マー・マー・マー

神凪 絵羅

口は災いの元

 私の名前は獅子崎流可(ししざき るか)。県内で一位二位を争う高校へと通っているエリート女子高生だ。エリートというのは決して自惚れではなく、事実を述べているまでのこと。成績は学年トップ、身体能力も他の生徒とは一線を画す、様々なコンクールでの受賞経験も有り、まさに文武両道。非の打ち所がない人間と自称出来る。誰にも否定させない実力を確立させ、その上でエリートと名乗っている。どうかそこいらに点在している自称天才と同じ枠組みで考えないで欲しい。何より、私は天才ではないのだから。

 

 私には何の才能もない。勉学、運動、芸術的感性、どれも元は平均値、凡人なのだ。だから私は『努力』した。誰にも負けぬよう、天才と呼ばれる存在にも劣らぬよう、死ぬ気で努力を繰り返した。私の武器はこれだ。才能がないのであれば努力をする事が当たり前、ごく普通の事だがこの『努力』を継続できる人間はそういない。私はその大多数の努力できない人間に加わるつもりなど最初からなかった。

 毎朝のランニング、授業の予習と復習、学校終わりジムに通い体を動かす、夜はお風呂をインスピレーションを練る時間とし、その後、湧いたインスピレーションを作品として吐き出す。これが私の日頃のサイクル。余分な時間を作らない。時間は有限、これを心に留めつつ、一個一個の項目を全力で努力する。そうした結果、私は天才にも劣らない、ほぼ完璧な人間へと成り上がれたのだ。私の「誰にも負けない」というエゴが生み出した成果とも言えるだろう。だからなのだろうか、無い物ねだりと捉えられるかもしれないが、私は『天才』と呼ばれる存在が大嫌いだ。

 

 日課のランニングを済ませ、朝食をとり、学校へと向かう。家を出た瞬間から私は『優等生の獅子崎流可』となる。学校までの距離も短いので私はいつも歩いて向かう。学校へと通ずる道はまさにレッドカーペット。自転車で過ぎ行く生徒、歩いている生徒全員に「おはよう獅子崎さん!」と声を掛けられる。男女問わず全員だ。私は微笑み、手を振り「おはよう」と返す。まるで漫画の中の主人公のような通学路。私の家はまあまあという言葉が似合うマンションで、決して裕福とはいえない家庭で育ったが、努力次第でまるでお嬢様のような扱いを皆から受けられる。夢のある話だと思う。私は才能のない人間にとってお手本と呼べる存在だろう。

 

 教室に入るとクラスメイトが声を掛けてくれる。席に着くや否や大勢の友達に囲まれる。俗に言う校内カースト最上位に君臨しているのだ。

「おはよ〜流可〜。これさこれさ、新しく買ってみたイヤカフなんだけど、流可的にどう?結構良くない?」

「流可!昨日最終回のドラマさ、なんか最後微妙じゃなかった?芸術面に感性のある流可に、作品としてどうだったか!とズバリ感想が聞きたくてさ〜!」

「流可!お願い!昨日の宿題で分からないところあってさ、授業前に教えて欲しいの!」

 こんな風に同時に話し掛けられるのが日課だ。「まあまあ、みんな落ち着いて。私は聖徳太子じゃないんだから、一人ずつね?」笑顔で皆に受け答えする。人当たりの良い優等生、この肩書きを崩さないために笑顔を振る舞う、これも努力の一環だと私は認識している。

 

 チャイムが鳴り、担任の先生が教室へとやって来る。「おはようございます。今日はこの前行われた中間テストの結果が、返却されると思います。皆さん、補習で私の時間を奪わないように、お願いしますよ。」先生はいつも赤点を取る生徒に向け皮肉を言い放ち、朝のホームルームは終了した。

「はあ……今回は流可に教えてもらったし自信ありですよーだ。わざわざホームルームで嫌味ったらしく言うなっての。」教室を去った担任へと文句を垂れる彼女は、友達の水野恵(みずの めぐみ)。クラスのムードメーカー。勉強よりも遊び優先、テストは毎回赤点で補習の常連。私とは相容れない存在なのだが、同じマンションで昔からの知り合いというだけの腐れ縁で成り立っている関係。「今回は恵頑張ったもんね。私との勉強会でもまあまあテスト範囲は押さえられていたし、きっと大丈夫だよ。」私がそう言うと恵は親指を突き立て、ドヤ顔でグッドサインを送ってくる。今回は私が教えてあげたのだ。全教科平均点くらいは取れるだろう。まあ、取ってもらわねば困るのだけれど。だが、今は友人の事など気にしていられない。それよりも私自身の学年トップ維持という期待と不安が強い。

 

 5教科分のテストが返却される。一人ずつ名前を呼ばれ答案を手に席へと戻る。

「獅子崎ー」私は呼ばれ、先生の元へと歩を進める。このたった数メートルの緊張感が私は嫌いじゃない。緊張のピーク、先生の目の前へと到達する。「獅子崎…………さすがだな。次も頑張れよ。」私の期待通りの言葉。この瞬間が一番好きなのだ。努力が報われる瞬間だ。自然と笑みが溢れる。今回も私の勝ちだ。努力の勝利だ。

 

 クラス全員に返却が終わると、皆はワイワイと自身の答案を見せ合い、喜怒哀楽で教室内が満たされる。そんな光景を私はただジッと眺めるのみ。席を立とうとはしない。なぜなら……「獅子崎さん!結果どうだった〜?」このように、私が移動する必要はないからだ。みんな私の点数見たさに自分から歩み寄ってくるのだ。テスト返却時の恒例行事と化している。

 私は5教科の採点済み答案用紙をズラリと机に並べる。全て90点台、壮観な景色がそこには生まれていた。

「うっわ……すっご……」

「さすが獅子崎さん、最強じゃんこんなの。」

「毎回全部90点以上とか勝てないよ誰も……」

 若干引かれているとも取れるような賞賛の嵐。皆からは諦めや尊敬、嫉妬などの様々な感情が溢れている。だけれど私が発する言葉でいつもシンと静まり返る。私はいつもこう言う。

 

「まあまあかな。」

 

 盛り上がっていた周りのクラスメイトは皆「えっ……」と声を漏らし、私に目を向ける。教室の空気は一気に下がった。そんな時、一つの足音がこちらへ近づいてくる。「えっと……ずっと思っていた事なんだけど、聞いてもいいかな?獅子崎さん。」一人の女子生徒が私に声をかける。私はそれに答えるように笑顔で頷く。

「いつも全教科90点以上でしょ?学年1位の成績でしょ?獅子崎さん的にはどのあたりが『まあまあ』なのか、ずっと気になってて……あ、ごめんなさい!!変な事聞いちゃって……価値観は人それぞれだし、答えてくれなくても大丈夫だよ……!もしよければ、教えて欲しいな。」女子生徒は辿々しく質問を投げかけてきた。彼女は普段自分から話しかける事が少ない子。それ故に、とても疑問に思っているという事がより伝わってくる。私は笑顔でその子に返事をする。

「聞いてくれてありがとう。きっと、皆気になっている事だから、こんな風に皆に伝えやすい場で質問してくれて嬉しいな。答えるよ。」私は軽くお辞儀をした後、話を続ける。

「簡潔に言うね。努力しているからだよ。」クラスメイトたちは静かに聞く。

「私ね、テスト週間の少し前あたりからジムや芸術から離れて、死ぬ気で勉学に励んでるの。余分な時間を作らないように、起きているすべての時間を勉強に費やすの。もちろんテスト週間以外でも予習復習を絶やした事はないよ。私は頭が良くないからね。」私は自身の考えを話し続ける。

「頭が良くない、つまり人より頑張らなきゃいけないの。授業だけをしっかり聞いて、その内容を噛み砕いただけで点数が取れる人たちに勝つには、時間を掛けて努力しなきゃいけないの。少しずつ、確実に力をつけていくの。休んでいる暇はない。」ひとしきり話し終え、質問を投げてきた女子生徒に目を合わせる。

 

「死ぬ気で努力して、満点取れていないんだよ?素直に喜べないでしょ?私の視点からは、満点未満は等しく『まあまあ』な点数なの。そりゃ赤点以下はダメな点数だけれどね?私にとって80点も90点も変わらない。私が喜べる点数は100点ただ一つ。本当の意味で努力が報われのは100点なの。これが私の答えよ。……ただの自論を聞かせる事になってしまってごめんなさい。」私は頭を下げる。

 

「そんな……獅子崎さんが謝る事なんてないよ!答えてくれてありがとう。しっかり獅子崎さんの中で意味があったと理解できた。謙遜ではなく、私たちとは別のステージにいるんだね。」女子生徒も頭を下げてお礼を伝えてくる。その話が終わるや否や、うるさい声が近付いて来る。

「いやー、さすが私の親友、流可様だ!すんごい事考えてるなー、いやほんと凄い。語彙力失っちゃうよ!」恵が歩み寄ってきて、肩を組んでくる。

「こんな大勢の前でよくもまあ90点をまあまあだなんて言えるもんだ。流可が努力していない天才タイプだったら一発ぶん殴ってやりたくなる謙遜だ!ただ、まあ私は長い付き合いだし、流可がとんでもなく努力してるの知ってるしなー。とやかく言う権利ないわ。実際その自論で学年トップを走り続けてるんだし、ほんと尊敬だね。結果が全て!」恵はクラスメイト全員に聞こえる声量で私に話した。恐らくわざとだろう。その恵の声に続くように

「そうだよね、さすが獅子崎さんって感じ!」

「私も、もう少し努力してみようかな。」

「まさしく努力の天才だね。見習わないと!」と、教室全体が再び賑わいはじめる。少し冷えていた教室に温風を吹かす。これが恵がムードメーカーと呼ばれる所以だ。

 努力では簡単に手に入らない、時が経てば経つほど入手困難となる、場の空気を変える才能。今回のように私のエゴが爆発した時、いつも恵はこの才能で助けてくれる。私がこれまで敵を作らずに過ごせてきたのは恵のおかげでもあるのだ。腐れ縁と言ったが、感謝はしている。それと同時にまあまあ嫉妬もしている。

 こうして恵のヘルプもあり、テスト返却はあたたかな空気のまま幕を閉じた。

 

 

