2 サラセンホテル
サラセンホテルには、庭園喫茶室が併設されている。離れのように見えるが、ホテル本館と地下通路で繋がっていて、宿泊客は屋内移動でアクセスできる。
喫茶室は外部にも開放されていて、ここの軽食から、サラセンホテル本館レストランの味を垣間見ることも、できなくはない。
今日も、サンドブレスト・ブルーが、喫茶室でミックスサンドをテイクアウトして、地階レストランへ来た。サンドブレストは、地下通路ではなく緑豊かな庭園を抜けて来る。外階段からドライエリア席に着いて、オレンジブロッサムをオーダー。
「お待たせ致しました」
テーブルにグラスを置く。傍目には、オレンジジュースとサンドイッチの朝食客に見える。オレンジブロッサムはカクテルだ。昼前からいい身分。
蔑みと呆れと、そして羨望。いずれも溢れないほどに少量ずつ。笑顔。
「注文、いい?」
呼び止められた。珍しい。
「ルームサービスで、ローストビーフサンド四つとパストラミサンド四つ。ジャーポットでブレンドコーヒーをアイス一本とホット一本。午後一時までに六〇四号室へ…………できる?」
早口だけど、メモを書いて渡してくれた。
「はい。サンドイッチはお皿と紙箱、どちらになさいますか?」
「これと同じので」
トントン。綺麗な指先で紙箱を叩く。
「かしこまりました」
ふふっ。サンドブレスト・ブルーと喋っちゃった! サラセンホテルに一ヶ月も滞在してる上客。昼前に降りてきて、軽食とアルコールのブランチしてく謎な人……かと思ったら、商工会議所のなんか偉い人らしい。厨房で聞いた。アーバンで仕事があるから田舎から出てきたんだって。
つまんない! 田舎者なんだ。身なりが良いし、サラセンホテルに泊まってるくらいだから、何かしらすごい人かと思っていたのに……。
サンドブレストは、会議の準備をしていた。ハイワイトから出てきた主たる用事は、今日の集りで話合う為である。
内容は、いつもと変わらない。ハイワイトの一次生産品をアーバンの二次加工へ委託する諸々のことを詰める。簡単に言えば、それだけのことである。
サンドブレストが予定している会議は、小規模なものだ。会議室も接待会食もない、サンドブレストが滞在している部屋のソファでゆるく開催される。議事録並みの紙資料はあるが。
サンドブレストが注文したものは単なるツマミで、帰りに渡すお持たせは既に用意済みだった。
今ではバカバカしい接待が激減した。根絶されたとは言わないが、過剰な根回しやクリーンでない関係性を嫌う傾向が総体的に浸透してきたのだ。
人の意識が変革されるには、恐ろしいほどの時間を要するものがある。悪しき習慣に慣れきった人が、それを手放すには本物の高い意識が求められる。
農村部の閉塞した対人関係にも、清浄性が好まれるようになった。これがあらゆる事柄にスムースな運びをもたらす最たるものとして、国の末端まで本当に拡がったのだ。
変革は、いつ、何故起きたのか?
かつてこの国が海に囲まれ日本と呼ばれていた頃、今は、海が極点へ向けて緩やかに後退した為、水没した国もあり対外関係も減ったことによる大きな解放は、国民性の内的改革へ働きかけるに充分たる出来事でもあったのだろう。
タイトなアウトラインからの解放は、豊富な海洋資源を失ってなお、引換えに得るものが沢山あった。
今まで板チョコ一枚を分け合っていたのに、かわりに一人ずつチョコレートケーキをホールで与えられたのだ。寛容は、高潔な精神より大いなるものから発見される。お腹がいっぱいにならないと見えない景色がある人は沢山いるのだ。
都市部アーバンからは田舎に見えるハイワイトにおいて、サンドブレスト・ブルーのような人がトップに就いていることから読み取れる事象でもある。
『商工会議所のなんか偉い人』なサンドブレストは、早起きしない。朝からお酒(昼近いけど)。なんかお金持ちそう。
キャリーは彼のちぐはぐな印象から、育ちの良い、親が上流の、田舎住まいのボンボン、そんな認識だった。
サンドブレストには、だらしなさとクソ真面目さが同居している破綻したおかしみがある。彼が降りてくるのは、いつも決まって正午数分前。だらしなく几帳面。キャリーはそこに惹かれていた。彼を見ていたら、何か面白いことが起きるんじゃないかしら……。笑顔の成分には、ほんの少しの期待と希望もあった。
