第7話

 ■


 森の中心部には息苦しいほどの瘴気がたちこめていた。

 瘴気とは大気中に高濃度の魔力が混入したものを言う。

 魔力そのものに有毒性は無いものの、その魔力には強い害意が込められており、生物にとっては有害だ。


 イシルはふわりと空から降り立ち、北西へ向けて歩を進める。

 酷く変貌をしてはいたものの、その方角から感じる大きな魔力を彼女は知っていた。


 マルドゥークの方でも彼女を待っていたのだろうか。

 森の奥、やや開けた場所に黒獅子が佇んでいる。

 威厳と神秘に溢れていた白い毛並みは、怒りと憎悪にあてられたか、真っ黒に染まりきっていた。

 善も悪も等しく呑み込み、包み込んでくれる優しい黒ではない。

 光を窒息させるような闇色の黒だ。


 獅子の全身から禍々しい魔力が放射され、知性の輝きを宿していた双眼は今やどろりと濁っていた。


 まるでエルフの王女がその巨大な食欲を満たす最後の糧であるかのような視線に、イシルは目を伏せる。

 だがすぐにその目をあげ、厳しい視線で黒獅子を見据えた。


「ごめんなさい、マルドゥーク」


 ──שמש קטנה


 イシルは小さく呟いた。

 シムシュ・カタナ…それは彼女の種族の古い言葉で、小さな太陽を意味する。


 黒獅子の眼前に白く小さい光点がポゥと浮かび、やがてそれは周囲の大気を取り込み肥大化していく。

 膨れて、ふくれて、そして弾けて。

 光点は摂氏2,000℃にも及ぶ極熱と目を焼く程の強烈な光をまき散らし、魔神と化した黒獅子、マルドゥークに炸裂した。


 §


 自身を呑み込む凄まじい極熱を感じながら、マルドゥークは蕩けた頭で憎悪と思慕の両方の感情を感得していた。


 憎い、憎いが逢いたかった

 とても逢いたかった、しかし憎い


 相反する二つの感情はマルドゥークを酷く不快にさせる。

 腐敗と枯死の権能が"概念的に"極熱の炎を衰弱させ、減衰させていく。本来ならば炎は枯れないし腐ったりもしない。しかし、魔法的な解釈ではそうはならない。


 炎は生命、情熱、暖かさ、光を表し、腐敗と死はすべての生命の必然的な終わりを意味する。

 これらは概念的に相克するのだ。


 炎を呑み込んだ黒い霧が爆発的に広がり、イシルをも呑み込み、その身を爛れさせる…事はなかった。

 マルドゥークにその意思がなかったからだ。

 これは彼に理性が残っているからというより、理性の欠片が彼に当初の誤りをたださせようとしているが故の現象である。


 そして彼にとって当初の誤りとは。

 それは、あの時、イシルを自身の牙で爪で引き裂いて喰らってしまっていれば…という悔恨。


 そうすればイシルを知る事はなかった。

 そうすれば想いを抱く事はなかった。

 そうすれば、裏切られる事はなかった。


 その想いが権能の行使を阻害する。

 自身の手で直接殺そうという意思が、皮肉にもイシルを死から遠ざけていた。


 意思は魔力に宿り、魔力は意思を形と成す。

 イシルは大気中の魔力を通してマルドゥークの意思を知り、自身が彼の"飛び道具"で傷つけられる事がない事を理解していた。

 マルドゥークがイシルに陥れられたという誤解をしていることも彼女は魔力を通して何となく分かっている。

 しかし誤解を解く術はない。

 マルドゥークは怒りと憎悪に囚われ、以前の彼の気高い精神はもはやその内面世界のどこにも存在していなかった。


 マルドゥークを止めねば絶死の領域が拡大していくだろう。

 止めるという事は滅ぼすという事だ。

 黒い霧はイシルを蝕む事こそないが、それでも今なお拡散し続けている。黒い霧により朽ちたモノは、それ自身もまた黒い霧を放出するようになり、これが拡大すれば犠牲は大森林だけでは済まないだろう。


