あったかもしれない?日本陸海軍の兵器・装備のあり方

@pochi7777

第1話「99式自動貨車」(開発編)

 豊田自動車に陸軍自動車学校から、中型の4躯自動貨車トラックの研究開発が指示されたのは昭和13年の春だった。


  当時、陸軍は大型軍用トラックの開発と量産に力を入れていた。九四式六輪自動貨車は最たるもので、今後も派生型や発展型に重きを置いていた。反面、中型以下の軍用車は需要が少なく、九五式小型乗用車以外は少数の生産に過ぎなかった。

 ちなみに九五式小型乗用車は、あくまで偵察・連絡用のオートバイ・サイドカーの代用する程度のものであり、軽便な小型車両に重点を置いたがゆえに汎用性に難があった。


 その頃の戦場への物資の流れは

鉄道(後方集積場) → 九四式六輪自動貨車(前線集積場) → 人もしくは馬(前線)

であり、前線への物資輸送は細い線に過ぎなかった。

 当時の陸軍自動車学校の校長小嶋時久少将や幹事の武内俊二郎大佐はともに輜重出身であり、主戦場の中国大陸での物資の流通体制に疑問を持っていた。

特に兵站を軽視しがちな(正確に言えば、兵站の重要性は認識されていたが、その兵站を支える国力がないため)日本陸軍においては補給計画そのものが無茶苦茶であった。そこで「トラックによる迅速な補給」の必要性を感じ、それを実現するためには「小型軽量で機動性のある車両の研究開発が必要」と考えたのだ。


・4輪駆動パートタイム不整地走行性能に富む

・自重 750kg前後

・エンジン 2000cc前後ガソリン

・ホイールベース 220cm前後

・搭載量 2人+400kg〜500kg(3分の1の斜面を登攀できること)

・整備性を重視(基本的に片手スパナだけでの組立・分解が可能な構造)

・量産(月産300台)容易にして、なるべく安価に

・軍用車輌だが、民間用にも簡単に転用できること


 この開発要請に対し、トヨタ自動車では、小型ながら4躯の自動貨車を製造すること自体は可能だと答えた。

 中型エンジンC型の試作は、昭和12年5月から開始されており、既存のB型エンジンをベースに、4気筒エンジンを開発したもので、ボア・ストロークと圧縮比はB型とまったく同じであり、排気量はB型(3,389cc)の3分の2に相当する2,258ccであった。シリンダーヘッドやシリンダーブロック、クランクシャフトなどは、B型エンジンの製造設備を流用して加工され、そのほかの部品も多くが流用された。

 すでに商工省からは燃料の節約を目的に、1938年3月2,400cc程度の中型車の開発を要請しており、C型エンジンを開発中であったところから、中型自動車開発に着手するようになっていた。また4輪駆動に関しては、九五式小型乗用車の試作が豊田自動車に依頼された頃より研究が続いており、以前から興味を持って検討されていたものであった。


 豊田自動車で「AK10型」の社内名で呼ばれることになった中型軍用トラックは、森本真佐男技師のもと試作第1号型として昭和13年に6輛が製造される。軍の提示した条件から部分的に逸脱することも辞さず、頑丈で悪路に強い四輪駆動小型軍用車の促成設計を目指した。試作車は6か月足らずの期間で9月に完成、陸軍自動車学校に納入された。当初の試験結果は自重以外はおおむね良好であり、仮称「試製99式自動貨車」として、14年には、日中戦争の開始に伴い、急遽、増産が図られることになる。100台の先行量産体制構築されつつ、逐次改良を加えながらさらに試験をかさねた。


エンジン C型(4気筒、2,258cc、50馬力)

変速機 前進3段、後進1段

副変速機 2段切り替え

ホイール・ベース 2,300mm

全長 3,360mm

全幅 1,570mm

全高 1,800mm

トレッド 前後とも1,300mm

車両重量 1,100kg

積載量 500kg


 可倒式フロントガラス付2名乗りピックアップトラック型。ドアはなく(必要なら綿布製のドアをつける)運転席はオープン型ながら幌で上部が完全に覆うことができ、荷台には三方に開閉する扉が設けられた。扉は着脱可能である。幌骨を取りつけ、綿布製の幌を張ることができた。