 昼休み、屋上。今日は恵と二人で昼食をとる。いつもはクラスの子たちと教室で大勢で食べるのだが、今日は恵と食べたい気分だった。

「もー、急に自論で殴り始めるのやめてよ。ビックリしたじゃん。顔は笑ってたけどさ、言葉が笑ってなかったよ流可。気を付けなよ。」

 

「ごめん。あんなに自分の考えを話すつもりはなかったの。ただ、説明してるとつい興が乗っちゃって……。ほんとごめん。」

 

「はあ、たまにそういうところあるからなー流可。ちゃんとストレスやメンタル管理しなよ。完璧な存在でありたいのは分かるけどさ、たまには休みな。見てるこっちがヒヤヒヤするから。根詰めすぎ。」

 

「まあまあ休んでるつもりなんだけどね。でも分かった。もう少し余裕を持てるように努力します。」

 

「努力しない時間を作る事に努力するのおかしいよ!?はあ……まあ私が何言っても流可が努力をやめない事は私が一番分かってるし、いいよ。好きにやるのが一番だしね。最悪私がサポートするから。ちょっとでもしんどいなーって時は相談してよね。」恵は呆れ顔で私に伝える。私はこくりと頷き、ご飯を頬張る。

 

 しばしの沈黙の後、恵が再び口を開く。

「あ、流可さ、『努力の天才』って言われた時、一瞬すごく嫌そうな顔してたでしょ。他の人は気付いてないと思うけど私の目は誤魔化せないぞー。」箸をこちらへ向け、ムスっとした顔で話してきた。マナーが悪いということは一旦置いておいて、私は答える。

「よく分かったね。表に出さないように努力していたんだけど。出ちゃってたか。よく見てるね。」私がそう言うと、恵は嬉しそうに跳ね上がる。

「やっぱりー!長い付き合いですからなー!気付きますよそりゃ!それでそれで?何が嫌だったの?天才に少なからず憧れがあるでしょ流可。『努力の天才』は気に食わない感じ?」恵は真剣な眼差しで私に問うてくる。おそらくこれも、本音をぶち撒けさせてストレスを発散させようとしてくれているのだろう。こちらも長い付き合いなのだ。恵の意図くらい理解できる。まあ、今日は助けられたし、大人しく相談に乗らせよう。

「私は天才が嫌い。私には何の才能も無いから。一方的に嫌っているの。努力しなくても元からステータスが高いだなんて、虫唾が走るよ。けどコレは、裏を返せば恵の言う通り憧れなのかもね。」少し悲しみを乗せ、続ける。

「だから私は努力した。何か開花する事を夢見た。勉強、運動、芸術、全てに手を出した。死ぬ気で頑張ったよ。ほんとに。結果、私は学校のトップになった。周りからは『完璧な人間』と呼ばれ、チヤホヤされる。天才ともよく言われるようになったよ。確かにここまで成り上がれるほどの努力、才能なのかもしれない。」拳をグッと握りしめ、少しずつを震えさせる。

「けどね、『努力の天才』はそれだけしか持てないの。この世で天才と呼ばれる人たちは、何かしら突出しているものがある。例えば絵が上手い、ゲームセンスがある、絶対音感を持っている、運動神経、身体能力が高い、記憶力が圧倒的に良い、こんな感じに色々あるでしょ?私はね、ここに努力は入れたくないの。だってね?さっき例えで述べた才能の持ち主だって『努力』は等しく行えるんだもの。既に持ち合わせている才能に努力というスパイスを足せちゃう。よく言うでしょ?天才が努力したら勝てないって。その中に『努力の天才』は含まれていると思う?私は思わない。『努力の天才』は既に『努力』という武器を消費してしまっているのだから。だからね、あくまで私の考えだけれど、『努力の天才』という言葉は『他に最適な褒め言葉が見つからない場合の代用』または『現実逃避のために、手の届かなさそうな存在に適当に貼り付ける値札』だと思っているの。だから、褒め言葉とはまったく逆の意味で考えているのよ。」私は下唇を噛んだ。少し感情が昂ってしまい、体がプルプルと震える。それを見た恵が、何も言わずに背中を撫でてくれる。震えが止まるまでゆっくり、ゆっくりと撫でてくる。それが、とても心地よかった。

 

 しばらくして私の震えはおさまり、恵が口を開く。

「……話してくれてありがとね。才能とかその辺の話って難しいよね。私は頭悪いし考えてもよくわからないや。でも流可はそこを人一倍気にしちゃうタイプだしね。何か、こういう時にいい言葉はないものか。うーん。」恵は腕を組み、考え込む。

「うん、考えた結果この言葉しかないや。流可は凄い!!!才能とか天才とかよくわからないけど、とりあえず流可は凄い奴!これだけは周りの人たちとも共通認識だと思う。とりあえずはこれで良くない?」恵がニッコリと笑いかけてくる。

 

「安直で馬鹿らしい答え……でも、ありがとう。少しスッキリした。そのくらいの、まあまあな考えでいいのかもね。聞いてもらってよかったよ。」私も笑い返す。

 

「よーし、少し元気出たみたいでよかった!モヤモヤした時は誰かに話すのが一番!また何かあったらいつでも話してよね。自論混じりでも何でも聞くからさ。」恵が立ち上がり、手を差し伸べてくる。私は頷き、その手を掴み、握手を交わす。

「やば、話しすぎた。次体育だからそろそろ着替え行こ!今日の持久走、勝負な!フィジカル面だと張り合えるからねー。今日は負けないよ!」恵に手を引かれ屋上を後にする。

 今日は二人で昼休みを過ごして正解だったな。より信頼を厚くする事ができた。このような時間もたまには悪くない。こうして、満足度の高い昼休みの時間は過ぎ去っていった。

 

 

 体育の時間、持久走を終える。

「獅子崎、さすがだな。息切れをほとんど起こしていない、男子と同じ距離でも余裕で走り切れそうだ。」体育教師が私を褒める。「お昼ご飯後なので、まあまあなタイムしか出せませんでしたが、ありがとうございます。」私は笑顔で返事をした。その時、後ろから声が近付いてくる。

「ああーーー!悔しい!また負けた!僅差だったのに!流可の安定感ヤバすぎ。ラストスパートで距離詰めるつもりだったのに、更に離されるとは思わないじゃん。」悔しそうに頭を抱える恵の姿がそこにあった。

「水野、お前もかなりいいタイムだったぞ。最後惜しかったな。ペース配分を見直せば獅子崎に一矢報いる事ができるかもしれんぞ。頑張れよ!」体育教師は笑いながら恵を励ました。

「先生に言われなくても今回の反省点気付いてますー!次は負けないからな流可!ぜってーに勝つ!」恵がうるさい声で話している間に、続々と他の生徒がゴールしてくる。

「またあのツートップだね。獅子崎さんと恵。走り切ってまだ余裕ありそうでほんと凄い。」

「獅子崎さん、やっぱり速いけど、それに食らい付いてる恵も普通に凄いよね。勉強はダメダメなのに。」

 体育の時間だけは恵も評価される。実際本当に凄い。私が運動できるのは日々の努力が形になっているだけの事。しかし恵は普段から運動をするタイプではない。バスケ部に所属はしているのだが、たまにしか顔を出さない幽霊部員。なので、ほとんど素で持ち合わせている力のみで、私に食らい付いてくる。こういう元から持っている武器を見せつけられると、更に努力しなければと思える。こんなまあまあな記録で喜んでいてはダメ。学校トップだろうが関係ない。基礎値が低いのだから、一瞬たりとも油断は許されない。本当に食らい付いているのは私の方なのだから。

 私は更に自分を鼓舞した。これが成長へと繋がるのだ。

 

 

 体育の授業も終わり、今日一日の授業は終わりを迎える。担任の先生が締めのホームルームを済ませる。全員で礼をし、放課後へと突入する。部活動に行く者、帰路につく者、教室で駄弁る者など、皆それぞれ思い思いに過ごし始める。

 私は担任の先生の資料運びを手伝う。こういった先生との信頼関係もどこかで武器になる。最初は自ら声をかけ、手伝いをしていたが最近は先生の方から「手伝ってくれないか」と迫ってくるようになった。かなり信頼をおける人物になれた証だろう。優等生として必要な項目だ。

「流可、私も手伝うぜ。」恵がニコニコしながら資料の半分を奪った。

「私にも手伝わせてくれよ。いっつも全部一人で片付けてしまうからさ。このくらいの事なら私にもできるし。少しだけでも頑張りを背負わせてくれよな。」恵は真っ直ぐに私に伝えてきた。彼女は純粋すぎる。私が先生との信頼関係のために手伝っているなんて思ってもいない。完全なる善意での行動だと認識しているのだ。だからこそ私の負担を減らすために手伝いを申し出てきたのだろう。なんともお節介なものだ。

 こうなった恵は折れないので、大人しく手伝ってもらうことにしよう。私はため息一つ吐いて「じゃあ、よろしく。」と恵に言う。すると恵は嬉しそうに「おう!」と返す。こうして二人で職員室へと目指す事となった。

 

 廊下を進み、階段を下る。そうしていると端の方に集まり、ボソボソと会話している女子生徒たちが目に入り、声が聞こえた。

 

「ねえ、獅子崎さんってさ、めちゃくちゃ優秀で良い子ってのは分かるけど、いちいち『まあまあ』とか言って謙遜するの、ちょっとイライラしない?」

「わかるー。あんな高得点とって『まあまあ』とか言われたらさ、私たちの点数どうなるのって感じ。全員の気を悪くするって気付けないのかな。凡人の考えなんてわからないって事かな。」

「ほんとそれ。体育とかでも良く言ってるみたい。めちゃくちゃ動けるくせにね。口癖だとしたら直した方が絶対いいよねアレ。」

「あー、誰か獅子崎さんを呪ってさ、こちら側の考え理解できるようにしてくれないかな。一回同じ土俵に落ちてきて欲しいわー。」

 

 会話内容は私に対する不満の嵐だった。ずっと優等生を演じてきていたが、まあ陰口を言われる事は覚悟していた。人間は自分より出来のいい者を敵対視しがちなのだから。女子高生ともなれば尚更だろう。階段を下り終えた時、私はその子たちと目が合った。

