白獅子とエルフの姫君

埴輪庭(はにわば)

第1話

 ■


 ──南域


 かつては緑豊かな楽園であったこの大森林は病的な変貌を遂げていた。鮮やかな葉は黒く変色し、華やかな花は死の臭いを放つ怪しげな花に、耳を楽しませる鳥のさえずりは苦悩する霊の叫び声に取って代わられている。


 森の中心部には息苦しいほどの瘴気がたちこめていた。

 瘴気とは大気中に高濃度の魔力が混入したものを言う。

 魔力そのものに有毒性は無いものの、その魔力には強い害意が込められており、生物にとっては有害だ。


 そんな魔界とも言うべき場所で、かつての白獅子とエルフェンの王女が対峙していた。かつてのというのは、白獅子がもはや白獅子ではなくなってしまったからだ。威厳と神秘に溢れていた白獅子の毛並みは、怒りと憎悪にあてられたか、真っ黒に染まりきっていた。

 善も悪も等しく呑み込み、包み込んでくれる優しい黒ではない。

 光を窒息させるような闇色の黒だ。


 獅子の全身から禍々しい魔力が放射され、知性の輝きを宿していた双眼は今やどろりと濁っていた。


 まるでエルフの王女がその巨大な食欲を満たす最後の糧であるかのような視線に、イシルは目を伏せる。

 だがすぐにその目をあげ、厳しい視線で黒獅子を見据えた。


「ごめんなさい、マルドゥーク」


 ──שמש קטנה


 イシルは小さく呟いた。

 シムシュ・カタナ…それは彼女の種族の古い言葉で、小さな太陽を意味する。


 黒獅子の眼前に白く小さい光点がポゥと浮かび、やがてそれは周囲の大気を取り込み肥大化していく。

 膨れて、ふくれて、そして弾けて。

 光点は摂氏2,000℃にも及ぶ極熱と目を焼く程の強烈な光をまき散らし、魔神と化した黒獅子、マルドゥークに炸裂した。


 ■


 かつて南域には広大な古代王国が版図を広げていた。

 王国は栄華を極め、しかし盛者必衰の定めに従っていつしか滅びた。その跡地に新たな国を建てたのがエルフェンという種族である。彼等は魔力に優れ、また驚くべき事に寿命というものが存在しなかった。魔力とは自身の意思、願望を具現化する為の万能の力であり、これに優れているという事は生物として優れている事と同義であるといっても過言ではない。


 エルフェン達はその魔法によって荒廃したその地を緑あふれる大森林へと変貌させ、エルフェンをはじめ、多くの生物が大森林に集い、それぞれの命を全うしていた…。


 ・

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 ・


 とある時代、南域…大森林。

 そこには巨大な白獅子がいた。

 魔獣も魔獣、それどころではない。大魔獣である。

 魔獣とは魔力を自身の意思の下に扱えるようになった獣の事だ。 魔力とは自身の意思、願望、覚悟を具現する万能の力であり、例えば身体の能力を高めたいと願えばそのようになる。


 その大森林に住まう存在は当然獅子だけではない。

 大森林では様々な生物が各々の生態系を築いていたが、当時の大森林の覇者は白獅子でもそのほかの生物でもない。

 エルフェン達であった。


 エルフェン達は長命種として知られ、見目麗しく、さらには強大な魔力を有していた。完全無欠だったわけではない。

 彼らには一つ、致命的な欠陥が存在した…が、それはあくまで最終的に訪れる末路の一つであり、当時を生きるエルフェン達にとっては日々の生活こそが重要だった。


 ある日、エルフェンの国の姫が退屈な王宮暮らしに辟易し、ひそかに抜け出して森に出た。彼女は日々、一国の姫としての教育を受けねばならないが、時に煮詰まり、そういう時は王宮を抜け出して気分を転換するのだった。


 地水火風、あらゆるエレメントは彼女の友であり、また従者でもあった。エルフェンという魔力に優れた種族の中の、更に上澄みの、更にその上に彼女は立つ。


 エルフェンの姫君の名は"דמעות הירח נושפות משמי הלילה"(ithil-saer eithro vanima laurëa)