 陸軍次官東條英機少将は当時、兼任として陸軍自動車学校研究部部員をしており、御殿場での「試製99式自動貨車」の実験に立ち会った際に

「歩兵科でも使えるのでは?」

と、輜重科のトラックとする以外の使い方を模索するため、先行量産車の20台を使い、歩兵連隊での運用実績を積んだ。


・助手席に軽機関銃を装備可能

・ウィンチ(工兵関係車両)

・牽引金具(牽引能力 最大800kg)


などの小改造で済ます甲案とともに、


・架台を半分にして後部座席を増やし、4名乗りオープン型(積載量 250kg)


の乙案もでた。


「この方が歩兵科として使い勝手がいいのでは?」


という乙案だったが、輜重科からの


「いや、それだと積載量が悪くなりますよ? 」

「量産体制に影響がある」


と、当初の発注先である陸軍自動車学校の意見が優先され、しばらくは甲案を歩兵科用に生産するに留まった。


「輜重としては、とにかく早くトラックを作って欲しいわけだな……」


豊田自動車は生産体制を維持できる甲案を喜んだ。


「まあ、トラックは戦争をする上で必要だし、それに時間をかけすぎるのは確かに問題だろうしね。」


そして、豊田自動車の方から提案してみることにした。


「乙案は生産体制が出来上がる1年後以降に」


 こうして、豊田自動車の方は、これらの試験結果を元に改修を重ね、本格的なトラックの生産に入った。

 正式に「99式自動貨車」として採用された後、豊田自動車は当初月産300台を目指し量産を始めたが、輜重科・歩兵科以外の砲兵科・工兵科などからも使い勝手がいいと依頼が相次ぎ、豊田自動車は以前より進めていた一貫生産の新工場の建設を陸軍からの資金援助もあって前倒しにし、月産600台(最大1000台)体制とした。


「戦場で荷物を運ぶにはこれくらいないとねぇ……


 ただでさえ、うちの会社は戦時中なのに増産しろって言われてるんだし……」

当初は月産50台だったものが、最終的には800台、18年6月には1200台を達する量産体制となった。


「まあ、そのうち、こっちにも回ってくるでしょうしね……」


とは、後に戦車連隊長となった自動車学校関係者の言葉だ。


 99式甲型は、まずは輜重科に優先的に配備されることとなった。

 日本陸軍は戦線が広がるに連れて、トラック輸送による補給線の維持を最優先事項としていた。

 これは、兵站を支えるための最重要課題であったからだ。特に前線への物資の輸送については、99式は馬匹の3倍、人力の10倍と言われ、本車の普及とともに「トヨタ四起(略してヨタヨンとも)」と兵たちは呼ぶようになった。その「トヨタ四起」は、当初こそ故障も多かった(これは今まで自動車に触れていなかった兵のせいでもある)ものの、すぐに信頼性を増していき、終戦まで主力車として運用されるに至ったのだ。


「これだけ便利なものがあれば、もっと早く採用してくれれば良かったものを」


そうぼやく者も、満州事変を知る古参兵を中心に少なくなかったという。


 満州事変に際しては、陸軍自動車学校で編成された自動車隊が満州に送られ、兵站自動車隊として活動した。

 編成上、各師団の輜重連隊の中に兵站自動車中隊を置く形であるが、日本陸軍の輜重隊は中隊レベルで動くことが多かった。中隊は、三〜四個小隊と中隊本部で編成され、トラック65〜70台(三個小隊時)と各種自動車7〜10台を定数とされていた。

 兵姑自動車隊は本来、直接の戦闘部隊ではなく、兵姑間の軍需品の輸送が任務である。武器、弾薬、糧株、 衛生材料、兵員、傷病兵など必要人員や物資を運ぶのであるが、自動車隊の行軍は敵の目標となり、物資を積載しているので襲撃され易い 。これについては、自前の自衛兵器として三八式歩兵銃や四四式騎銃などが用意されていたが、大型トラックでは戦闘時の取り回しが悪く、追加配備された99式自動貨車を空荷状態で護衛用に使う部隊も多かった。架台に2名ほどの兵を乗せ、小銃3、もしくは軽機関銃(輜重兵にはあまり配備されなかったため鹵獲兵器などの員数外のものが多かった)1〜2で武装し、戦闘時の迎撃を行うだけでなく、敵を追撃さえ行う部隊もあり、事後のお叱りと共に褒められるという不思議な評価を受けた若手少尉もいた。

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