「あ……獅子崎さん……」その集団は青ざめた顔で私を見つめる。

「お前ら……!好き勝手言いやがって──」恵が声を荒げようとしたのを、私は手を広げて押さえる。


「いいよ。呪ってくれても。ごめんね、嫌な思いさせちゃって。私、嘘がつけないの。私自身が本当に『まあまあ』だと思ったからこその発言なの。みんなを見下したり謙遜をしているつもりは無かったの。不快にさせてしまっていたなら、本当にごめんなさい。」私は深々と頭を下げる。

「い、いや、獅子崎さんが謝る事はなくて……こちらこそごめんなさい。努力してるんだもんね獅子崎さん。軽率な発言だったかも。ほんとは私たちみんな獅子崎さんのこと尊敬してるし!つい、話がノリに乗っただけで。ね!みんな!」女子生徒たちはこくこくと頷き、浅い謝罪を投げかけてくる。その後、ぺこぺこしながら足早に去っていった。

 

「流可、なんでお前が謝ってるんだよ。私がガツンと言ってやろうと思ったのに。」恵がムスっとしながら足をパタパタとし、苛立ちを露わにしている。

「不快にさせてしまった私にも非があるの。だから謝る事が最優先。それだけだよ。」私は笑顔を作り、恵を宥める。

「はあ、流可がそう言うなら……わかったよ。」恵は納得はしていないが理解はしてくれたようで、機嫌を取り戻す。私たちは再び職員室へと歩を進める。

 

『私にも非がある』と言ったが、これは優等生としての建前だ。私に非があるだなんて思ってはいない。努力していないあの子たちが悪い。これは紛れもない事実だろう。

『呪ってもいい』という言葉は本心から出たものだ。『人を呪わば穴二つ』。恐らく私を呪っても向こうに穴が返ってくるのみ。努力もせずにヘラヘラと陰口を垂れるているだけの人間、そんな奴らの呪いなど私に届きすらしないだろう。悔しかったら私と同等、またはそれ以上に努力をすれば良いのに。彼女たちは『まあまあ』という言葉を扱える基準にすら達していないのだから。そんな事を考えていると、職員室へ到着した。

 

 資料を先生のデスクへと届け、私たちは職員室を後にする。

「はー、色々忙しない一日だったな。疲れたー。よし、流可と帰る!と言いたいところだけれど、そろそろ部活に顔出さないと顧問ブチギレてるみたいだから行くわ……また明日な!」恵はそう言うと、手を振りながら走り去っていった。私は手を振り返す。

 さて、テスト週間も終わった事だし、ジムにも行かなければいけない。私は帰路に着くとしよう。こうして今日の学校でのタスクは全て終了した。

 

 

 帰り道、視線を感じながら歩いてゆく。自分で言うのもなんだか、私は巷でも名の知れた優等生だ。なのでいつも目を引いてしまう。ボランティアや地域の活動にも積極的に参加しているから当然だ。今日はたまたまその視線が多い、ただそれだけの事。特に気にせず自宅を目指す。それよりも今日聞いてしまった『陰口』の事を考えながら歩いていた。彼女たちは『まあまあ』という単語が鼻につくようだった。

 

 

 私は『まあまあ』という言葉が大好きだ。否、『まあまあ』という言葉が一番似合う人間だと感じている。

 普段この言葉は、良くも悪くもない場合や謙遜、怒っている人を宥めたり励ましたり、色々な場面で使用するだろう。これらに共通する事、それは上の者が下の者へと使う事が多いのだ。「まあまあかな。」と使用する場合、テストで例えるなら、赤点でこの単語は使わないだろう。少なくとも半分、平均あたりを取ったり7割程を取る人が使う。これは、たとえ本人に自覚がなかったとしても、赤点の人から見た場合、とんでもない謙遜に見えてしまう。これが、努力していないのに平均を取れているならば尚更だ。「平均点でまあまあ?こちとら赤点回避で高得点だぞ。」という捉え方に少なからず陥るはずだ。まあこの場合、立ち位置が違いすぎて単純に「凄い」という感想に落ち着く場合もあるだろう。性格に左右される部分だ。仲の良い友人同士のノリで「まあまあだったわ。」と使う事もあるだろうしね。

 次に、怒っている人を宥めたり励ましたりする時に使用する場合だが、これは完全に精神的優位者が『まあまあ』と言い放つ。少なくとも使用する者よりも、される側は精神が不安定な状態にあるだろう。喧嘩の仲裁に「まあまあ」と割って入る者は、その状況下では、喧嘩している人間を無意識に下に見ているのだ。喧嘩に限らず、議論をまとめる場合でも「まあまあ、一度落ち着いて。」と場をリセットしたりと、ある程度自身に力がないと使えない言葉だと私は考えている。少なからず他人より「上位」にいる場合に力を発揮する言葉なのだ。

 ここまで『まあまあ』という言葉の使われ方を説明したが、どうして私が一番似合う人間なのかを解説しよう。

 

 そんなに難しい話ではない。私が全てのステータスを努力のみで上げた事、ここに全てが詰まっている。

 例えばだが、天才と呼ばれる存在が何か成果を出し「まあまあ」と言ったとしよう。その場合とんでもないヘイトがその人へと向けられるだろう。頑張っているのに成果が出ていない人間、その全てを敵に回してしまうのだ。運動、芸術、勉強、どの項目にもこれは当てはまる。天才と呼ばれる人間に「まあまあ」という言葉は不釣り合い、使う事自体に危険が伴う相容れない言葉なのだ。

 

 だが私は違う。

 

 全てのステータスが低い私が死ぬ程の努力で学年トップの座を手に入れている。それに努力している事も公にしている。わざとね。

 天才ではない、努力し続けている私が放つ「まあまあ」は、絶大な力を持つ。テストで90点を出そうが、私にとってはまあまあ。これが天才や、努力していない人が言っていたとしたらどうなる?陰口では済まない、イジメに発展するほどに事は大きくなるだろう。

 しかし私には裏付けられた努力がある。それを周りも理解している。だからこそ私は「まあまあ」を多用しながらも、今優等生として慕われている。これが何よりの証拠だろう。「努力をしている」という紛れもない説得力が私にはある。仮に文句を言われようものなら「私と同じくらい努力すれば、気持ちがわかりますよ。」と返せば相手は何も言い返せなくなる。本当に努力している人間など限られているのだから。皆は私を完全に「上位」と認識しているからこそ、私の「まあまあ」を受け入れてくれる。元々同じステージにいた人間だからこそ、努力で成り上がった私に頭が上がらないのだ。

 

 今日クラスで私は『自論』を吐いた。しかしあれは嘘だ。内容自体は本音を話してはいたが、自論は胸の内に秘めておくものだ。口に出してしまえば自論ではない。

 私の本当の自論、それは「世界で一番『まあまあ』という言葉を使うに相応しい人間である事」なのだ。天才ではない私が、唯一の存在となれる大穴。才能がない故に立てるこの最高に「まあまあ」なエリア。才能のない人間が、努力を繰り返してこそ座れる玉座。ここを死ぬ気で守り切る。努力だけで上位者へと上り詰めた者の特権。誰にも邪魔はさせない。どんな天才でも侵害できない、私だけの領土なのだ。

 だからこそ、今日聞いてしまった陰口は少しビックリした。私の努力を知っていながらも、あんな事を簡単に口にできてしまうものか、と。まあ彼女たちに私をどうこうする力はない。放っておいて問題はないだろう。仮に何か企んだとしても、私の優等生としての力の方が強い。先生方への信頼も厚い。こういう面でも努力を怠らない事、日頃の行いが私の自論を守ってくれる。私の安寧は簡単には揺るがない。

 

 

 色々考えているうちに、自宅であるマンションまで到着した。帰り道に自論を振り返る、たまには良いな。この機会をくれた陰口女たちには感謝しなければいけない。さて、この後はジムもある。頭を切り替えよう。私は自身の頬をパン!と叩き、気持ちをリセットする。そして自身の部屋がある階層へとエレベーターで向かった。

 

 

「ただいまー。ママー、今日のご飯何ー?」私は靴を脱ぎながら話しかける。

「おかえり。今日はハンバーグよ。」キッチンから母の声と肉の焼ける音、香ばしい空気が一緒くたに流れてくる。

 私の家庭は、父が単身赴任に出ているので、母と二人暮らし。狭いマンションではあるが、二人ならばある程度ゆったりと過ごせる。特に不自由ない暮らしを送っている。

「流可、テストの結果どうだった?今日返ってきたでしょう。」母が料理をしつつ、こちらへ声を掛けてくる。

「まあまあだったよ。全教科90点は乗っている感じ。」私は即答する。

 

「あんたねぇ、その点数でまあまあなんて学校で言ってないでしょうね?嫌われるわよ。」

 

「聞かれたら答えるけど、自分からは言ってないよ。一つも満点取れてないんだから何も間違ってないでしょ。誰が何と言おうと私の中ではまあまあなのー。」

 

「はあ、あんたって子は……あんたがそんな事言ってるとママも誇るに誇れないのよ。ママ友内で自慢したいのに!」

 

「別にママの自慢のために努力してるわけじゃないし。そこは私の管轄外だよ。それに『常に上を目指し続ける優等生』として自慢すれば解決じゃない?それ。向上心という言葉を使えばいいだけだよ。頭使おうよママ。」私はニマニマと笑いながら頭に指をコンコンと当てて母を煽る。

「憎たらしいわね。あんたのハンバーグだけハムみたく薄っぺらにしちゃうわよ。料理は私の采配一つなのよ。」

 

「ごめんってば。冗談だよママ。ママのハンバーグはまあまあなんて言葉じゃ足りないくらい美味しいから。分厚いのが食べたい。」

 

「……それ、褒めてる??馬鹿にしてない??はあ……まあいいわ、もう出来上がるから一緒に食べましょ。ご飯よそってくれる?」

 

「はーい。」

 私は二人分のご飯をよそい、席に着く。母も席に着き、一緒に手を合わせ、「いただきます」をする。

 

 学校終わりの母のご飯、疲れた体に染み渡る。つけっぱなしのテレビの音を聞きながら雑談をして過ごす食事の時間、この時間が私は好きだ。

「それでさー、陰口言われてたの今日。私の努力を知っていながらだよ!?どう思うママ!」

 

「ママでも陰口言うわよ。その点数でまあまあだなんて言われたら。努力してようが多少イライラするわ!」

 

