空はどこまでも続いて。

横銭 正宗

第1話

今日は澄み渡った、雲ひとつない青空が広がる日になるでしょう。ニュースキャスターが綺麗な笑顔と声でそう言っている。

とてつもなく憂鬱だ。

空模様というよりは、そんな風に思ってしまう自分のことが。

休み明けの登校日って、何度経験しても面倒だ。できればずっと休みであって欲しいような、でもそれじゃ張り合いがないような、そんな微妙な物思いが天秤を揺らしている。時間の無駄だ。早く準備をして家を出よう。


袖を通す制服の上着は、去年よりいくらかちょうどよくなってきた気がする。

どうせ大きくなってちょうどよくなるんだから、という母の言葉を店員さんは否定しなかったし、俺も否定しなかった。その希望的観測が間違っていなかったことを証明するのは、もう少し先になってしまいそうだけど。


起きてカーテンを開けた時には分かっていたことだが、さっきの予報は当たっていた。太陽の光が燦々と射し込んで、昨日の雨の残滓をきらきらと輝かせている。…馬鹿みたいだな、わざわざこんなものにまでフォーカスを当てるなんて。そういうものだとわかっているのに、今日の俺にとってはそんな景色まで、悪口の対象みたいだ。

なんだか最近、心がささくれ立っている。言わなくていいことを言って、何気ないことにいらついている。それはきっと思春期というやつで、きっと成長の証でもある。


それを、大人はあまり責めなかった。俺にとってその態度はいつまでも子供扱いされているみたいで、余計に感情の収まりがつかなくなる。…だから、こんな冷めた目をして、何事も自分の中に留めておこうとするのかもしれない。

知られたくないことや、見られたくないことだらけだ。想像力も行動力も、それに必要な自信も資金も、俺にはまだ何もない。保護された環境にいて、いつでも大人が見守ってくれていて、目の前のことを解決するのに精一杯で。そういう、自分がまだ子供だということを自覚する瞬間がたまらなく嫌で、俺は何事にも興味がないふりをしたり、挑戦すること自体を諦めてしまったりする。


…ずっと、自分が自分を認められないだけだ。どこか他の場所にいる自分が、いつも自分を見ている自分が、お前はダメだと俺を嗤い続けている。俺はその意見に耳を貸して、俺はダメだと思ってしまう。無力で、無価値で、無才能。ないない尽くしの人生だ。そんな風に自分への期待値を下げないと、自分の人生に満足がいかなくなってしまう。怠惰かつ完璧主義。自分を一言で表すなら、そんな言葉がぴったりなんだろうと思う。


あー、いらいらする。悪いことばかりを考えて、それに浸ろうとする自分にいらいらする。朝のバスや電車の混雑具合にいらいらする。いらいらしている自分にいらいらする。無茶苦茶な感情だ。なんで私立の中学なんて受験したんだろう。そのまま近所の公立にでも進学して、徒歩か自転車で通学したかった。

こんなこと、親に言ったら怒られるかもしれないな。

ポケットからスマホを取り出して、ワイヤレスイヤホンから流れている音楽の音量を上げる。

音楽は、そんな現実からの逃避だ。気に入った音楽だけを集めたプレイリストは、好きなものだけを詰め込んだ玩具箱のようで。開ける度にわくわくしたあの頃を思い出して、周りのものや自分の境遇がどうでもよくなる瞬間がある。

音楽を流しながら駅に入っていくと、踊り出したり首を振ったりしていないかが気になってしまうほどに、この音色に依存している。周りに聴いている人があまりいない楽曲。だけど俺にとっては、宝物に違いない楽曲。特定の友人にだけその楽曲の話をして、二人だけで盛り上がれるような楽曲。そんな楽曲が好きだから、あまり流行の曲を聴かない。

プレイリストの9曲目まで聴いたところで、学校の最寄り駅に着く。いつも通り、10曲目は聴くことはできなかった。…だけど、シャッフル再生なんかで聴いてしまいたくないから、いつも家に帰る道は遠回りになる。10曲目や、その先を求めている。

まぁ、帰りの話なんかを今考えていても仕方ない。たまたま同じタイミングで昇降口に居合わせた同級生と挨拶を交わして、何の意識もせずに自分の下駄箱の前に吸い込まれていく。


あーあ、だるいな、早く終わらないかな。なんてわざとらしくため息をつく。別に、本当にそう思っているわけじゃない。授業なんてただ座っていれば終わるんだし、社会に出てからはもっと面倒なことが待っていると分かっている。だけど今この瞬間が、ものすごく面倒で、耐え難い苦痛のように感じている。


自分のことって、分かっているようで、何も分かっていない。感情の発生源とか、その発散方法とか。分からないということは、当然説明もできない。だけど、ずっと何かを考えている。落ち込んだり、悲しんだり。ネガティブな物思いに囚われている。

それでも理由なくネガティブな人間だと思われたくないから、周りから何も考えていないと思われるような行動を取ることが上手になっていく。誰にも理解されたくないわけじゃなくて、誰にも弱いと思われたくないからなんだろうと思う。無駄な見栄だ。


でも、こうして見栄を張っていないと、自分が自分でいられなくなりそうな気がしてしまう。嫌いな自分でいようとする必要なんてないはずなのに。十数年をかけて構築してきたアイデンティティに感慨があるのかもしれない…というよりも、恐怖なんだろうなと思う。これ以上嫌な人間になりたくないという恐怖。今よりも転げ落ちようと思えばいくらでも場所はあって、そこを自分の居場所にしたくないんだと思う。