 イシルは友人を殺す覚悟を決めた。


 ■


 かつて万物は非常に細かい粒が集まって出来ていると提唱したエルフェンの学者がいた。彼はエルフェンの国の数代前の宮廷魔術師長であり、偉大な大魔術師であった。

 エネルギー…つまり魔力から物質を生成し、それを魔力へ戻すというような実験から彼は今日(こんにち)では万粒論と呼ばれる着想を得た。


 そして彼の着想はエルフェンの国の大図書館の禁術を保管する書庫へと収められており、限られた人物しかそれらを閲覧することはできない。もっとも、その限られた人物の大半は禁書とよばれるそれらの内容を半分も理解できないだろう。


 だが、イシルは限られた人物、身分であった上に、その内容を理解できる極々少数の優れた魔法使いであった。


 ──"פיצוץ ההתפרקות המיקרוסקופית האינסופית"


 これは"ピツーツ ハハトパラクト ハミクロスコピット ハエィンソフィート"と読む。

 直訳すれば"無限の微視的崩壊爆発"という意味だ。


 エルフェンの魔術師長が提唱した魔法で、"一つの粒の魔法"と呼ばれる。

 これは万物を原初の姿へとばらばらに引き裂いてしまう破滅の魔法として知られ、禁じられた魔法として封印されていた。

 さらに、この魔法は膨大な魔力を要する。

 理を解していても、事象を具現するだけの魔力がなければ魔法は起動しない。


 しかしイシルは理を解するだけの知性、そして更に事象を具現するだけの大魔力の双方を備えていた。


 而してイシルの薄桃色の唇から破滅の魔法の詠唱が紡がれ、その残響が腐敗の森に寂し気に広がっていく。


 ・

 ・

 ・


 魔法の対象は瘴気…砂粒よりずっと細かい腐敗と枯死の具現たる黒い霧の核とマルドゥーク本体だ。

 刻一刻と、そして広範囲に拡散しつつある黒霧をどの様に処理するか?僅かでも残すわけには行かない。


 イシルの意思が魔法に伝わり、魔法は彼女の意思を正確になぞりはじめた。


 "ピツーツ ハハトパラクト ハミクロスコピット ハエィンソフィート"という不思議な響きを持つ言葉がまるで空に種子を飛ばす春先の花のようにほどけ、散らばり、世界へ浸透していくと変化はすぐにおとずれた。


 あらゆるものがうっすらと光り、末端から光の粒子と化して空間に溶けていったのだ。

 森、土、黒い霧の一粒一粒は言うまでもなく、マルドゥーク本人でさえも。


 マルドゥークは牙を剥き、激発したようにイシルへ突進をしようとした。しかし自身の足が既に歩行の用を成さない事に気付く。


 "一つの粒の魔法"は術者であるイシルが認識した対象を原子分解する。彼女は黒い霧を認識し、これを抹消しようと魔法を紡いだ。

 黒い霧の発生源はその発生源ごと"分解"される。


 大森林から光が空へ昇っていく。

 それはまるで死者の魂が天に還っていくような幻想的な光景であった。


 マルドゥークはもはや自身に抗う術がない事を悟ると、憎悪に燃える視線をイシルへと投げかけ、しかしその視線の強さは次第に和らいでいった。


 イシルの魔力が彼の魂魄に浸透し──…ほんのわずかな間、両者は精神世界を重ねた。


 マルドゥークの憎悪が別の何かで上書きされていく。

 彼は言葉を解するが、文学的な才能を有しているわけではない。

 だからその何かが何なのかが分からなかった。


 薄れゆく意識の中、マルドゥークはこの温かい感情は一体何のなのかと考え続け、最後にイシルに目を遣り。


 光の泡となって空へ消えていった。



 ■


 この日、南域に広がる大森林はエルフェンの王国ごと消滅した。

 黒霧が浸み込んだ土壌も消えてなくなり、大地は荒れに荒れ、南域はいつしか砂漠となった。


 南域は呪われた地と人は言う。

 力のある王国が2度も滅びた地域だからだ。


 エルフェンの王国を滅ぼしたのは荒野の魔王マルドゥークと呼ばれる邪悪な存在だとされている。

 魔王マルドゥークは極々短期間でエルフェンの王国を滅ぼし、ひいては南域に破滅的な齎す。


 だがその暴虐も長くは続かなかった。

 エルフェンの王女が魔王に立ち向かい、かの魔王を滅ぼした。


 戦いに勝利したエルフェンの王女は王国の生き残りを率い、東へ向けて旅立ったという。

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白獅子とエルフの姫君 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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