「ママそっちの味方なの。はあ……やっぱり全員が全員私の『まあまあ』を理解してくれるわけではないかー。難しいなー人間。」不貞腐れながらハンバーグを頬張る。

 

「謙遜にしか聞こえないからね。程々にしなさいよ。あんまりしつこいと『まあまあお化け』が来ちゃうわよ。」

 

「何それ、私もうそういうので怖がらない歳なんですけど。子供じゃないんだから。なーにがまあまあお化けよ。」そんな話をしていると、玄関のドアノブがガチャリと音を立てる。私は焦ってドアの方へと視線を向ける。

 

「ほーら。まあまあお化けが来ちゃったわよ。」母がニマニマと煽ってくる。その後、ドアノブが動く気配はない。

 

「いやいや、隣の部屋の人が間違えたんでしょ。はあ、タイミング悪。」肘を机について頭を抱える。

 

「流可、あんた物凄い勢いで振り向いてたわよ。まだまだ怖がりなのね。ふふ。」

 

「あーーー、うるさい。今のタイミング、誰だって振り返るでしょ。別に怖がりじゃないから。」私がそう言うと母は「はいはい」と言い、食事に戻る。今まで隣人が間違ってドアノブを捻った事なんてないのに、なんでよりによって今なのか。イライラしつつ私はご飯を食べ切った。

 

 食事を済ませ、食器を洗いを終え、自室に入る。私の部屋は、壁一面に「努力」「継続は力なり」「努力は必ず報われる」などが書かれた紙がびっしりと貼ってある。空いているスペースに、これまで受賞したコンクールの賞状を飾ってある。これらの装飾が私に力を与えてくれる。どれだけ心が折れそうでも、壁にある言葉を見るだけで立ち直れる。ここは私だけの神社のようなものだ。私は部屋で深呼吸した後、準備をしてジムへと向かった。

 

 

 今日ジムでは上半身メインのトレーニングメニューをした。下半身は持久走で疲弊しているのでゆっくり休める。だがストレッチは入念に行う。明日に疲労を残さないため、ゆっくりと時間をかけて体をほぐす。そして疲れ切った体にプロテインを注ぎ込む。運動後30分以内に飲むと良い。プロテインが体に吸収されていく感覚が味わえる。これを経験した事がないのは損と言える。努力した人間にしか得られない成分だ。

 

 いつも5セットほど行う上半身メニューだが、今日は3セットで切り上げた。今晩はなるべく早めに帰りたいからだ。本当はもっと体を動かしたい。更に強くなるために。なのに何故帰るのかと言うと、理由は一つ。

 私は怖がりだからだ。

 

「もう、ママが変なこと言うから暗い道がちょっと怖くなっちゃった。ほんとやめて欲しい。」

 母に「怖がりじゃない」と言ったのは見栄を張っただけだ。本当は今も昔も死ぬほど怖がりだ。

 ため息を吐きながら暗くなった道を早足で歩く。子供騙しみたいな話で怖くなってしまうとは、流石に怖がり耐性を付けたいところだ。努力では克服し難い本能的な弱点というものは、本当に厄介だ。

 

 マンションの下までたどり着いた。ここまで来たらもう怖くない。早く自室へ行こう。

 エントランスでは住人が世間話を繰り広げている。目が合ったのでペコリとお辞儀をし、足早にエレベーターへと乗り込む。6階へと到達し、廊下を進む。私の自室は角部屋なのでエレベーターからの距離も長い。なので夜間は走り抜けるようにしている。今日は尚更早めに走る。「早足で帰ってきたから、まあまあ疲れた……今日は作品を吐き出す時間を無しにして早めに寝よう。深夜まで起きてるのも嫌だし。」こうして、私は帰宅してお風呂を済ませ、すぐに床に就いた。いつもよりずっと濃い一日はようやく終わりを告げた。

 

 

 この日の夜、私は夢を見た。黒い靄のようなものが、大量に私を追いかけてくる。それらは何か言葉を発しながら、ゆっくりと迫り来る。最終的に私は囲まれ、それが私に何か言う。ニチャニチャと笑う白い顔が見えたところで目が覚める。

 

 

 

 

 私は飛び起きた。

「はあっ……はあ……夢……夢か……もう、最悪。久しぶりに悪夢見たんだけど。全部ママのせいだ。」カーテンの隙間から朝日が溢れていて、朝という事を認識する。

 夜に目覚めなくて良かった。私は少し安堵した。こんな夢を見て、丑三つ時に目が覚めていたならば耐えられなかっただろう。深呼吸をして、心を落ち着かせる。

「よし、まずはランニングに行こう。頭をリフレッシュするのに最適だからね。夢の事はそこで忘れよう。」私はジャージに着替えてランニングへと出発する。

 

 朝日が心地よい。住宅街をぐるりと走り抜ける。今日はいつもより人が少ないな。普段であれば老父婦がジョギングしていたり、犬の散歩をしている人を見かけるが、今日は誰ともすれ違わなかった。まあこういう日もあるだろう。一人で集中して走れるから、人が少ないのもたまには悪くない。中々に快適だ。

 

 ランニングを終え、自宅へと戻る。するとキッチンから声が聞こえてくる。

「あら、おかえり流可、お疲れ様。今日はまあまあ早かったわね。朝ご飯できてるわよ。」母は私が帰って来るタイミングでいつも朝食を準備していてくれる。昨日の事はまだ許せないが、こういう面ではとても感謝している。


「今日の目玉焼き、半熟だね。珍しいね、いつもは固焼きなのに。」

 

「そうでしょ?いつもよりまあまあな焼き加減で止めたのよ。半熟も出来るという事をアピールしておかなくちゃ。味変みたいなものよ!」母はウキウキと話してくる。

 

「あー、はいはい、凄いよママ。朝から元気だね。」私は呆れ顔で返す。学校の準備もあるので、せかせかと朝食を頬張る。母はその様子をジーっと見つめてくる。なんだか落ち着かないな。

「ママ?何か言いたいことでもあるの?ずっとこっち見てるけど。」

 

「あら、ごめんなさい。えーっとそうね、何だったかしら。……あ!思い出したわ!今日少し出かけてくるから!ご飯遅れちゃったらごめんなさいね!まあまあな時間に帰ってくるわよ。」母はニッコリと私に話しかけてくるが、私は眉を顰める。

「私の口癖を多用して煽ってる?……あー、それで私の反応を見てたのか。そんなのに乗らないよ馬鹿馬鹿しい。ごちそうさま。」私はそう言い残し、部屋に戻る。色々支度もあるのに、テンションの高い母に構っていられない。

 

 数十分して、全ての支度を終えて玄関へ。

「いってきまーす。……あ、口癖煽り、使い方すごく下手だったからやめた方がいいよ。じゃ。」私はペロッと舌を出し、母に煽り返してから学校へと向かった。

 ここからは優等生の獅子崎流可。切り替えなきゃね。こうして私は通学路を歩き始めた。

 

 通学路はいつものように賑わい、挨拶の応酬だ。皆が私に「おはよう!獅子崎さん!」と声を掛けてくれるので、私も元気に「おはよう」と返す。そこで、色々な人に挨拶を返していて私は気付いた。今日は同じ学校の生徒だけでなく、接点の無い近隣住民の方々まで挨拶や視線を送ってくる。どうやらまた知名度が上がってしまったようだ。毎日これだけの人に挨拶を返すのは骨が折れるな。だが、気分は悪くない。私は色々な方向へと手を振りながら、有名人になった感覚で学校まで歩いた。

 

 

 教室に入り席に着くと、いつものように友達に囲まれる。

「このイヤカフさ、まあまあ良くない?昨日買ったんだよねー。」

「昨日最終回のドラマさ、なんか全体通してまあまあだったよね。流可の感想が聞きたいな。」

「流可ー、宿題教えて欲しいの。自分でまあまあ頑張ったんだけど、結局解けなくて。」

 

 私は何か小さな違和感を覚えながらも、一人一人相手をした。みんなの言葉がどこかで既に聞いた事があるように感じたが、私の考えすぎだろう。皆の相手をしているうちに時間は過ぎ、担任が入ってきてホームルームが始まった。

 

「おはようございます。今日はこの前行われた中間テストの結果が、返却されると思います。皆さん、補習で私の時間を奪わないように、お願いしますよ。」先生は皮肉ったらしくホームルームを終わらせた。しかし私が気になったのはそこではない。テストは昨日、全て返却されたはずだ。さすがにおかしい。だが、周りの生徒たちは何も気に留めていないようで、「結果どうだろうねー」などとワイワイしている。私が変なのだろうか。そんな事を考えていると、こちらへ足音が近づいて来る。

「今回は自信ありですよーだ。流可に教えてもらってまあまあ把握できたし。嫌味ったらしく言いやがって。」恵が文句を垂れながら私の隣へと歩み寄ってきた。どうやら恵もテスト返却について、何の疑問も抱いていないようだ。

「ねえ、恵。テストって昨日全部返って来なかった?返し忘れてた教科あったっけ?」私はあまりに気になり、思わず聞いてしまった。

「はあ?何言ってんだ?テスト返却は今日だろ?疲れがまあまあ溜まって記憶が狂っちまったか?流可ー。」

 

「そ、そっか……ごめん、ちょっと疲れてるのかも。変なこと聞いてごめんね恵。」


「まあまあ、そういう時もあるって。じゃ、後で点数見せてくれよな!」そう言って恵は自席へと戻って行った。

 

 本当に私の記憶違いなのか?誰も疑問に思っていない以上、私が少数派だ。しかし、納得ができていない。夢かと思い頬を抓るが、しっかり痛い。何なのだろうこれは。まあ、あまり考えても仕方がない。テストが返ってくるらしいし、今は周りに合わせて流されよう。私の中で疑問と諦めがぶつかり合い、今は諦めを優先した。あまり変な素振りをしていると、周りの目を引いてしまう。ここは冷静に、笑顔を作ってやり過ごそう。私はいつものように授業の開始を待った。

 

 

「よーし、テストを返却していくぞー。」先生は声を張り、一人ずつ名前を呼び始めた。私は冷静を装っているが、本音を言うと担任の言い間違いであって欲しかった。テスト返却が始まってしまい、言い間違いでなかった事が証明された。私は肘をついて頭を抱える。どうやら私がおかしいらしい。信じたくはないけれど、現実を受け止めるしかないようだ。今は無理矢理にでも自分に言い聞かせる。