入学して通学して四月、登校拒否児童となった。展開が早過ぎる問題児に、担任教師は保健室への自由登校をすすめ、キャリーは従っている。
キャリーは、午前中だけサラセンホテルのレストランでバイトをしていた。これは、キャリーの家が『みししパン』というパン屋さんで、サラセンホテルと業務的繋がりがあることから、コネで手に入れた仕事である。
又キャリーは、嘘をついてもいた。レストランの厨房では学校に行ってないと言い、中学校の保健室では部屋に閉じ籠もってると言っている。どちらにも、どっちつかずなようで言えなかったのだ。
夜。
サラセンホテルのレストランは混んでいる。給仕が銀盆で料理を運んでは皿を下げ、又新しい料理を運んでいた。
給仕の中で一人、目立つ青年がいた。背が高く、足首まである長い金髪は、馬のしっぽのように結われ、整い過ぎて逆に特徴をなくしている美しい顔立ちは、何度見ても人の記憶に残らない不思議な造形をしている。
席に着いている客が通りすがる彼に声をかけたくて、次々注文が追加された。彼は厨房へ戻る度オーダーを叫んでいくものだから、調理人たちは幾つかの料理をオーダーストップにしなくてはならなかった。彼がシフトにいると想定外が起こる。冷蔵庫がスカスカだ。
彼の苗字はありふれていて、シフト表には名前で記載される。給仕の佐藤は他に三人いて、厨房にも一人いるから、彼はヒルコと名前で呼ばれていた。
「あなた、お名前を訊いてもいいかしら?」
同僚がからかってくる。
「佐藤です!」
「はぁい、俺も佐藤で〜〜す」
「俺も俺も〜」
「給仕の佐藤が呼ばれたら、誰かが行けばいいんだろ? 便利でいい」
「返事だけな」
「はーい、て言うのに誰も行かんやつじゃん」
「「「「あっはっはっはっはっ」」」」
「働け、佐藤。出来たぞ」
調理人が盛り付けた料理を次々カウンターに並べていく。振り向いて厨房の佐藤に指示が出される。おかしくって、給仕の佐藤は皆笑っていた。
ドライエリアの端っこの席に、二人は居た。レストランが混んでいても、ここは空いていて中より静かだ。
「レイン。学校だけど」
「はい」
傍から見ると、黒尽くめの男と小さな男の子。親子? ……父と子のようでもある。
「どう? 学校は今まで通り、通いたい?」
希望を知りたい。選択肢を並べるのはそれからだ。
「私はレインが、これからどうしたいか、知りたいんだ」
「よく、わからないけど……」
「うん」
「学校は、普通に行きたいけど……」
「けど?」
「学校……先生とか、話さなかったけどクラスメイトとか……遠く感じた」
「うん」
「元々僕は、街の子じゃないし、学校で話したり遊ぶことはあっても、仲のいい……わかる? 親友みたいな子はいなかったんだよ」
「そう」
「そう。こんな時に話したくなる人は、学校に誰もいない……わかる?」
「うん」
これは、まずい。いよいよどうすればいいか、わからない……
私も親友はいない。違う!
学校は行った方がいい。違う!
これから親友をつくるのは? 違う!
どう…………
「オニキス。あのね、糸が切れたみたいなの。手を離しちゃったみたい。飛ばされた凧みたい。わかる?」
「私は、レイン、私は……見つけた」
どうしてもっと、ピッタリな言葉が出てこないんだろ。もっと、幾らでもうまく話せるはずなのに。私は大人なのに!
平行線の低空飛行のまま、着地しそうにない。
「レイン、聴いて。君は住むところを変えることになる。学校も同じか、違う学校へ通うことになるかもしれない」
「うん」
「児童養護施設というところへ、引越すことになるだろう。今の学校から遠かったら転校するかもしれない」
「そう」
「施設と言っても、別に悪いところではない」
「友だち、できるかもね。悪くなんてないよ。ありがとう、オニキス」
自分が、鬼か悪魔のような気持ちだよ。レインは笑ってみせているけど。なんか、本当にこれでいいのだろうか……
レストランで美味しい食事をしているのに、味がよくわからない気がしていた。二人とも顔を見合わせて、続きの料理は折詰めにしてもらおうとか、部屋へ戻ろうとか、言い合った。
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