今より下、か。今でも下なのにな。まだどうにかなるつもりでいるの、笑えるな。何も頑張っていないくせに、無駄につらい思いなんかして、不幸に浸りたいだけだろ。

…あぁ、なんか今日は、ダメな日かもしれない。帰って寝たい。そうしたってどうにもならないけど、日付が変わることだって一歩進むことには変わりない。ダメな日だから少し頑張ろうじゃなくて、ダメな日だから明日に持ち越そうとしてしまう自分に文句を言い出す前に、この思考を一旦止めてしまわないと。


ここじゃないどこかで、今この瞬間を忘れてしまおう。そうしたって未来はどうにもならないとしても、ここにいたら沈んでいくだけだ。そう決めてしまうと、胸のつかえがすっと消えるような、熱が冷めるような、心の軽さみたいなものが生まれた。

担任と、保健の先生に体調不良を告げる。すると誰かに連絡を入れるでもなく、案外簡単に帰してくれた。お大事にという一言に、また明日、みたいな軽さがあった。早退ってこんな感じなのか。したことがなかったから、こんなにすっと帰れるものだとは思っていなかった。


校門を出る。遅刻してきたであろう生徒が、何に対しても興味がなさそうな目をして、職員室に向かっていった。あの感じは常習犯だろうな。俺の可能性のひとつだ。そうなりたくないって、入学当初の俺は思っていたはずなんだけどな。

これで、俺の成績唯一の加点要素も失った。そんなことを考えながら、下校ルートではない道をたどってみたりする。


なんだか、無駄に気分が沈んでしまう。別に皆勤なんて、守っていたって仕方ないはずなのに。というか、そもそも毎日学校に来ているだけのことに意味なんて…いや、やめておこう。何を考えて自分を正当化しようとしても、その必要がある時点で間違っているのは自分だということに気付いているんだから。今できるのは、この時間を無駄にしないことだ。ついさっき今日という一日が無駄に過ぎていくことは決定したけど、まぁいい。帰って寝よう。

そう思うと、ふっと力が抜けていくのを感じた。そうか、俺はきっと、ちゃんと頑張るつもりでいたんだな。軽くなった肩を回してみる。すると一日分の覚悟を決める必要がなくなって、目の前のタスクのことを考えなくなった頭が、少しだけ先のことを考え始めた。今帰ってすぐに寝て、昼か夕方に起きて、適当にご飯を済ませて、その後の長い夜をどうしよう。眠れるわけでもないし、どこかに行けるわけでもない。ぼーっとスマホを弄ったりする時間があって、その時間中自分に悪口を言うことになったりしないだろうか。今日のテンションでは、そうなってしまう予感しかしなかった。


じゃあ、どこにでも行ける今の時間を、普段しないことに費やすのが正解なんじゃないだろうか。そもそも今が不正解なんだから、正解なんてないんだろうけど。でも精神衛生上、今は何かで時間を潰して、ちゃんと夜に眠る方がいい気がした。

そうだ。今の俺はいつも縛られている平日の昼という時間を、自由に過ごしてもいいんだ。そう考えると、わくわくしてきた。朝はあれだけ憎たらしかった太陽すらも愛しく思えてくる。やるべきことしかできない時間が、やりたいことに使える時間になった。そんな事実が、俺の胸を躍らせた。…危険な快楽だ。今日限りでやめないと。


わくわくが先行して、少し早足で街を歩いてみたりする。初めて歩く道を探してみたり、忙しそうな人と自分を比べてみたり。あんなに大股で歩いたり、周りの人を牽制するように道を開けてもらったりするほど焦るようなことがどこにあるんだろう。ただでさえも、見えている世界なんて大した広さじゃないのに。でも、何かしら焦っているなら仕方ない。俺は道の端に寄って、殺到してくるサラリーマンの群れを躱す。皆死んだような目で、周りのことなんて考えていないのが丸わかりだ。

対して、今の俺はきっと、横断歩道を渡る大荷物の老人を手伝えるだろうし、道案内を頼まれたら一緒に歩いていくだろう。親切な人間だからそうしているんじゃなくて、人に親切にできるだけの余裕があるとき、人間は他人のことを思いやれるのかもしれない。

…まぁ、生憎と、親切にしたいときにはすべき人はいないものだ。余裕のない合間を縫ってでも親切にできる人間だけが誰かから感謝されるものなんだろう。そう都合よくはいかないのが人生ってやつだ。


しばらくしてふと冷静になってくると、今の自分が抱えている問題に気付いた。平日の昼間、中学の制服を着ている奴がうろついていることは、世間の人間にとって不審で仕方ないことだろう。もしかしたら、警察に補導されて親を呼ばれたりするかもしれない。それは嫌だ。俺はあそこから逃げ出したかっただけで、誰かに迷惑をかけたりしたかったわけじゃない。

制服というシステムは、本当によくできている。なんでこんなものを着ている必要があるのかを、今身をもって思い知った。…はぁ、ちゃんと学校に行って、適当に授業を受けたり、適当に同級生と会話をしたりして、真っ当に一日を終えればよかった。そう思うものの、やっぱり体調大丈夫になったので、次の授業から受けますね、と学校に戻るのも、それはそれでばつが悪い。


仕方ない。どこか人目につかなさそうな場所で、文字通り人知れず時間を潰そう。何時間か経って、適当な時間に帰って、ゲームでもして、夜眠ればいい。

そういえば、適当に歩いてきたこの道の先には、公園があったような気がする。池とか広場があるような、そこそこの広さがある公園。人目に付く場所ではあるけど、誰も意識しないような場所くらいはあるだろう。何よりも、行ったことがなかったから行ってみたい。