 

「獅子崎ー」

 

 私の番だ。今日は、緊張感よりも違和感がとても気持ち悪い。ゆっくりと先生の方へ歩を進める。そして、少し落ち着かない態度で先生の目の前へと立つ。

 先生は無言で答案用紙を渡してきた。点数が悪かったのだろうか。私はゆっくりと点数を視界に入れる。

 私はホッとした。昨日と全く同じ点数だ。全教科90点以上で、おそらく学年一位だろう。私が安堵して席に戻ろうとすると、先生が口を開く。

 

「獅子崎。まあまあな点数だったな。次も頑張れよ。」

 

「はい?」私は思わず声を出す。あまりに予想外なコメントを言い付けられたから当然だ。

「先生、それ……どういう事ですか?」

 この点数で『まあまあ』は私の基準では当てはまる。だが先生や他の人から見た場合、高得点のはず。学年一位の点数なのだから。

 私は少し頭に血が上り、強い口調で先生に問いかけてしまった。

 

「??どういう事もなにも……まあまあだな、と。それだけだぞ。」先生は真剣に答えている。目を見ればわかる。本当に思った事を口走っているだけだ。私は脳内がぐちゃぐちゃになっているが、一旦深呼吸をして心を平静にする。

「すみません……少し取り乱してしまって。わかりました。ありがとうございます。頑張ります。」皆の視線が集中する中、私は足早に自分の席へと戻る。

 今日は、何かがおかしい。絶対におかしい。私に問題があるとは到底思えない。テストも記憶通りの点数だ。やはり一度見ている。私は間違っていない。私は机で頭を抱えて混乱していた。一体何なの、コレ。何が起こっているの。私が頭を抱えていると、クラスメイトたちが私の点数見たさに集まってくる。

「どうしたの獅子崎さん。声荒げちゃってたけど。もしかして点数低かった?」そう言って皆が心配そうに覗き込んでくる。

 私は無言で答案用紙を机に並べた。皆に見せつけるようにズラリと90点以上の答案用紙を並べた。しばしの沈黙が続いた後、クラスメイトたちが笑いだす。

「なーんだ!まあまあじゃん!心配して損したー!」

「まあまあな点数だね。さすが流可!」

「全然落ち込む事ないくらいまあまあじゃないか。何で声を荒げたりしたんだい?」

 

「……は?」私は再び声を漏らす。混乱していた私は理解が追い付かなかった。

 まあまあ……?皆から見てこの点数が?学年一位が?まあまあ?そんなわけないでしょ。憧れる点数でしょ。何でみんな笑いながらまあまあだなんて言ってくるの?訳が分からない。

 

「あ……ああ……ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」あり得ない出来事が連続して起こりすぎて、脳の処理が限界を迎える。私はパニックになり発狂してしまった。机を叩き、答案用紙をぐしゃぐしゃにする。そんな私をクラスメイトたちは静かに見つめていた。

 ひとしきり暴れた後、少し冷静になる。

「はあ……はあ……そうか、分かった。そういう事ね。昨日陰口言ってた子達の仕業でしょ。私の口癖をクラス、いや学校中に広めて馬鹿にしようという魂胆ね!?ほんと陰湿なやり方。正々堂々、ぶつかって来る事もできないんだ。臆病者!」私は廊下まで響く声量で言い放つ。皆は顔を見合わせて、よくわかっていないといった表情を浮かべている。

「えっと……獅子崎さん、大丈夫……?私たち、何か言っちゃった……?」クラスメイトたちが心配そうに声を掛けてくる。それを見て私は素に戻る。

 

「ごめんなさい……ちょっと、疲れが溜まっていたのかな。保健室に行ってくるね。」私は静まり返った教室を飛び出した。

 あーあ。優等生の獅子崎流可のイメージ、もう終わりだな。こんなに簡単にボロが出ちゃうなんて、私もまだまだ弱いな。メンタル、自信あったんだけどな。チヤホヤされ続けてきたから、メンタルを試す場がなかっただけなのかな。

 

 私は泣きながら廊下を走った。

 初めての校則違反、少し清々しかった。

 

 

 私は保健室には行かず、気付けば屋上へと辿り着いていた。ここが一番気分が落ち着く。外の空気ほど感傷に浸れるものはない。私は一人、ボーッと景色を眺めていた。

「授業中に屋上来ちゃった。もう優等生は失格だね。はあ、しばらく教室には戻りたくないし、どうしよっか。」教室に戻るかどうか、しばらく理性と本能がぶつかり合い、頭を悩ませる。しかし私はすぐに考える事をやめた。

 

 私はベンチに寝転がる。

「どうせサボっちゃったんだ。それならこの状況を満喫しよう。昨日は悪夢で眠りが浅かったし、ここで放課後くらいまで昼寝しよ。」今日は快晴。昼寝にはもってこいの天気だ。

 教室を授業中に飛び出してしまったのは悪い事だ。それは間違いない。しかし、飛び出した事によって、サボる人の気持ちに理解を深められた。これは良い経験として活かしていきたい。教室に戻りたくないって、こんな感覚なんだね。中々にキツいものだ。

 

 私は色々な事を考えながら目を閉じた。

 


 何時間経ったのだろうか、私は目を覚ます。日は沈みかけており、空は真っ赤に染まっていた。かなりの時間眠ってしまっていたようだ。私は起き上がると、隣に誰かが座っている事に気付く。

「やっと起きたか、流可。随分と長い時間サボったね。まあまあ眠れた?」隣にいたのは恵だ。どうやらずっと、私が起きるのを待ってくれていたようだ。

「おはよう。うん、眠れた。……ごめんね、発狂とかしちゃって……恵にも心配かけたよね。」

 

「まあ、心配はしたけどさ。謝らないで!みんな気にしてないヨ!教室に戻ろう!私がついてる。怖くなんかないよ。」恵は私の返答を待たずに手を掴んできた。そのまま引っ張られて私は屋上を後にする。

 

 私が起きるまで待ってくれていたからだろう、恵の手はとても冷たかった。

 

 恵に手を引かれるまま、廊下を歩いてゆく。

 きっと、恵は私がサボっている間、クラスメイトに私が嫌われないようフォローしていてくれたんだろうな。だからこそ、教室に戻っても怖くないと言ってくれたのだろう。今は、この優しさに溺れていよう。

 

 しばらく歩いていると、とある事に気付く。先程からやけに静かだ。おそらく授業も全て終わり、ホームルームの時間だというのに先生の声も聞こえない。少しくらい生徒のざわつく声も聞こえてよい気がするのだが。何個も教室を過ぎ去っているが、どこからも声らしきものは聞こえなかった。

「さ、着いたよ。入りなよ、流可。」教室の前に着くと、恵は私の背を押してドアを開けさせようとする。もしかすると、何かサプライズを用意しているのだろうか。私を元気付けるために、恵が何か計画してくれたのかもしれないな。私は覚悟を決め、ドアを開いた。静かな校内にガラガラと音が響き渡る。

 

「え?」

 

 私は戸惑い、小さな声を出す。教室内に広がっている光景は、私の想定していないものだった。

 

 

 教室内の全員が私の席を囲むように立っており、合掌している。生徒だけではなく、担任の先生までもがそこに参加している。その光景は異様な雰囲気を漂わせていた。夕日で真っ赤に染まった教室が、より気持ち悪さを演出している。私はただ立ち尽くす事しかできない。何が行われているのか理解が追い付かない。

「さあさあ、入って入って。みんな!流可がお戻りになられたよ!」恵が私を押して、教室に入れながら皆に声を掛ける。その声で合掌していた全員がグリンとこちらを向く。

「おお!獅子崎!戻ったか!ごめんごめん!こんなに囲まれていたら座れないよな。よし、全員席に戻れ。ホームルームを行うぞ。」先生はニコニコと笑いながら皆に指示をする。その号令を受け、全員自分の席へと戻った。

 私は何もわからないまま、恵に席へと連れていかれる。そして恵も自分の席へと座る。全員が着席したタイミングで、先生が口を開く。

「獅子崎が戻ってきたぞ!バンザーイ!みんなミンナ嬉しいナ!ワーイワーイ!」先生がそう言うと、他の生徒たちが一斉に手を上げ、バンザイをする。私はその光景の圧に完全に萎縮してしまう。生徒たちは、教壇にいる先生ではなく、真っ直ぐに私を見つめてくる。気味が悪い。

「獅子崎。今日、せっかくテスト返したのに、一度もまあまあって言ってない。イッテ。ほら、言って。」先生が私にそう言うも、私は完全に硬直状態で何も言えない。

「どうして、ドウシテ聞かせてくれない?マーマー。ねえ、マーマー。言って。そろそろ言おう?まあまあ。」子供に話しかけるように、更に催促してきたので私は答える。

「わ、私は、理由もなくその言葉は使いません。ちゃんとそれに見合う事象が起こった場合に、使うようにしているのです。そんな風に、馬鹿にするように催促されても言いたくありません。」私にも譲れないプライドというものがある。『まあまあが一番似合う人間』として、理由もなくまあまあと乱用したくはない。しかも、明らかに馬鹿にされているこんな状況、死んでも言うものか。恐怖の中、私は自分の考えを貫いた。

「事象、ですか。よし、ミナサン!見せましょウ!獅子崎さん、見ていてください!まあまあ言いたくなりますよ。」

 先生がそう言うとクラス全員が自身の頭を掴む。そしてグリュンと音をたてながら捻り始める。目は陥没し、光の届かないほど真っ黒に染まってゆく。私はあまりの光景に腰を抜かし、椅子から転げ落ちる。声にならない声を発しながら、皆が頭を捻る様を見ていた。

「どうですか?獅子崎サン。この頭の角度、まあまあじゃないですか?マーマーでしょう!」全員の頭が90度回転して、地面と平行になった。そのまま私を見つめて笑っている。

 私はパニックだ。目も泳いで、体が小刻みに震えている。腰を抜かしているので、四つん這いで教室の出口へと進む。

「180度だとやりすぎ!360度だと元通り!90度!マーマー!まあまあ!でしょう!……デモ、まだまあまあと言ってくれないですね。足りない?」そう言うと、皆は体が雑巾のように絞られていき、やがて黒く細いもやしのようになってゆく。90度頭が傾いた黒い化け物が大量に出現した。

