第三話(前編) 逃走劇

「――おい」と呼ばれた。

 この声は、恋敵である……。


 俺は頬をぱしぱし、と叩かれ、目が覚める……、白い光が俺の視界を埋め、目を開けるのが厳しかったが、なんとか手で覆いながら、ゆっくりと目を開ける――。

 手だが、手ではなく。

 指がないそれは、羽だ。


 黒い羽。飛ぶことはできないけれど、海の中を自由自在に動くことができる――海の中であれば、飛ぶことができる。――そうだ、そうだった、今の俺はペンギンなのだった……。


 忘れるところだった。

 意識は半ば、飛んでいたのかもしれない……、過去の記憶に引っ張り込まれて。

 過去と今の差に、頭の中がぼーっとしてしまう。

 しっかりしろ――俺。


 過去から戻ってきたのであれば、そこには理由があるはずだ。

 今に集中するべきだ。

 今を生きることに、全神経を集中させるべきなのだ。



 ――ペンギンの体。

 慣れていないからこそ、短い時間で色々と試し、感覚を掴むしかない。

 できるだけ、人に見つからないように……。

 見つかれば、最悪、駆除されてしまうのだから――重く捉えるべきだ。


 この状況を、楽観視してはいけない。


 とりあえず、狭い通路を抜けた先だ……ここから先は人がいる。話し声が聞こえているから、そこに『いる』ことは確実だ。

 どこに誰がいるのか分からないよりは、声で存在を知らせてくれている分、楽である。

 声がする方を注意していればいい……と言いながらも、音もなく近くを通られたら気づきようもないのだが……。


 音だけを意識しているのも危ないな――心の準備はしておかなければ。



「さて、音を頼りに人を避けて、どこか、部屋に入れればいいんだけどな……、そう上手くことが運ぶわけもないか。客室に入って、利用者のカバンを漁って、使えそうなものを奪っていくことを計画していたんだが――」


「それでいいんじゃないか? 反対はしないぞ? ちょうど、そこに半開きの扉があるし」


 え、と恋敵が俺の視線を追う。

 そこには、誘われているのでは? と思うような半開きの扉があり――まあ、罠ではないだろう。単純に閉め忘れただけである……たぶん。

 ここから先は、運も重要になってくるだろう。


 俺と恋敵は、人の目を避けながら(幸い、誰もいない)、さささ、と移動して、扉の隙間から部屋の中へ入る。

 ――部屋の中は無人だ。となるとカバンは――、と思ったが、目的のカバンはきちんと置いてあった。カバンを置いたまま半開きにして無人だなんて、不用心な利用者である。


 たとえ近くの大広間でやっているイベントに顔を出しているとしても――こうして俺たちが侵入するように、誰かがこっそりと入っていてもおかしくはないのだから……。でもまあ、貴重品は持ち運んでいるのか。だから置いてあるのは、盗まれてもいいようなものである。


 それとも数分もしない内に戻ってくるつもりかもしれない。

 トイレとか?

 だとしたら、あまりのんびりもしていられない――怠けるのは、やるべきことをしてからだ。


「とりあえず、カバンを開けるか。今のところ、発見したのはこれだけだし――」

「そうだね……開けるのはいいけど、気を付けろよ、荒らした形跡が残るのは仕方ないけど、できることなら荒らさない方がいいんだから」


 分かってる、と呟き、恋敵がカバンを逆さまに――。

 重力に従って、中の荷物が全て床に落下する。


 耳を塞ぐほどではないが、顔をしかめてしまうほどには不快な音が響いた。

 やはり、貴重品はなかった……、俺たちみたいな『盗人』への対策はしていたようだ。


 カバンの中に入っていたのは、盗んだところで使い道がないものばかりだった。

 俺たちはこの結果に喜ぶことはできなかった。

 散らばった荷物をじっと見つめているだけで――。


「ま、そりゃそうだよな。部屋に鍵をかけなかったのは、盗まれたところで痛手にはならないものしか置いていなかったから、だよな――」


 おかしいとは思っていたのだ……俺も恋敵も。

 入ってくださいと言わんばかりの隙間である。

 その上で不在であれば、貴重品はないも同然だ。


 手薄ゆえに、実入りがないことを証明していたのではないか……。


「…………」


 しかし、気になるな……そこまで徹底していて、なぜ半開きだった?

 意図して開いていた……? 普通、閉めていくだろうし……開いたまま出る方が難しいだろう。心理的に閉めてしまうものではないか?


 閉めたはずなのに「閉めたっけ?」と不安になってしまうものだし――だからもしかして。

 あえて、半開きに……?


 入ってくださいと言わんばかりの隙間は、だから、入らせるためだったとすれば?

 そうでなければ。

 一切、なんの意図もなく、偶然だった――だからこそ。

 帰宅は唐突なのだ。


 この部屋の利用者は、本当にただ、トイレにいっているだけで――。


「……おい、バツ、足音が聞こえないか?」

「しかもこっちに近づいてきてる……やばいっ、どうする!?」


 どうすればいい!?

 しかし、そうは言ってもどうすることもできない……詰んでいる。

 もう、足音は扉の前。

 隠れはできるが逃げることはできない――。


 あとは、利用者が俺たちを、視界に入れないことを祈るだけだ。

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