途中の交差点でパトカーとすれ違って肝を冷やしたりしながら、何とかその公園に辿り着く。この街が平和なおかげで、警察が怠惰で助かった。


着いてみると思ったよりもちゃんとした公園らしく、入口には仰々しい石碑があったりした。建てるに立つと書いて、こんりゅうと読むのか。刻まれた文字を調べてみて初めて知った。こんな小さな発見があったりするから、知らない場所は好きだ。


中に入ってみると、ちらほらと人がいた。休憩中のタクシードライバーみたいな人とか、ランニングをするおじいちゃんとか。誰もこちらには興味がないみたいで、目も合わなかった。ありがたいことだ。

ランニングコースなのか散歩道なのかよく分からない、舗装された道を歩いてみる。しばらく歩いていると、道中に案内板があるのを見つけた。


噴水池、というシンプルな名前のついた、比較的大きい池があるみたいだ。どうやら、そこに東屋があるらしい。そこなら、少しくらいは時間も潰せるかもしれない。そんな期待を込めて歩き始めた。

それにしても、本当に空が綺麗だな。木々の隙間から覗くのは、どこまで行っても青一色。なんというか、ぽっかり空いた穴みたいだ。抜けるような、という表現がぴったり似合う。


池の前の少し小高くなっている場所に、その東屋はあった。池と森と空が一望できる、ぼーっとして時間を潰すには最高の立地だ。そんなことを考えながら中に入る。

人の気配があったので、一応会釈でもしておくか、と顔を見ようとして、思わず固まってしまう。

「あ、宮城。おはよ」

そこにはクラスメイトの千早なぎさの姿があった。こちらとは対照的に、あまり驚いた様子はなかった。ばつが悪そうに笑ったりするわけでもない。明るい、跳ねるようなトーンで挨拶をされたので面食らってしまって、あぁ、とかおう、みたいな中途半端な返事になってしまう。別に仲がいいわけではない、かといって初対面というわけでもない、考えられる中で最も気まずい二人きりだ。


挨拶を返したあとは予想通り、二人とも黙り込んでしまった。お互い聞きたいことはあるはず、というよりも、一言目を発して楽になってしまいたいと思っているはずなのに、何も会話がないまま時間だけが経ってしまっている。

「あのさ、千早はなんでここにいるの?」

沈黙に耐えられなくなって、俺から話を切り出す。しかも、最悪の切り出し方で。責めていると取られてもおかしくない言葉遣い。これだから、人と話すというのは苦手だ。

「言うのも恥ずかしい理由なんだけど、フラれちゃってさ」

努めて明るく振舞っているのが丸わかりの声色だ。よく見てみると目元は赤くなっていた。もしかしたら、さっきまで泣いていたりしたのかもしれない。

「フラれたって、恋人がいたってこと?」

当たり前だろう。自分でもそう言いたくなるセリフが、考える前に口に出ていた。話を聞いていないと思われたくなくて、こういう適当な相槌を打ってしまう。

「年上の、って言っても高校生だけど。でも、ちゃんとした人なんだよ。私が無理矢理そういう関係性にしちゃったみたいな」

聞いてもいないのにその元恋人を庇うような言い方をしたことを考えると、きっと周りの人にはあまり応援されなかったんだろう。


俺としてはここにいた理由を知りたかっただけだったので、これ以上の情報は必要ないんだけどな。

まぁ、人に話して楽になることもあるだろう。そんな謎の上から目線で、話の続きを待ってみることにした。

「昔から近くに住んでた人でさ。ずっとここにいてくれるものだと思ってたんだけど、就職したら他の街で暮らすんだって言ってて。なんだかそれがすごく嫌で、その理由を考えてたら、私はずっとこの人が好きだったんだなって気付いちゃったんだ」

思い出を追うような遠い目。なんというか、ちゃんと恋をしていたんだろうな、という感じがする。年月を重ねて、感情を起伏させながら。

「で、好きっていうアピールをしてるうちに、向こうからちゃんと告白してくれて。その時は世界一幸せだって思ったんだけど、今考えたらあの時から、あの人が優しいだけだったんだろうなぁ」

「…そうなのかもしれないね」

一瞬否定をするか迷ったが、とりあえず同意しておいた方がいい気がした。


失恋からの立ち直り方ってきっといくつもあって、そのうちの一つが、全部自分のせいだから上手くいかなかったって思うことなんだろう。だから、客観的な意見を差し込むような真似は余計なお節介ってやつなんだろうと思う。

「でもさ、優しさで一緒にいるのって、一番優しくないと思わない?」

…どうやら、そういうわけでもないみたいだ。人間は難しい。そして俺自身の経験が少なすぎて、何を否定して何を肯定したらいいのか、よく分からない。

もしかしたら本当に好きだったのかもしれないよなんて、適当すぎて絶対に言えない。だから、「まぁそうだよね」と無難な選択肢を取る。


「大体、あの人は自分を大事にしなさすぎなんだよ。いつも一歩引いて、絶対に私のやりたいことを優先しようとするし。あなたのやりたいことを一緒にやりたいって言ったら困った顔するし」

…なんだか、思ったよりたくさん抱え込んでいたみたいだ。でも、実際恋人がいたら、俺もそういうタイプかもしれない。つまらない人間が立てたつまらないデートプランに付き合わせるくらいなら、やりたいことをやって欲しい。サプライズとか、一生できそうにないな。