「いやぁぁぁぁぁ……!!!」私はついに叫んでしまった。私の体は、腰を抜かしている場合ではないと判断したのか、本能的に立ち上がり、全力で教室を飛び出る。誰か、他の教室の人、助けを求めないと。私は隣の教室を開いた。

「助けてください……!化け物が!化け物が大量に──」そこまで叫んだところで私の声は詰まった。


「獅子崎さん、どうしたんですかー?マーマー大変なコトですカ?助けてあげます。相談どうゾ。」

 そこにいたのは先ほど見た黒い化け物だった。隣のクラスの人間も、全員同じ見た目になっていたのだ。私は即座にドアを閉め、階段へと走る。

 学校から出なければ、校内に安全なところはおそらくない。全員あの化け物になっていると考えた方がよい。私は息を切らしながら、全力で階段を下り切る。そして下駄箱まで辿り着いた。

 アレは何……?黒いもやしのような見た目。体が捻れた後、脚は無く、浮遊しているように見えた。学校の怪談でも聞いた事がない化け物だ。妖怪の類だろうか。とにかく考えるのは後にしよう。今は学校を出なければ。校門まではそこまで遠くない。下駄箱で少し息を整える。

 そうしていると後ろから視線を感じた。私は慌てて振り返る。職員室から化け物がぞろぞろと出てきている。階段からもクラスメイトの顔をした化け物が、遅くもなく速くもない、絶妙な速度で迫ってきていた。

 私はそれを見て、即座に走り始める。どうやら速度は私の方が速いらしい。どんどん距離が離れてゆく。普段から体を鍛えておいて良かった。努力がこんな形で報われるとは思っていなかった。

 ユラユラと近付いてくる化け物を横目に、私は校門から飛び出た。

 

「はあ……はあ……」私は息を切らし、膝に手をつく。少し後ろを見るが、化け物の姿は見当たらない。とりあえず逃げ切れた。だが、今は振り切れただけで、まだ追ってきている可能性はある。早く助けを求めなければ。ここで止まっている暇はない。警察でも、近くの売店でもいい、助けてもらおう。私は少し息を整えてから、近くのコンビニへと駆け込んだ。

 

「すみません、そこの学校の者なのですが、助けてください。学校内の全ての人間が化け物に変わってしまって!」こんな説明で伝わるわけがない事は分かっている。しかし私自身、明確な説明ができない事象なのだ。仕方がない。とにかく助けを求める事が最優先だ。

 

「ま、まあまあ、落ち着いてください。ゆっくりと説明してください。何があったんですか?事件ですか?」コンビニ店員は驚いた様子で私に問いかける。

「化け物に追われているんです。警察、警察に連絡してください!急にこんな事言われても意味が分かりませんよね。ごめんなさい。でも本当なんです。化け物が迫ってくるんです!」私は早口で返す。ここは学校からも一番近いコンビニ、それ故、手短に話を伝えなければ、奴らが追い付いて来るかもしれない。冷静に頭を使って話している時間はないのだ。

 

「何があったのかよくわかりませんが、警察に連絡すれば良いのですね?わかりました。でも、その前に落ち着きましょう。獅子崎さん。」コンビニ店員がニコッと笑う。私は店員の言葉に違和感を感じた。私はその言葉を聞き逃さなかった。

 

 

「私、名前言いましたっけ……?」

 

 

「ハイ!言いましたヨ!あ、シマッタ、言ってなかったカモ。まあまあ、落ち着きオチツキましょう!とりあえず、まあまあと言いましょう!マーマー。」店員はケタケタと笑いながら姿を変えてゆく。頭は90度曲がり、体が捻れてゆく。

 私はすぐにコンビニを出た。ダメだ、学校外にもいる。もしかして、街の人間全員がこうなっている?とても嫌な考えがよぎるが、足を止めていられない。

 すれ違う人全員が私をニチャニチャと笑いながら見てくる。おそらく推測通り、皆あの化け物になっている。通り過ぎる住宅の窓からこちらを見る視線も感じる。街全体が私を見ている。

 

 私は走った。全力で走り続けた。目的地は自宅。ここまで見てきた感じ、どうやら奴らは壁をすり抜けたりする事はできないようだ。職員室から出てきた時も、律儀にドアを開けていた。私の見た記憶と推理が正しければ、鍵をかけてしまえば入ってこれないと考える。走りながら徐々に冷静さを取り戻す。

 だが、考えても考えてもこの化け物が現れた理由だけが本当にわからない。思い当たる節もない。罰当たりな事もしていないはずだ。ずっと努力だけを続けた私が、悪い事など何もしていない私がどうしてこんな目に。そんな事を考えていると、一つ、昨日聞いた言葉を思い出した。

 

 

「あー、誰か獅子崎さんを呪ってさ、こちら側の考え理解できるようにしてくれないかな。」

 

 

 まさか、誰かが私を呪った……?陰口を言っていた女子たちが呪ったのか?タイミングから考えても、今私の持ち得る知識の中では最適解だった。

 だとするなら、絶対に許せない。何が何でも逃げ切って、絶対に驚かしてやる。呪いだろうが何だろうが私を止められるものは無いのだと。証明してやる。こんなところで屈していられるか。穴を二つとも返してやるんだ。私の決意は固まった。

 

 色々答えが見えてきたタイミングで、マンションが見えて来る。あと少し、家に入ってしまえばゆっくり解決策も練られる。調べ事もできる。私の勝ちだ。体力はまだある。努力の勝利は揺らがない。

 ついにマンションの目の前へと辿り着いた。がしかし、そこには予想外の光景があった。

 エントランスに既に、細く黒い靄のようなものが密集している。近隣住民や同じマンションの人たちも化け物へと変貌して立ち塞がっていたのだ。皆「マーマー」と気持ち悪い声を発しながら、私の帰りを待っていたようだ。これでは正面からはマンションに入れない。非常にまずい。落ち着け、落ち着いて考えるんだ。私は物陰に隠れて頭をフル回転させる。何か、何か抜け道を。そして私の頭は一つの解決策を思い付いた。

 

「そうだ、非常階段。」

 

 非常階段であれば、裏の塀を越えれば入り込める。6階まで駆け上らなければいけないし、その間に見つかる可能性は高いが、幸い私の部屋は角部屋。非常階段から上ると直ぐに入り込める位置なのだ。運が良い。やはり運も私を味方してくれる。そうと決まれば行動はすぐにだ。

 

 私は塀を越え、マンションの裏側へと入り込む。そして非常階段の入り口まで辿り着いた。そこで一息つく。

 あとは、この階段をどれだけ速く上れるかだ。奴らは私を見つけると、エレベーターを使ってすぐに向かって来るだろう。それに勝たなければならない。

 しかし、不思議なことに不安感はない。日々の努力が私に絶対的な自信を与えてくれる。私ならできる。力の差を思い知らせてやる化け物め。私は覚悟を決め、階段へと踏み出した。

 

 私はとんでもない速度で階段を上る。カンカンと大きな音を立てながら。そして、その音に気付いた奴らが動き始めるのが見える。おそらく既にエレベーターに待機している奴もいたはず。エレベーターは既に6階へ向かって動き出しているだろう。勝負だ化け物。

 3階……4階……さすがに学校からずっと走りっぱなしなので、足が重くなってくる。だがここで負けたら終わり、死ぬ気で足を上げろ私。こんなところで終わってたまるか。

 

 5階……6階!!!

 

 私は全速力で上り切った。

 

 口の中は血の味しかしない。呼吸も乱れ、足もガクガクだ。視界もボヤける。だが、まだ止まってはいけない。早く家に入らなければ。既にエレベーターは6階に到着しており、ゾロゾロと化け物が迫ってきていた。

「鍵……これじゃない、こっちも違う。あった!」疲れで手元が震えて中々鍵が刺さらない。その間にも「マーマー」という声は近付いてくる。

「早く……早く刺さって……!」化け物は笑いながらすぐ近くまで来ていた。

「マーマー、イッテ。落ち着いて獅子崎さん、マーマー。」

 後2mほどというところで「ガチャリ」と音が響く。私は最小限の動きでドアの内側に入り、勢いよくドアを閉め、鍵をかけた。化け物はドアの前に佇んではいるが、やはりドアは開けられないようだ。ドアノブをガチャガチャし、「マーマー」と声を上げるのみ。私はドアに身を預け、へたり込む。

 

「はあ……はあ……勝った……私の勝ちだ……!ざまぁみろ!!」私は今までで一番、心の底から笑った。しばらく笑いが止まらなかった。人間から見れば『狂気』と捉えられるような笑いだが、幸い今は化け物しかいない。抑え込んでいた恐怖や不安、全てを笑いで吐き出した。努力は呪いにも負けない、私がそれを証明した。これほど気持ちがいい事は今後起こらないだろう。しばらく私は愉悦に浸った。

 

 

 笑い疲れるまで笑った後、私は自分の部屋に入り、パソコンを起動する。どのような呪いなのか分からないが、ネットに一つや二つくらいは情報が転がっているだろう。

 起動するまでの時間、窓を眺めていると、黒い影が大量に揺らめいている。冷静になってその光景を見ると、やはり恐怖を感じる。

「マーマー」という声も止むことはなく、聞き続けていると、いずれ精神がおかしくなってしまいそうだ。早く撃退できる方法を見つけなければ。

 

 パソコンが起動したので、早速検索エンジンで調べようと試みる。しかし、事は私の思うようには進まなかった。

「ネットが、繋がらない……?嘘……どうして……」何度クリックしようとも反応がない。エラー画面だけが映し出される。

「スマホ……スマホなら!」私はポケットに入れていたスマホを取り出してネットを開こうとする。だが、ダメだ、圏外表示で何もできない。

「嘘でしょ……聞いてないよそんなの。」

 ネットという情報網が遮断された事により、私にできる対抗手段は『部屋に引き篭もる』のみとなった。

 

 こうなったら何ヶ月でも耐えてやる。どうせ奴らは入ってこれない。耐久勝負だ。これも努力と考えれば苦ではない。食糧もそこそこある、飲み食いの心配はない。奴らが諦めたくなるまで付き合ってやる。私一人で呪いに打ち勝ってやるんだ。

 

 私、一人で……?

