然死か否かを確かめることを要求していた。


「おかしいよ。ミコさんお医者さんじゃないのに」

 話がひと段落するや否や、星名が口を開く。

「いくら去年、えーと、西城大学病院の医療事故の真相を暴く記事を書いたからって、医療関係のプロじゃないじゃん」


 ふうと一息つきながら、依頼の概要を初めて話し終えた当人は、星名が駅の売店で買ってきたペットボトルのお茶を飲む。それから一仕事終えたように、ソファのバックレストに身を預けるように伸びをした。

「医者は死因を断定する職業であって、死因の背景を考察する職業じゃないってことだ。いちいちそんなことしてたら、いくら体があっても足りないだろうからな」

「そりゃそうだけど」

 なおも言葉を紡ごうとする星名の口元を見ながらも、あえてそれを封じるように御子柴は今後の行程を説明に入った。

「明日は横関茂雄の周辺をたどっていく。アポイントもあるしな」

 上司の有無を言わせぬ口調に面白くなさそうな助手ではあったが、従うしかない。軽い抗議を示すように、無言で腰かけていたベッドに上半身を仰向けに投げ出して大の字となった。


「明日動くのは午後からだから、そのままゆっくり寝てていいよ。おやすみ」

 本来のベッドの主だった者は、タオルケットを腰にかけてソファに寝転んだ。大の字の助手に背を向ける。大の字の彼女は、その背中をじっと見つめた。


 気がつけば、日付はすでに変わっていた。

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