「結局別れるんだったら、私といた時間が全部無駄な時間になったってことじゃん。せめて好きな場所くらい覚えていたかったよ」

「そんな所、知っててどうするの?」

「そこに行ってあの人のことを考えて、泣くだけ泣いて立ち直るの。失恋って、そうやって乗り越えるものじゃないの?」

…よくわからないけど、まぁ、そんな風に思う人もいるんだろう。感傷に浸ることと立ち直ることってセットなんだろうか。一回沈みきってから前を向くって、逆ジェットコースターみたいだな。

「宮城は恋人とかいないの?」

だいぶ吐き出したんだろうか、今度はこっちに話を振ってきた。いるように見える?と聞こうとして、そういう物言いをする人間って嫌だなぁと思い直す。

「いないよ。人生で一度もいたことない」

「へ〜!じゃあ、宮城の初恋はうまくいくといいね」

余計なことを言ったと思ったが、返ってきたのはポジティブな言葉だった。なんだか、千早のことが眩しく見えてしまう。

「恋人いてよかったなと思うことってあった?」

なんとなく聞いてみると、千早はしばらく考え込んで答える。

「いる期間はずっと、いてくれてよかったなって思ってたよ。何がいいとかはよくわからなかったけど」

そういうものなんだと返事をして、俺にとってもそういうものだとしたら、恋をする前の俺とした後の俺は別人になってしまうだろうなと思った。


「そういえば、宮城はなんでここに来たの?」

千早は思い出したように聞いてきた。

失恋に比べると理由が理由じゃなさすぎて、そういうことを聞いているんじゃないとわかっていながら、「適当に歩いてたら、ここに公園があるのを思い出したから」と答える。適当なことを言ってばかりだ。これも、何も考えていないフリの一種。

「そういうこと聞いてるんじゃなくて」当たり前のように、呆れたような言葉が返ってくる。

「何が嫌になっちゃってここに来たの?」

まだ質問に答えるチャンスがあるようなので、今度は真剣に、「強いて言えば、自分が嫌になって」と答える。

「自分が?なんで?」

まぁ、そうなるよなぁ。自分が抱えていることを人に説明するのって、長ったらしくなるし面倒くさい。

「いらいらしたり、落ち込んだり、自分を憐れんだり、そういうことから一瞬でも逃げ出したかったんだ」

嫌々ながらそう説明すると、千早はわかったようなわからないような表情で、「そっか」と一言だけ言った。…まぁ、そうなるよなぁ。頭の中で同じ言葉を繰り返す。

きっとこれは、コンプレックスってやつで、自分が何もしてこなかったが故の罰みたいなものだ。だから、真っ当に生きている人間にはわからないんだろう。

「よくわかんないけど…でもね、私も昔から、落ち込んだときはここに来るんだ」

俺と目を合わせて、千早は笑う。「だから、似てるのかもね、私たちって」

どうだろうねと笑って返す。でも、ここをいい場所だと思うのは俺も一緒だ。そういう価値観みたいなものは、確かに共通点があるのかもしれない。

「そういえば、千早も早退なの?」

「も、ってことは、宮城は早退なんだ。私は普通に仮病だよ」

普通に仮病って、なんとなく変な日本語だな。というか、千早って毎日学校にいた気がしたけど。

「今まで遅刻とか欠席あったっけ?」

「ないよ。初めての欠席。宮城も初めてでしょ?」

「まぁ、俺は早退だけど」

「あんまり変わらないよ」

二人で笑い合う。何気ない言葉で笑ってくれると、会話ってこんなに気楽なものなのか。俺も人と話すときは、もっと笑った方がいいのかもしれないな。


それから俺たちは色んな話をした。学校の嫌いな授業の話とか、よく食べる料理の話とか。そんな思い出したり文字に起こしたりするほどでもない会話。それがいつになく楽しくて、いつのまにか朝抱えていたネガティブはどこかへ消えていた。


帰り支度をしながらも、まだ話は続いていた。

「宮城って、割と口数多い方なんだね」

「喋らないイメージだった?」

「そうじゃないけど、あんまり冗談とか言わないイメージだったよ。いつも淡々と生きてるっていうか」

半分くらい悪口というか、いい印象がなかったみたいだ。でも、そんなもんなんだろうなと思う。劣等感に浸っている人生を歩んでいる人間の纏うオーラって、きっといいものじゃないだろうから。

「でも、イメージ変わったかも。淡々と生きてるんじゃなくて、あんまり自分から人と関わらないだけでしょ」

「関わって面白いような人間じゃないからね」

そんな俺の言葉に、千早は当たり前のように答える。

「別に、誰もそんなこと求めてないよ。面白い人って限られてるから価値があるんだし」

言われてみればそうかもしれない。面白くなかったら人と関わっちゃいけないわけじゃない。そんな当たり前のことに、なんで今まで気付かなかったんだろう。

「そんなことよりさ、もしよかったら、明日もここに来ない?」

千早は唐突にそんな提案をした。「あ、もちろん、明日はちゃんと学校終わりに」という言葉を付け足して。

「なんか変な噂とかされないかな?」

「そうなったらそのとき考えようよ」

冗談を交わしあって、明日もここに来る約束をした。…なんだか、他人と関わって楽しいと思えるのって久々だ。

「ていうか、駅まで道一緒じゃん。早かったら今日くらいに噂になっちゃうね」

「うわ、やだなー、別れた次の日にそんな噂流されるの」

帰り道も会話は途切れなかった。…やっぱり似てるのかもしれないな。冗談の感性とか。


さすがに電車の方面は逆だったので、違う電車に乗り込む。部活終わりの時間にかち合ったことに気付いて、あそこに何時間いたんだよと自分にツッコミを入れる。

部活終わりの時間帯ということは帰宅ラッシュとも被っているので、言わずもがな電車は満員だった。ドアの側に立って、早く降りたいなぁと思う。思っても思わなくても、所要時間は変わらないのに。