 

 私は何かを忘れている気がする。とても重要な事を。先程までは、他に考える事が多すぎて頭が回っていなかった。今、「一人」で立ち向かおうと決めた時、違和感が走ったのだ。

 

「この家に入れるのは……私一人じゃない……」

 

 その瞬間、「ガチャリ」と鍵が差し込まれる音がする。私は慌てて玄関へと走る。

 チェーンをかけなければいけなかった。どうしてこんな初歩的なミスをしてしまったのか。家に入って勝ち誇ってしまった慢心か。少し前の自分を殴って、目を覚まさせてやりたい。

 

「開けちゃダメ……!ママ!!!」私は叫んだ。

 

 しかし、私の声とは裏腹に、ドアはしっかりと開いてしまった。間に合わなかった。私はその場に崩れ落ちる。恐怖が私の心を支配してゆく。私はただ、ドアの先を見つめる事しかできなかった。

 しかし、ドアの方から発せられた声は私が想像していたものとは違った。

 

「ただいまー……って、流可、あんた玄関で何してるの。そんな泣きそうな顔で。」

 

「ママ……?ママなの……?」ドアの前には母しかいない。黒い靄は存在していなかった。私は涙が溢れる。

 

「ママァ……!!怖かったよぉ……!」私は母に抱きついた。そして子供のように泣き叫んだ。

 

「ちょ、ちょっと、どうしたのさ。そんなに泣きじゃくって。……もう、仕方ないわね。ほら、いい子いい子。」母は私を優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。母の体は帰宅直後で冷たかった。しかし、何だろう、言葉で言い表せない温もりを感じる。涙が止まるまで、私はその温もりに縋った。

 

「ありがとう、ママ……急にごめんね。ちょっと、不安が爆発しちゃったみたい。子供みたいに泣いちゃった、恥ずかしい。」黒い靄、奴らは疲れから来る幻覚だったのだろうか。できればもう見たくはない。今度からは、しっかり休む事も考えよう。そう心に刻む経験となった。

 

「ほんと、あんたが子供の時を思い出したわ。落ち着いたみたいでよかった。でもね、一つ言い間違えしてるわよ、流可。泣いてて気付いてないでしょうけど。」母は呆れ顔で私に話しかけてくる。

 

「何、ママ、何も間違ってないと思うけど?何か変だった?」私は残った涙を拭いながら返す。すると、母はニッコリとこう言った。

 

 

「ママ、じゃなくて、『マーマー』でしょ。」

 


 母の見た目はみるみる変貌していった。目は真っ黒。頭は90度。黒く細いもやしの様な体。今日、嫌というほど見た姿だ。

 私は尻餅をついて倒れる。もう、叫ぶ声も出ない。私は小さく震えながらキッチンの方へと後退りする。

 

「流可、どこへいくノ?ママはここ。マーマーはココ。オイデ、ギュッとしよーネ。」

 それはゆっくりと迫ってくる。私がもう逃げられない事を知っているからだ。

 後退りしていると、キッチンに辿り着く。震えながらキッチンに入ると、目を疑う光景が広がっていた。

 そこには黒い化け物が大量に私を待っていたのだ。日も沈み、真っ暗な部屋の中で、白い顔がぼんやりと光っている。

 そうか、母がドアを開けた時、奴らは消えたわけじゃなかった。

 

 既に中に入っていたのだ。

 

「あ……あ……ごめんなさい……ごめんなさい……」私はもう、震えながら謝る事しかできない。これで許されたらどれほど良いだろうか。黒い化け物たちは私の顔をグリンと覗いてくる。

 

「マーマー、言って。まあまあ、イッテ。マーマー。」

「アトイッカイ、マーマー。マーマーイッテ。」

「マーマー、いつもイウ獅子崎。今日もイッテ。マーマー。」

 

 化け物たちの言葉を聞いていると、やたらと『マーマー』に執着していることが分かった。

 もしかして、陰口女たちが私にかけた呪い、それは私に『まあまあ』と言わせないようにするもの?ならば、この化け物たちは、私が『まあまあ』と言い続けていたからこそ怒っているのかもしれない。ならば、ダメ元で謝ってみるしかない。どうせ私にはそれしかできない。私は最後の賭けに出る。

 

「ごめんなさい……もう言いません……『まあまあ』なんてもう言いませんから……許して……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 私が謝ると、黒い化け物のたちの動きがピタリと止まる。皆が顔を見合わせて、その後また私の方へと向き直る。

 

 

「イッタ……マーマー!!!イッタ!!!」

 

 

 化け物たちの口角がどんどん上がっていく。踊りくねり、喜びを表しているように見える。満足してもらえたのだろうか。私は震えながら化け物に視線を送る。助かった……のか?

 

「アリガト、獅子崎さん。マーマーマー。」

 

 化け物はそう言うと急激に私への距離を詰めてくる。私は暴れて抵抗するも、どんどんと押し寄せてきてまるで歯が立たない。

 

「いや──」


 声も出せぬほど黒い靄に圧迫されてしまった。意識も朦朧としてくる。そんな時、最後に化け物の声が聞こえた。

 

 

「キョウカラ、キミガ、ボクタチノ、マー」

 

 

 この言葉を最後に、私の記憶は途絶えた。

 

 

 

 

 そして、獅子崎流可は、変わってしまった。

 

 

 

 

 数ヶ月後

 

 

 やあ、私は獅子崎流可さんと同じクラスの生徒。会話は交わした事がないが、彼女はエリート女子高生として有名、よく見てきた。

 獅子崎さんは、とある日を境に人が変わってしまった。私だけでなく、誰が見てもそう言えるだろう。

 あれは、いつだったか。そうだ、中間テストが返却された次の日、彼女は学校を無断欠席したんだ。優等生と名高いあの獅子崎さんがね。母親の話によると、部屋に篭って出てこなかったらしい。そういう気分の日もあるか、と母親は無理矢理扉を開けようとはしなかったんだって。

 

 そしたら次の日、何の蟠りもなく部屋から出てきたという。部屋の壁には大きな「鳥居」が描かれていたらしい。芸術の一環だと母親は考えたようだ。

 彼女はそのまま学校に足を運んだ。普段通り、普通にね。私もしっかりと学校でその姿を見たからね。そこからだ、獅子崎さんの変化が露出し始めるのは。

 まずわかりやすい変化として、授業中に寝たり、独り言をぶつぶつと話していたり、まるで勉強に興味がないように見える。あの優等生が居眠り!?とクラスメイト全員が驚いたさ。

 そして、一番の変化は『努力しなくなった』事だ。彼女が武器としていた努力、もはやアイデンティティとも言える代物だったはず。それをまるでしなくなった。提出物も出さず、先生の手伝いもしない。休み時間は誰もいない階段で虚空に向かって楽しそうに話している。気が狂ってしまったのだろうか。優等生としての姿は見る影もない。

 その変化から数ヶ月、今日は期末テストの返却日。獅子崎さんが努力しなくなってから、初めてのテスト。皆、自身の結果よりも獅子崎さんの点数にしか興味がない。もちろん私もだ。

 

「獅子崎。」

 

 先生が獅子崎さんを呼ぶ。獅子崎さんはスキップをしながら先生の元へと駆けつける。先生は眉を顰め、無言で答案用紙を渡した。それを受け取った獅子崎さんは、点数も見ずに席へと戻る。いつもなら学年一位がかかっているとピリピリしているのに。その様子はまるでない。席に着くとすぐに独り言をぶつぶつと話し始める。視線が獅子崎さんへと集まる中、全員分のテストが返却された。

 

 返却後、皆はワイワイと点数を見せ合っているが、全員が獅子崎さんの点数を気にしている。独り言をぶつぶつと話している事もあり、とても声がかけづらい。

 そんな中、声をかけたのは、やはりあの人物だった。

「よう、流可。先生変な表情してたけど、点数どうだったんだよ?」

 水野恵だ。獅子崎さんと一番仲の良いクラスメイト。彼女が明るく先陣を切ったのだ。

 

「んー?点数?まあまあかな。」

 

 そう言って獅子崎さんは答案用紙を雑に並べる。皆がそこに視線を寄せる。

 

「まあまあって……これ……」

 

 クラスメイトたちは声が詰まる。

 

 全教科100点。あり得ない光景がそこに広がっていた。漫画やアニメの世界でも中々見ない光景に圧倒される。私も「おおー」と驚く。あの水野さんでさえも若干引いている様子だ。そこに一人の女子生徒が歩み寄る。

 

「し、獅子崎さん……前、言いましたよね。満点だけが私を満たせる。まあまあじゃない点数だって……私はそれに納得しました。しかし、なんですかこれ、全教科満点でまあまあって何なんですか!?」

 

 普段自分から声をかけない、おとなしい女の子の口から、過去最高のデシベル数値を叩き出したであろう声が獅子崎さんへと投げかけられる。中間テストの時に「まあまあな理由」を聞きに行った子だね。おそらくあの子も普段努力をしているんだろう。だからこそ獅子崎さんは憧れであり、尊敬していたはず。

 なのに今回努力もしていないであろう獅子崎さんが、全教科満点、それを「まあまあ」と口走った。そりゃ怒るのも無理はない。

 彼女の声を聞き、獅子崎さんは顔を上げて目を合わせる。

 

「ねえ、あなたはニュートン力学や万有引力、アルキメデスの原理や円周率、ピタゴラスの定理など様々な法則原理をどう思っている?」獅子崎さんは、淡々と彼女に向けて話し始めた。

「『リンゴが落ちた!わー!これはすごい!これは私の発見だ!』『風呂に入って体が軽い!わー!実にユーリカ!私の発見だ!』このように、簡単な事から様々な物理法則や数学式が見つかって、見つけた本人の名前を法則名にするでしょう?これってさ、この人たちが本当に凄いと思う?」

 おとなしい女の子の返答を許す間も無く話を続ける。

 

「全ての力ってさ、既に『地球』が有しているでしょ?それに対して人間が勝手に名前を付けたり発見だと喜んだり、ちっぽけな事をしているように感じない?こんなの先に生まれた人が有利極まりないでしょ?発見が増えるほど、残る謎は減っていくのだから。結局この世にある方程式や物理法則、定理、原理、全て地球という大きな素材を基にした二次創作でしかないんだよ。地球があるからこそ生まれた存在なのだから。」獅子崎さんは立ち上がり、演説のように声を張る。

 