 と言い、これは現代の言葉に直せば“イシル”という。

 夜天より零れる月の涙という意味で、彼女はまるで月の光を束ねたかのような美しい髪を持つ女性だった。


 大森林には獅子の魔獣を初め、様々な危険な生物が生息していたが、エルフェン達がその気になればそれらの生物より遥かに危険に振る舞う事もできる。

 しかし、彼らは自分達の力をよく知っており、考えなしにそれを振り回せば周囲に甚大な被害を与える事も理解していた。

 要は理性的だったのだ。


 その理性が裏目に出た。


 ある日、いつもの様に王宮を抜け出したイシルは巨大な蛇の魔獣に襲われてしまう。イシルは魔力こそ膨大だが、戦闘経験などは皆無に等しい。この辺りはエルフェンの国を責める事はできないだろう、どこの国を見ても王女に戦闘経験を積ませる国というのはほぼほぼ無いといっても過言ではない。


 一応風の刃などを飛ばしてはみるものの、大蛇とて魔力を保有している。風の刃そのものは見えなくとも、どの方向から魔力が接近しているかくらいは分かるのだ。大蛇は長躯をうねらせて苦も無く風の刃をかわしてしまった。


 回避と飛びつき、そして締め付けが一呼吸の内に行われ、イシルはその身を蛇身に束縛されてしまう。


 もはやこれまでかと彼女が覚悟をした時。

 大蛇の長躯は二つに引き裂かれてしまう。


 イシルの視線の先には一匹の白獅子が居た。

 これが後に荒野の魔王マルドゥークと呼ばれる魔神と、彼を殺す事になるエルフの姫の最初の出会いであった。


 ■


 大蛇の死骸を喰らう白獅子の姿に、最初は恐れおののいていたイシルであったが、ちらりとこちらを見ただけで殺そうとしてこない白獅子にやがてイシルは興味を持った。


 確かに獲物に食らいつく姿は恐ろしくも感じる。

 しかし、僅かに交錯した白獅子の視線に、イシルは知性の光を見出した。


 イシルは逃げようともせずにまんじりと白獅子を眺めだす。

 大蛇の死骸を食いつくしてしまった白獅子はイシルを見つめ、その表情を僅かに顰め、おもむろにふいっと背を向ける。


 去っていこうとする白獅子。

 だがイシルは何を思ったか声をかけた。


「あ、あの!お礼がしたいから…また明日、会えるかしら…頂点の日座…ってわかる?えっと、太陽が真上にある時に!美味しいものを持っていきます!」


 イシルは自分でも馬鹿な事を言っているなと思うが、これは仕方がない。王族の矜持が命の礼もせずに恩人…恩獣を帰すわけにはいかないと喚いていたからだ。それにイシルはお転婆だが愚かではない。白獅子の目を見るだけで、かの存在が一定以上の知性を有している事を察していた。言葉を解する魔獣というのは珍しいが、存在しないわけではない。そのいずれもが恐ろしい災厄ともいうべき存在だが、イシルは不思議と白獅子からは恐怖を感じなかったのである。


 ちなみに、白獅子はイシルを助けたわけではない。

 美味だが、まともに殺りあえば苦戦を免れないであろう大蛇の魔獣が、食いでのなさそうなエルフェンの雌に巻きついていたものだからこれ幸いとばかりに殺してやっただけである。


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 白獅子がイシルに襲い掛からなかった理由は2つある。


 一つは既に腹が満ちていたという事。

 今一つは自分を恐れるでも厭うでもなく、礼を述べるその胆力を賞賛したからだ。


 特に二番目。

 白獅子は高い知性を有しており、仮に声帯が人のものであったなら会話すらもこなしただろう。


 次の日、イシルは頂点の日座…要するに正午に、大量の食料を持って白獅子と出会った場所へやってきた。

 周囲を見渡し、まるで何かを探しているようだ。


 白獅子はまるで阿呆を見る目でイシルを見た。もし彼が話せるなららば、“わざわざ食われにきたのか”と嘲笑交じりの声を掛けていただろう。美味しいものを持ってくると言っていたが、まさか自分の事だったとは、と。


 白獅子は暫くイシルの様子を見ていたが、姿を見せるつもりはなかった。この場所へ留まっているのは、先日仕留めた大蛇が番であることを期待しての事だ。番の大蛇ならば、伴侶を探しに周辺に現れるはず…大蛇は手ごわい相手だが、伴侶を殺され心を乱した状態で白獅子に勝つのは難しいだろう。だから決して、そう、決してエルフェンの小娘の甘言に釣られたわけではないのだ。

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