なんだか、変な一日だったなぁ。このパンパンに人が詰まった箱の中の一人をやらされている現実から逃避するために、今日のことを思い出してみる。あれだけ他人と話すのは久しぶりだったし、そもそも自分自身があんなに話題を持ち合わせているなんて思いもよらなかった。


でも、いい一日だったんだと思う。学校をサボってしまったことなんて、どうでもいいことだと思えているんだから。

明日もこんな日になるといいな。そう考えているうちに、最寄り駅に着いた。

「おかえり」

母に言われ、ただいまと目も合わせずに返す。自分のそういうふとした仕草は好きじゃないのに、目を合わせて挨拶をする気恥しさみたいなものに勝てないでいる。そんなことを、いつも自分の部屋に入ってしまってから考えている。ベッドに寝転ぶと始まる反省会の内容は、毎日あまり変わらない。いつかこの気恥しさを感じなくなったら、俺は自分を大人になったと思えるだろうか。

それがいつになるのか考える気にもなれなくて、思考を投げ出すように目を閉じた。


目が覚めた。時計は4時を指していて、つまり起きるには早すぎる時間だった。どうしてこんな時間に起きてしまったのかという混乱が、寝起きで回らない頭を埋めていた。

カーテンを開けてみても、日は昇っていない。朝と夜の混ざり合った、紺色と橙色の波打ち際みたいな空が広がっている。

多分、夕飯までの間眠ろうと思って目を閉じて、そのままぐっすり寝てしまったんだろう。関係性の浅い他人と会話をする際、無意識に気を使うことが、思ったよりも疲労に繋がっていたみたいだ。何はともあれ、いつもよりすっきりした気分で起きられていることをポジティブに捉えた方がいいだろう。


時間を潰そうと思って外に出てみる。朝の空気って他のどの時間帯よりも、なんかいい。乾燥具合も、温度も、何もかもが。昇り始めた朝陽を眺めながら、ただぶらぶらと歩く。なんだか得した気分になる。

なんとなくいい。そんなものを拾い集めるような人生も、決して悪いものじゃないのかもな。

これも流行りの朝活ってやつに入るんだろうか。そもそも、散歩って活動扱いなのか?俺の中では活動だけど、ルーティン化してしまった人にとってはどうなんだろう。歯磨きとか洗顔とか、そのくらいの当たり前なのかもしれない。などとどうでもいいことを考えているうちに、散歩ルートは辿り尽くしたみたいだ。気付けば我が家の前にいて、時刻は朝5時半。そこそこ常識的な時間と言えるだろう。静かに自室に戻り、今日の準備を始める。

俺の数少ない美点のひとつに、置き勉をしないというものがある。何故そうしないかというと、盗まれてしまっても文句を言えないからだ。人生におけるリスクなんて少なければ少ないほどいいし、自分の稼ぎで買ったわけでもないものを粗末に扱えない。


中学生のときそんな考え方を担任に褒められてから、なんとなくそう思っていることを隠している。プラスにもマイナスにも、何か印象を持たれるのが嫌だ。どこにでもいる誰かの一人として、誰にも意識されずに生きていきたい。…そんなことを思っていなくても、きっとそういう人間なんだと思うけど。自意識過剰だとは分かっていても、褒められたくも貶されたくもないし、誰かの視線を気にしたくないという考えを捨てられない。

それが俺なりの社会への迎合で、学校教育の期間で養われた人間性なんだろうと思う。だから、個性的な人間に憧れがある。その個性を個性だと自認していて、それに自信を持っているような人たちに。

ないものねだりだということくらいは、自分でもわかっている。きっと個性的に見える人たちだってそれなりに社会に迎合しているわけだし、何をどう肯定しているのか、その判断基準が俺と違うという、ただそれだけの話だ。


なんだか、何をしていても人と比べてばかりだ。そんな不安定な自我が、俺の俺たる由縁だったりするのかもな。…あんまりいいことじゃない気がする。

余計なことを考え込む前に、家を出る準備を済ませてしまおう。鞄を閉じて、顔を洗って、歯を磨いて、自室に戻る。

袖を通す制服はまだ冷たくて、春は始まったばかりなんだなぁと思う。桜が咲いて、蝶が舞って、夜が長くなり始めても。季節の経過ってバランスが悪いというか、思い通りにいかない。自然現象なんだから当たり前なんだけど。

「そういうどうにもならなさって、なんとなくいいなって思わない?」

放課後、千早とそんな話をする。

「なんというか、誰にもどうにもできないことって諦めるしかないっていうか」

「あんまり『なんとなくいい』の理由になってない気がするんだけど」

千早はくすくすと笑う。…伝わらないものだ。もしかしたら、俺がズレているだけなのかもしれない。

「でも、なんとなくわかるかも。雨が好きとか、そういうのに近い?」

「そうそうそう!」と、俺は何度も頷いて肯定する。頭だか心だか、そんな場所に置いてあるふわふわとした感覚を言語化してもらえたというか、同じなんとなくを共有できた感覚って、わりとテンションが上がるものだ。