「人間という存在が頑張って生み出した一次創作は、コミュニケーションを取るために生み出した『文字や言葉』、あとは『音楽』が当てはまるかな。それ以外は大抵『地球に存在しているもの』から作られているでしょう?それで満足しているでしょ?地球に頼りっぱなしなのにね!」

 

「これはね、芸術にも言える事だと思う。『これは不協和音だ』『パースが狂っている』『文法が間違っている』これってさ、先人のエゴにしか頼れない人間の詭弁だと思うんだよね。先人たちはそんな言葉がなくとも見て、感じたモノで作品を生み出せた。今よりも自由だった。『よくわからないけど気持ちいい』この感覚を研ぎ澄ますことができた。今の芸術作品にそれはない。既に『このコード進行を使うと気持ちがいい』『この色とこの色は相性が良い』と相場が決まってしまっているのだから。そりゃ固定概念も崩せないし、似た作品が増えてくるわけだ。過去に頼りすぎていて、新しい切り口を探そうとする者も減っている。いや、減らされている。実際、『音楽や絵をかいてみたい』と思う人たちは、誰かに影響されて始める場合が多いだろう。先人のエゴに乗っかる事しかできていない。芸術を嗜む人間が増えたとて、これでは永遠に停滞の一途をたどることになるだろうね。」獅子崎さんはつらつらと自身の考えを吐き出していたところ、ハッと我にかえる。

 

「ごめんごめん、話が脱線してしまったね。結論、学校のテストなんて地球から生まれた二次創作を更に色々な人が何十次創作し誕生した産物。さらにその中でテスト範囲も定められている。こんなの地球が既に答えを教えてくれている。それを感じるだけでいい。それに人間の生み出した言葉や数字を当てはめるだけ。満点なんて取れて当然。テストという存在が『まあまあ』。答えが確立されているものなんて、出来たところですごくないでしょう?」獅子崎さんは満面の笑みで話し切った。

 

「ごめんなさい……獅子崎さんが何を言っているのか……ちょっとよくわからない……ごめんなさい。じゃあ、獅子崎さんにとって、『まあまあ』じゃなくなる方法って何なの?」女の子は獅子崎さんに問う。

 

「そうだなー。人間の範囲で例えるのであれば自分自身を『ノーベル賞』にする事かな。これはあくまで例えだから気にしないで。『私にしか成り得ないもの』になればいい。唯一無二になればいい、0から1になれたなら私は『まあまあ』を超越できると考えているよ!そして私はもうそれになっている。だからテストなんて矮小なもの、まあまあなんだ!」

 

「答えてくれて……ありがとう……」おとなしい女の子は獅子崎さんを『別の生命体』を見るような目で見ていた。クラス内全員がおそらく同じ気持ちだろう。水野さんでさえも言葉が出ずにいるのだ。

 おそらく、獅子崎さんは何かしらの原因で、『後天性のギフテッド』となったのだろう。元々学年一位ではあったが、今はその様な言葉の檻に閉じ込めるには相応しくない、『天才』と安易に呼ぶ事も烏滸がましい存在となってしまった。ステージが違うだなんて次元では無くなったのだろう。

 教室は色々な感情のこもった沈黙が続く。

 

「あれ?みんな静かになっちゃって、どうしたの?……あ、ちょうどいいや!静かな今のうちに私のお友達を紹介しよう!この子が、『マー』!こっちの子が『マー』。そしてこの子が『マー』。そしてそして──」


 獅子崎さんは虚空を指差し、『何か』を紹介している。とても楽しそうにブンブンと腕を振りながら。

 その光景は、狂気的だった。

 

 こうして、いつもとは違う空気感のテスト返却は静かに幕を下ろした。

 

  

 放課後、部活動も終わる時間。私は教室に残っている。ここから見る夕日は特別だからね。学生のうちしか楽しめない娯楽だ、毎日この時間まで窓際の席で夕日を眺める。いつもは私一人の時間なのだが、今日はもう一人残っている。

 獅子崎さんだ。ホームルームが終わった後から、ずっと一人で楽しそうに話し続けている。彼女には一体何が見えているのだろう。とても興味深い。そんな事を考えていると、教室の扉が開き、誰か入ってくる。

 

「流可、待たせた。久しぶりに、勝負しようぜ。」

 

 水野恵が部活終わりだろうか、汗を湿らせながら獅子崎さんを呼びにきた。今日獅子崎さんが残っていたのは水野さんを待っていたからだったのか。

 それを聞いてすぐに獅子崎さんは飛び跳ね、教室を出る。

 勝負とは何だろうか、私は獅子崎さんという人間に興味がある故、好奇心が抑えられない。こっそり後を付ける事にした。

 

 

 二人が向かった先は体育館。下校時間が迫っているので、獅子崎さんと水野さんの貸し切り状態だ。私と同じ物好きなギャラリーが何人かいるが、気にしない。獅子崎さんが気になっている人は私だけではないということ。それだけだ。

 水野さんは、裏からバスケットボールをドリブルしながら歩み寄り、獅子崎さんに話しかける。

 

「1on1、ずっと引き分けてるだろ私たち。決着つけようぜ流可。」水野さんはニッと笑い、ボールを獅子崎さんへとパスする。

 

「私さ、最近バスケ部にちゃんと顔出してたんだ。そんでさ、フィジカル面なら流可と張り合えてたろ?今なら勝てるんじゃないかと思ってね。……知ってるぜ、流可さ、この数ヶ月ジムも辞めて、朝のランニングもサボってるだろ?今勝ち越して、逃げ切ってやろうって魂胆さ!どうする?怖いなら逃げてもいいぜ?」水野さんはニヤニヤしながら挑戦を申し出た。

 

「……いいよ。やろう恵!全力でやるからね!」獅子崎さんは二つ返事で嬉しそうに答えた。

 

「そうこなくっちゃな!」水野さんも嬉しそうだ。二人は配置につく。

 

 これはとても興味深い勝負だ。あの獅子崎さんに黒星が付く瞬間を見れるかもしれない。体育の授業でもツートップの二人、だが今までギリギリのところで水野さんは勝てていなかった。

 今日の水野さんは体も温まっていて、コンディションは抜群、勝つ気満々だ。おそらく、ここで獅子崎さんを倒して、元の獅子崎さんに戻したいという考えもあるのだろう。

 一方で、獅子崎さんは最近運動もせず、先程まで教室で一人話していただけ。どの様な結果になるのだろうか。そんな事を考えていると、勝負が始まる。

 

 先行は獅子崎さんボール。軽快にドリブルをしながら水野さんを見つめる。

 

「へっ、通さねーぜ、流可!」水野さんは自信満々に立ちはだかる。

 

「……。」

 

 獅子崎さんは物凄い速度でフェイントをかけ、水野さんを抜いた。そのままリングにボールを通す。パスっという音が静かに響き渡る。

 

「やるじゃねーか。次私の攻めだな!取り返してやるよ!」水野さんはボールを拾い、イキイキとドリブルを始める。フェイントをかけるが、獅子崎さんはピッタリと張り付く。

 

「……。」

 

 ボールが水野さんの手を離れたその刹那、獅子崎さんがボールを弾き飛ばす。あまりに速くて目で追えなかった。水野さんも何が起こったのか、理解できていない様子で固まっている。

 

「ねえ、恵、ちゃんとやってよ。楽しめないじゃん。」獅子崎さんが煽る。

 

「……ああ!やってやるっての!覚悟しろよ!」水野さんも力強く返事をした。

 

 しかし、その先もあまりに一方的な結果となった。悲惨な試合が続いた。

 獅子崎さんの圧勝。水野さんの行動は、動く前に全て潰された。ボールに手を触れることすら許されなかった。もはや、相手になっていない。

 

「恵、私の勝ちー。随分弱くなっちゃった?重力と仲良くなろうね!地球を理解してあげて!スランプなのかもしれないけど、弱すぎて虫と勝負してるのかと思っちゃった。また恵が万全な時にやろーね!バイバイ!」

 

 獅子崎さんはそう言い残し、スキップで体育館を出て行った。

 終戦を知らせるかの如く、下校時間のチャイムが鳴り響く。水野さんは息を切らしながら、膝から崩れ落ちる。見るに堪えない光景。

 私は目を閉じ、その場を後にした。

 

 

 獅子崎さん唯一の親友、水野恵。数ヶ月間、変貌した獅子崎流可と、今まで通り関わり続けてきた。しかし今日、体育館の一戦、あれはレベルの違いを痛感する機会となってしまっただろう。今まで競い合ってきたライバルが、訳も分からないまま遥か遠くの存在となってしまった。喪失感は計り知れない。もう今までの様に接することは難しくなるかもしれないね。

 

 獅子崎さんは、身体能力の面でも『化け物』になってしまっている。もはや世界クラスだろう。今までの彼女を支えてきていた『努力』を捨てたというのにこれだ。優等生であった彼女が、原因は分からないが力を得て、周りを置いてけぼりにするその様はまるで、「天才は孤独の運命を持つ」という言葉を体現しているかのようだ。私は貴重な物語の一ページを見れたと感じている。とても良いインスピレーションとなるだろう。いずれ作品として、アウトプットしなければ勿体ない。私は満足感に浸りながら、帰路へとついた。

 

 

 獅子崎流可。彼女がどうしてあのような変化をしてしまったのか、誰にも分からない。おそらく、現状の「虚空に話しかける」という行動から考えるに、何かに憑かれてしまったのだろう。誰かから嫉妬を買い呪いをかけられたのか、彼女自身の行動や言動が『何か』を呼び寄せてしまったのか、答えは神のみぞ知る。どちらにせよ、当てはまる言葉が一つある。

 

 『口は災いの元』

 

 力を手に入れたのだから、災いと呼ぶかは定かではない。呪った人間がいるのであれば、予想外の結末だろう。しかし、あそこまで人が変わってしまう事は恐怖だ。それに、優等生という肩書きは失われ、友達も信頼も失った。何より、彼女が一番嫌っていた『天才』になってしまったのだ。これは十分災いと呼べるのではないだろうか。

 

 

 今の彼女は本当に『獅子崎流可』なのだろうか。

 

 

 これは彼女を中心に渦巻いた、少し不思議な物語。

 この物語に明確な解答など存在しない。

 

 

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マー・マー・マー 神凪 絵羅 @kerror25

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