見上げれば空に天井があったあの頃

三上芳紀(みかみよしき)

序章

墓参りに、故郷に帰ったのは、一体いつ以来だろうかと思いながら、僕は墓前に手を合わせた。安森家の墓には、父と祖父母が眠っている。母は今もこの街で暮らしている。でも、僕は、ずっと墓参りに訪れなかったのと同じように、母にも会いに行っていない。避けていたわけじゃない。忙しくて忘れていたのだ。ひどい息子だと思う。墓は小高い丘の上の墓地にある。眼下に街が一望できるが、子どもの頃と街はすっかり変わってしまった。変わらないのは、小さな城跡の石垣だけだった。小さな城跡のある小さな城下町が僕の故郷だった。でも、何もかもが変わっていた。だから街を見下ろしても懐かしさを感じることはなかった。僕の記憶にある街には商店街があり、その中には飲食店もあった。子どもの頃のことだが、僕は瞼を閉じると今でもその光景を思い浮かべることができる。そして、商店街の住人の話し声や笑い声も聞こえてくる。父と母とともに、僕も商店街の住人だった。僕が子どもの頃、既にスーパーマーケットとショッピングモールに買い物客を奪われ、日本中の商店街は、消えゆく存在だった。シャッター商店街という現象も既に生まれていた。でも、僕が生まれ育った商店街には、まだ活気があった。アーケードもあり、昔馴染みの地元の人が買い物に訪れていた。だが、今は、もう何も残っていない。僕の生まれ育った場所が消えた。そのためもあり、長い間、僕は故郷に帰ることもなかった。でも、ふと帰ろうと思った。僕は大学を卒業してから、ある大手の商社に入社し、順調にキャリアを積んできた。三十五歳で営業部販売促進課係長に抜擢された。異例の抜擢であり、僕には、未来は果てしなく明るく思えた。ところが、四十歳になるこの春、僕は、突然、関連の子会社に異動を命じられた。業務部長という役職で、肩書だけ見れば、係長から部長に昇進したようにも思えるが、その意味するところは、左遷であり、本流から外されたということだった。僕には異動の理由が分からなかった。僕は大きなミスもしていないし、例えば、特定の重役からひどく嫌われているような記憶もない。だが、異動になった。ということは、具体的な理由は分からなくても、自分の存在が会社にとってマイナスに作用しているという事実があると、僕は理性的に理解するよう努めた。その上で、僕はその事実を自分なりに受け入れ、命令に従った。四月になり、本社営業部の係長から子会社の業務部長という肩書に変わり異動した。子会社はコーヒー豆の輸入販売を専門に取り扱う会社だった。貸しビルの三階のワンフロアーにその会社の本部があり、他には、東日本、西日本に営業所が一つずつあるだけだった。本社で働いてきた僕はあまりの規模の違いに落胆した。だが、社員は活気があった。本社のような息苦しさがないからだった。若い社員も少なからずいた。僕は気持ちを切り替えて頑張ろうと思った。だが、一カ月が過ぎた頃、僕は、業務部長席に座っていて、ふと何もかもを捨ててしまいたい衝動に駆られた。妻も、中学に入ったばかりの息子も捨てて、どこかに消えてしまいたいと思った。でも、そんなことはできないと思い直した時、故郷に帰ろうと思った。

あの頃に、帰ってみたい。商店街はもう無い。だから、会えない人ばかりだけれど、故郷に帰って、あの街の空気に触れることで、僅かに残る記憶が蘇るかもしれない。その時、自分は何かを取り戻せるかもしれない。僕は、子会社に左遷されたことによる落胆に耐えられなかった。と同時に、そのことだけではないもっと大きな人生の空しさを感じていた。僕は失った何かを見つけに行こうと、故郷に帰ることを決めた。


五月の連休を利用して故郷に帰ることにした。妻には墓参りに行くと伝えた。妻は一緒に行くと言ったが、一人で考えたいことがあるからと僕は答えた。妻は、異動を命じられてからの僕の様子の変化を知っていたので何も言わなかった。

長い時間、電車に揺られ、ようやく生まれ育った街に着いた。


墓参りを済ませた後、商店街のあった場所に向かった。今は幹線道路が通っていて、風景は変わっていた。それでも、僕は、幹線道路沿いにある道を歩いた。この道は、昔、商店街から小学校へ行く時に通った道だった。僕は、薄手の紺のジャケットを脱いで、五月の陽ざしの下を、少し汗をかきながら歩いた。しばらく歩くと道は途絶えた。今は小学校も移転されている。道はもう道としての役割を終えていた。幹線道路の右手には住宅街が広がっていた。昔、この辺りには、武家屋敷があった。武家屋敷といっても、この土地一帯を治めていた小さな大名に仕えていた微禄の家来の屋敷ばかりだった。屋敷は狭く路地のように細い道は自動車が通れず、不便なため、ほとんどの住人が武家屋敷から引っ越していた。だから、空き家が多かった。街の再開発の際には、既に誰も住人がいなかったため、歴史的な意味から武家屋敷を残そうというような声も上がらず、あっさりと全て取り壊され、住宅街の一部に変わった。僕は住宅街を歩いてみた。住宅街は誰もいないかのように静かだった。ここに住む人たちはこの街が故郷ではないのだろう。だから、連休を利用して、それぞれの故郷に帰省しているのだと思った。ちょうど自分が今、この街に帰って来ているように。ただ、そう考えてみても、誰もいない住宅街を歩いていると寂しく感じた。歩いているうちに、僕は、静かな住宅街を横断していた。住宅街を抜けると、僕の目の前に城跡が現れた。先ほど、墓のある丘の上から見えた城跡だった。石垣とそれに隣接した公園だった。ここだけは、僕が子どもの頃から変わっていなかった。公園に入った。公園では多くの子どもが遊んでいた。また、その子らの親も含めて、大人も多くいた。僕は、ようやく多くの人の姿を見てほっとした。それから、木陰にあるベンチに座った。そして、公園に多くの遊具があるのを見て、僕が子どもの頃は、ブランコとすべり台と砂場の他に何か遊具があっただろうかと思った。そのことは思い出せなかったが、日が暮れるまで夢中で、この公園で遊んだことを僕は思い出した。懐かしい気持ちになった。ベンチに座っていると涼しい風が心地よかった。風は昔と変わっていなかった。そして、僕は今とは違うあの頃の空気が自分の中に蘇って来た。それから、僕は過ぎ去った遠い日の中にあった大切なものを思い出そうと、静かに瞼を閉じた。しばらくすると、公園で遊ぶ子どもたちの歓声も聞こえなくなった。



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