「みんなうざったいと思ってるんだろうなぁ、みたいな感覚って、自分だけじゃない感じがあっていいよね」

千早もそんなふうに思うときがあるんだ。俺はなんとなく、この感覚を多数の人間と共有できるとは思っていなかった。そういうものほど、共有できたときの喜びも大きいような気がする。今日の場合は、少し後ろ向きな話題だけど。


寒いのは好きだけど暑いのは嫌いとか、一頻りそんな話題を擦り尽くした頃、千早は思いついたように言った。

「そうだ。暗い所好き?」

「好きだね」

夜、ちょっとした用事で外に出たときとか。暗幕に包まれたような世界を、弱々しく照らす街灯を頼りに歩いてみたりすることを想像する。

「じゃあ、魚とかは?」

「…どちらかといえば好き、かな」

思い浮かんだのは、一昨日食べたカレイの煮付けだった。和食って、醤油みりん砂糖があれば大体のものは作れるんじゃないかな、と思いながら食べた気がする。

「今週、日曜日の予定は空いてる?」

「空いてる」

というよりも、ほぼ毎日の予定が空いている。だけど、それは余計な一言だろうと思って飲み込む。

「よし、水族館に行こう!…あ、水族館は?」

「大好き。是非行こう」

なるほど、暗くて魚がいて、休日に行くような場所。今の問答の最後のピースが嵌って、大昔に行ったきり名前も思い出せないような、それでも小さい頃は好きだった場所が浮かんだ。


行こうとは言ったものの。

千早は、休日を過ごす相手に俺なんかを選んでよかったんだろうか。ベッドに寝転びながら、そんなことを考える。失恋の穴を埋めるための人員にしても、俺より適任は腐るほどいそうなものなのに。

まぁ、どうでもいいか。向こうがいいって言うなら、きっとそれでいいんだろう。俺が気にするようなことでもないし、気になったって聞いていい関係性じゃない。頭を空っぽにして、水族館を楽しむことにしよう。


そして、日曜日。母は珍しく早起きした俺に色々聞きたそうだったが、適当な返事をしているうちに何も聞いてこなくなった。…こういうことも、いつかはやめなくちゃいけないと分かっている。何でこうも面倒が先に立ってしまうんだろう。

待ち合わせ場所に着いて千早を待つ間、またそんなことを考えた。やっぱり、暇な時間ってよくないな。


俺は約束事というのが心の底から苦手で、理由は自信のなさなんだと思う。この場合、自分を信用していないという意味だ。何時にどこに集合と言われたとき、まず間に合わないことを考えてしまう。じゃあ間に合うために前日から準備をしておいたらいいと思うのだが、そんなことができるほど勤勉でもない。面倒だからと後回しにしているうちに手遅れになってしまう。そこで俺が編み出した解決方法が“どんな時間であれ、外に出ようと思ったタイミングで外に出てしまう”というものだ。


起きた時刻から約束の時刻までの猶予があればあるほど、もう少し寝ようとかもう少しだらけようという怠惰な気持ちが正当性を帯びていく。準備にかかる時間はこのくらいだからここまでは自由時間にしていいな、という余裕が慢心を生むのだ。

だから、そういった逆算を捨ててしまおうというのが俺の遅刻回避法。起きて目が覚めてきた頃に外に出ると決めてしまう。そうすれば、遅刻することはなくなる。この方法では時間を潰すのが家か目的地周辺かの違いしかないのだが、目的地周辺にいる限りは遅刻する確率はないに等しい。…本当は、もう少し器用に生きたいと思ってはいるんだけど。


そんなわけで、俺は2時間ほど千早を待つことになっている。幸い時間を潰すのに困ってしまうような駅ではなかったので、本屋に入ったりして時間を潰す。普段は内容に触れるどころか表紙すら見ないようなものでも、理由があったりしてじっくり見てみると興味が湧いてきたりする。自己啓発本って、誰にとって何の意味があるんだろうとか。認識を改めたり、何かを頑張る理由って、必ずしも自発的である必要はないってことなのかもしれない。まぁ、俺にはよく分からない話だ。


今までの人生で、俺は何か頑張ってきただろうか。何も頑張っていないような気がするし、人並みには頑張ってきたから今の人生があるような気もする。…かく言う俺も、自発的に何かを頑張ってきたわけじゃないみたいだ。努力とかやるべきこととかって、本当に面倒くさい。努力をすることとか、やるべきことを考えることが面倒というよりも、自分はそれをするために生まれていて、やるのが当たり前のことだという認識があることが面倒くさい。何をどう頑張ったらいいかも分からないのに、頑張らなくちゃと思う気持ちだけはあることが。

頑張らなきゃいい人生にはならないとか、頑張ったことは報われるとか、絶対そんなことはないのに、今自分が満たされていないことを頑張っていないからだと思い込んでしまう。足りないことは全部自分のせいだと思ってしまうのって、生きづらさ以外の何物でもないと思うんだけどな。


ふと時計を眺めてみる。いつの間にか、集合の10分前になっていた。意味のない物思いを捨てて、集合場所に向かう。

「おはよ。早いね」

すると、そこにはすでに千早がいた。

「おはよう。10分前って、そうでもないでしょ」

俺は今来た体を装って返事をする。

「ふーん。駅、向こうだけど」

千早はくすくすと笑って、俺が歩いてきた方と逆方向を指した。

「宮城も集合時間より早く来ちゃうタイプ?お揃いだね」

「あぁ、まぁ…そんなところかな」

本当は、真逆の理由で早く来てるんだけど。他人に説明して分かってもらえた試しがないので、そういうことにしておこう。


「じゃ、行こっか」

千早が歩き始めた方向に、俺も歩いていく。…なんか変な気分だ。そういう関係でもない女子とこうやって並んで歩いているというのは。親しい異性なんか一人もいない俺からすると、この状況は変としか言いようがない。もしかしたら、他の誰かからすると付き合っているように見えたりするのかもしれない。実際、俺だって二人で歩いている男女を見たらそういう関係なんだろうなと思うだろうし。


