第6話

 ■


「お父様」


 イシルが格子越しから抑揚のない声で言う。

 国王は苦笑し、イシルに告げた。


「魔獣の事だがな、討伐隊が壊滅した。だが彼奴はどうにもそればかりでは許してはくれぬようだ。森を腐敗させ、既に王都からでも大森林の異常が見て取れる。王都が呑み込まれる前に儂はこれを討つつもりだ。既に軍の編成は指示してある。当然儂も出る。タリオンは我が国最強の戦士であったが、その次に強いのは儂だからだ。ところでな…これはお前だけに言うのだが、どうにもうまくいきそうな気がしない。最悪の場合、王都は捨てて逃亡することになる。いや、もうこの後お前は逃げねばならぬ。王家の血を途絶えさせるわけには行かぬでな。だがお前ひとりでは心配だから、身の回りの世話をする者を残していこう。戦いに向かぬ者達や若者達もな。そしてこれを…」


 王は懐から一本の短剣を取り出した。

 深紅に燃える炎のような宝石が柄の先に嵌められている。


「これを売るがいい。一応はエルフェンの至宝らしい。まあ昔からある短刀というだけの話なのだがな。道中、売って金にして、逃げ延びよ。ベイル王国はわかるな?東域の人間の大国だ。距離はあるが…お前は、いや、お前たちはベイルへ逃げ延びるのだ。残った我々が森の変異の元凶を止める事ができたのならば迎えにいこう。ベイルの国王へ話が通るように一筆書いた。受け取りなさい」


 国王は更に懐から一通の皮紙を取り出し、イシルへ告げた。


「まあ良いのだ。どのみち我々年よりはそろそろ限界が来ていた。お前も知っているな?我らに課せられた呪いを。我々の肉体は時の重みに潰される事はない。しかし、我々の精神はそうは行かぬ。我々は精神が死ぬ前に肉体を滅ぼさねばならぬ。さもなければ虚ろとなった我々の肉体は暴虐の化身と化すであろう。お前もあと千年も生きれば分かる事だろうが…。だからここで儂が滅ぶのは丁度良いと言える。だが…どうにも名誉がない戦いであることよな。自業自得ではあるが。…良いか、イシル。おぬしはこの後逃げ、家臣たちに告げよ。儂の愚策を、愚かな判断を。儂の判断が王国を滅ぼしたのだ。それはしっかり告げよ。そのうえでおぬしはエルフェンを従える新たな王となり、逃げ延びた先で国を作るのだ」


 イシルは呆然と国王の言葉を聞いた。

 止めようにも何をどう止めればいいのか分からなかった。

 国王が去っていく。

 再会の保証がない別離はイシルの精神を酷く搔き乱した。

 国王の背を見ながら、イシルは様々な言葉を浮かべては消していく。


 友達を殺さないで代わりにあなたたちが死んで


 友達は気の毒だけれど、こうなってしまった以上仕方ないからみんなで一緒に逃げましょう


 私も一緒に戦います


 答えは色々あるが、そのどれもがイシルには正しいものには思えなかった。なぜこうなったのか?


 ──私が、マルドゥークと親しくなろうとしてしまった事そのものが良くなかったのかな


 考えても答えは出ず、イシルはベッドの上で膝を抱えて丸くなった。


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 衆寡敵せずという言葉があるが、それも時と場合、そして相手による。魔神と化したマルドゥークにとって、大軍などというのは餌がわざわざ自分から飛び込んできてくれる事以上の意味を持たなかった。


 あるものは枯れてから腐れ落ち、あるものは腐り落ちてから枯れた。枯渇と腐敗の旋風に一撫でされたものはたちまち見るも無残な姿へと変わり果ててしまう。


 王国軍が壊滅したのは軍が差し向けられてからわずか三日後の事であった。犠牲者の中には当然国王その人も含まれていた。


 ■


 心の底では、都合の良い結末を期待していた。

 お父様も皆も生きていて、マルドゥークは怪我はしたけれど生きていて。戦いが互いの理解に繋がり、凄惨な殺し合いは避けられて。これから先も私はマルドゥークと絆を深め、そして女王として成長していって…嗚呼、なんと間が抜けていたのだろう。


 §


 丸1日かけてイシルは憂鬱の沼から這い上がり、牢から外へと出た。国王は解錠をしておいてくれたのだ。王宮のバルコニーから見る変わり果てた森の様子に表情を歪める。森は枯れ木色に変色し、異臭が鼻をついた。そして大気からは酷く刺々しい魔力の波動が伝わってくる。


「お父様の魔力、皆の魔力。そしてマルドゥークの魔力」


 目を瞑り、風に流れる魔力と感応するイシルは戦いの趨勢がすでに定まっていることを知った。イシルの知る者達、前者2者の魔力は既に非常に僅かなもので、残滓といってもよかった。

 これは極めて大きい魔法を行使した際に残る魔力滓のようなものである。


「何もかも…私がいけないのね。私が馬鹿だったから。王族としての自覚がなかったから。鈍間だったから」


 イシルの瞳からぽろりぽろりと真珠のような涙が零れ落ち、ツと顎をあげて空をみあげた。

 風が彼女を包み込み、イシルが宙へと浮いていく。


 空は日中だと言うのに薄暗い。

 森から放射される瘴気…黒い霧の微粒子が空を覆っているからだ。

 浮遊したイシルは透徹した視線を森へ向け、次の瞬間には薄闇を切裂く一条の光と化して大森林の中央へ向かって空を疾駆していった。

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