そんなふうに見られてしまうことを、千早はどう思っているんだろう。嫌だろうなぁ。俺は少しだけ、ほんの少しだけ距離を空ける。こんなことは何の解決にもならないと分かっているけれど、でもなんとなく、何もしないよりはいいような気がする。

千早がどうこうと言うよりも、きっとこれは俺なりの自己防衛だ。誰に対してもプラスマイナスゼロでいるための。


「水族館に最後に来たの、小学生の頃かも」

俺の物思いは、千早の一言で中断される。

「多分、俺もそのくらい」

「ね、あんまり行かないよね」

くだらない会話でも、余計な物思いをしなくてすむからありがたい。

「なんで水族館に行きたいなって思ったの?」

「んー、なんとなく。宮城も好きそうだな〜と思って」

「まぁ、確かに好きな場所ではあるけど…」

だとしたら、なんで俺と遊びに行く場所を考えたんだろう。別に俺じゃなくて、他の誰かと遊べばいいのに。そんなことを言って変な雰囲気になるのも嫌なので、俺はその先の言葉を濁した。


「まぁ、細かいことはいいじゃん。楽しもうよ、水族館」

おそらく俺の疑問を察して、千早は歩く速度を上げる。まぁいいか、と俺も合わせて歩く。

「水族館ってさ、ペンギンとかアザラシとか、海にいるものだったら入れていいみたいな括りの雑さがいいよね」

そんな一言に、千早は「なにそれ」と笑う。

「魚だけとかじゃなくて、水族って括りにすることで自由度を高めてるところが、なんかいいと思うんだよね」

「まぁ確かに、魚だけだったら飽きちゃうかもね」

「そうそう、飽きさせないための工夫が分かりやすい感じ。俺がペンギンだったら『え、俺ここにいていいんですか?』って思うもん」

俺が言うと、千早は初めて見るくらい大きな笑い声を上げた。

「ペンギン側のこと考えてる人、初めて見た。やっぱ面白いよ、宮城って」

涙を流すくらい笑っている姿を見ると、嬉しいような、少し照れくさいような気になる。余計な物思いというのも、たまには役に立つものなのかもしれない。


「入場はスマホのQRコードをかざしてくださいってさ」

読み取り口にスマホをかざすと、ピッという音がしてゲートが開く。

「小学生のときはまだチケットちぎってもらってた気がするけど」

「デジタル化ってやつだね。こういうのも切符みたいに別で売られたりするのかな」

「あ〜、エモいってやつね」

俺は半分バカにしながら、エモいという言葉を強調する。

「でも、切符買うタイプでしょ、宮城」

見透かしたように笑う千早に対して、俺は何も言えなくなる。確かに俺は硬券切符を見たら買いたくなるタイプだし、それをなんとなく眺めてしまうタイプだ。

「私も同じだし、きっと皆もそうだよ。そういうもんだよ」

「そういうもん、か」

何というか、俺の行動って、逆張りってやつなんだろうなと思う。胸を張って生きられないが故に、胸を張って生きている人を小馬鹿にしているというか、そうでないと自分を肯定できないというか。そういうのを窘められると、恥ずかしくて死にたくなる。


「うわ〜、大きい水槽!」

入ってすぐ、色んな種類の魚が泳ぐ大水槽が視界いっぱいに広がった。

「大水槽ってこう、海を切り取ってきた感じがして、どこを見ていいか迷っちゃうよね」

魚群を割くようにして進む鮫を見ながら、こんな手狭な空間で自分の何倍もの大きさの生物と一緒に生かされている鰯たちに少しだけ同情する。

「なんか、突然自主学習でいいよって言われたときに似てるよね」

何ができて、何ができなくて、何をするべきなのか。それを学びに来ているはずなのに、突然自分の好きなようにしなさいと言われる。掴んだ手を突然離されるみたいで、苦手な感覚だ。きっと俺が何も考えていないだけなんだろうけど。

「ラッキーじゃん、あれ」

冗談だと思われたのだろう、軽く笑う千早に合わせて話を流す。こういう自分ができなくて他人ができることが、本当に苦手だ。落ちこぼれの烙印を押されているみたいで。それがどれだけどうでもいいものだとしても。

「宮城は真面目だね」

数歩先を歩く千早の言葉が、頭の中で何度か繰り返される。真面目。その言葉に、俺はあまりいい印象を持っていなかった。

「息抜きができないから、突発的に休んじゃったりするんでしょ。私もそう」

…ちゃんと恋をしてきたんだろう。数日前も思ったことが、また頭をよぎった。

「まぁ、そんなことは置いといて。とりあえず楽しもうよ」


なんというか、ここにも自然の摂理はあるんだよなぁと思う。ペンギンにも力関係があったり、イルカが人の言う通り動いたり。何よりもそんな多数の生き物を見世物にしていることも、そんな目的のためだけに飼育しているのにちゃんと管理できていることも、人間らしさを感じる。

ふよふよと浮かび続けるクラゲを見ながら、絶対に楽しみ方を間違えているなぁと思う。

「へー、クリオネって和名はハダカカメガイって言うんだ。全然オシャレじゃないね」

「でも、ハンマーヘッドシャークだって和名はシュモクザメだよ。呼ぶんだったら、やっぱりオシャレだったりインパクトがある方になるんじゃないかな」

千早はスマホを弄って「ホントだ、詳しいね」と言った。

「シュモクって何なんだろうね」

「お寺にある鐘を鳴らす木のことらしい。語源はこっちの方がオシャレなんだけどね」

「へー!何でも知ってるじゃん」

「何でもってわけじゃないよ。ただちょっと図鑑とかが好きな子供だったから」

小学生のとき重度の活字中毒だったおかげで、水族館にいる間は会話に困らなかった。


「お腹すいた!お昼食べようよ」

言われるがまま外に出ると、道沿いに屋台が並んでいた。当たり前に海鮮系が多いが、わりと選択肢は広そうだ。

「磯焼きとかが売りのお店って大概居酒屋さんだから、私達だけで貝とかを食べられる機会って貴重だよね」

言われてみればそうだ。両親とご飯を食べに行くときとか、祭りの屋台くらいでしか食べられない。

「まぁ、今のはSNSの受け売りなんだけど。ここの水族館もそれ見て知ったんだよ」

俺とはSNSの使い方がだいぶ違うみたいだ。人の物思いみたいなものを淡々と流し見するんじゃなくて、ちゃんと情報収集をしている。できる気がしなくて、すごい以外の感想が浮かばない。

「なんでもない休日って、なんとなく損した気になるから」

千早のそんな言葉を、あと何度こんな日が来るかはわからないけど、ちゃんと刻んでおこうと思った。


日曜日って、こんなに早く終わるものだったっけ。帰り道、沈んでいく夕日を見ながらそんなことを思った。

楽しい休日を送ってしまうと、いつもの休日がつまらないと勘違いしてしまう。来週の土日は、きっとつまらないものになってしまうだろう。それくらい、今日は楽しかった。

千早は楽しんでくれただろうか。聞きはしないが、気にしてしまう。自分が楽しかったから相手も楽しんでくれただろうとか、そういう勝手なことを思いたくなくて。

「今日は楽しかった!ありがとう」

帰り道、そんな千早の言葉に救われたような気持ちになる。

「俺も楽しかったよ。じゃあね」

振り返って進もうとすると、千早に止められた。

「じゃあねじゃなくて、また明日、だよ」

「あぁ、うん。また明日」

また明日。いい言葉だ。次は俺もそう言ってみよう。


「ただいま」

玄関のドアを開けて、たまたま廊下にいた母にそう言うと、母はびっくりしたような顔をしたあと嬉しそうに「おかえり」と言ってくれた。きっと聞きたいこともあっただろうに、何も聞かずに「ご飯できてるよ」と付け加えて、またリビングに戻っていく。


自室に戻る。特に焦っていたわけでもなかったのに部屋の窓は開けっ放しで、カーテンがはためいている。なんだか閉める気にもならなくて、カーテンを開けて外を眺める。日が沈むとともに街は外面をやめていって、最後には誰もいない、街だったものが残る。そんな場所を一人で歩いてもよくなるまで、あと4年近くある。


夜は、底なんてまるで見えないほど暗くて深い。今の俺ではきっと竦んでしまうし、きっと乗り越えられないんだろうと思う。だからこそ、今はまだ歩いちゃいけないんだろう。ただ、いつかそんな夜を何とも思わない日が来たら、このどこまでも続く闇をひたすら歩いてみたいと思っている。もしかしたら終わりがあるかもしれないし、まだ見ぬ何かがあるのかもしれない。この部屋から夜を眺める度、そんな期待と不安だけが膨らんでいく。

それよりも、もっと直近のことを考えるべきなのに、俺はこんなことを考えるのをやめられない。これが未来への期待なのか、現在からの逃避なのかはわからない。だけど、これは大事な感覚なんだと思う。いつか大人になったときに、子供の頃はこんなこと考えてたなぁと思い出話の種にできたらいい。

明日は、夜の話でもしてみるか。夏の夜に星を見に行った思い出のこととか、今日のこんな物思いとか。

なんだか不思議な感覚だ。明日のことを流れていく時間じゃなくて、待ち遠しいイベントのように捉えている。まるで、小学生の遠足前夜みたいに。まぁ、眠れなくなるほどじゃないけれど。


食卓に向かうとラップがかかったおかずがあって、キッチンの鍋の中には多分汁物がある。いつも通りだ。我が家では夕食は基本自由で、すき焼きだろうが焼き肉だろうが好きなタイミングで各々食べる、というのが基本方針だ。だから、食卓を囲むという表現はあまり馴染みがなくて、創作物の中のできごとだと処理している。括りで言うと魔法や完全犯罪のトリックなんかと同じようなものだ。だからというわけじゃないが、基本的に食事に感慨がない。呼吸とか睡眠とかと同じように、生きる為に必要な行動のひとつとして食事をしている。

だけど、今日食べた帆立は美味しかった。人と食べるご飯って、やっぱり特別なのかもしれない。夕食を食べ終わるまでの間、そんなことを考えていた。

眠りにつく前に、気まぐれに天気予報を確認してみる。降水確率は0%で春らしい陽気、らしい。

そんな予報に少しだけ嬉しくなる。明日も晴れるといいと思っていた頃に戻ったみたいだ。雨とか雪みたいな小さな非日常じゃなくて、当たり前の日常を嬉しいと思う。そんな期待を胸に、俺は眠りについた。

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