第18話 海の底で
ゴボゴボゴボ…と自らが海に沈む音がくぐもって耳から伝わってくる。
広央は必死に手足をバタつかせたが、余計に網がからみついてくる。
錘がやけに重たい。
頭上を見ると太陽の光が遠く見えた。
それもだんだん遠ざかって、次第に辺りが暗くなっていく。
闇と静寂の世界だ。
(…このまま死ぬのか)
広央は不思議と恐怖を感じなかった。やがて視界から光が消え、そのまま闇に包まれていく。
(あの世で父さんに会ったら確実にがっかりするだろうな。死に方まで不甲斐ない息子…姫はどうだ?姫は俺との再会に喜んでくれるのか?姫……)
あの気の強い目、俺の親友、共犯者、姫…
『これはお守りよ』
唐突に、広央の脳裏に姫との記憶の一場面が浮かんだ。
(そうだ…お守り!)
広央はポケットの中を探った。
「やっべえ、浮かんでこないっす。終わったっすね広央さん…」
海に向かってヨリが静かに合掌していた。
「ヒロ兄…」
和希はそれ以上言葉が出ない。
「拓海ぃ…俺人殺しちゃった…これって少年院行き?」
知広が震えながら言った。さすがに顔が青ざめている。
「知広!全部俺がやった事だから!絶対そう証言する!」
拓海が必死に知広を慰めている。
「てめえら、死んだ前提で話すんじゃねえ!」
ユキがそう怒鳴った時、猪狩隊の面々が叫び声をあげた。
「ぎゃあああ化け物おおお…」
見ると海草やら藻やらタコやらを纏った面妖な物体が、海から岸壁に上がってきた。
「…誰が化け物だ」
あらゆる粘着物を引っ剥がしながら、広央が答えた。
「ヒロ兄ー!無事でっ!」
「ヒロさん、良かったー!」
「ちゃんと生きてやがったか、ヒロ!」
「お兄さん!」
皆が安堵と歓喜の声を上げているその時、一人冷静に近づいてくる人物がいた。
腰まで伸ばした長い髪を揺らしながら、こちらに真っ直ぐ向かってくる。
イサだ。
「あ、あの子って…」
加奈美が思わずじっとイサの事を見つめた。漂白されたように白い肌と白い髪。色素の薄い目。オメガの典型的な容貌だ。
人口の約1割程度を占めるに過ぎないオメガの存在は、物珍しさゆえ好奇の的になり、蔑みの対象にもなっている。他の種別にない、ある特徴を持っているからだ。
それは
数カ月に一度の間隔で、ヒートと呼ばれる発情周期がくる。
思春期の頃に始まり、体から特殊な
このフェロモンはアルファに強烈な
一説には種として弱いオメガが、自分たちの種の保存のため強い種のアルファにのみ感知できるフェロモンを分泌するよう進化した、とも言われている。
「あ、イサちゃん。来たんだ!」
「チヒロ、吊るされた広央を見られるというからイサは来た。話が違う」
そう言うと、そのままつかつかと広央の方に近づいていった。
「ヒロオ」
何の感情もない声で、そう呼んだ。
「イサ…」
広央は驚いた。このイサは、山の上の総代エリアで引きこもった暮らしをしていて、街には降りてこず人とも関わらない。そして絶対に広央に話しかける事などしない。
“あの日”以来、イサは広央に対し心を閉ざした。それまであった二人の絆は、完全に断ち切られて今に至る。
(話しかけてくれるのは、ずいぶん久しぶりだ…もしかしたら、逃亡やら何やらゴタゴタに巻き込まれた俺の事を心配して、わざわざ山から降りてきてくれたんだろうか。そうなのか?イサ…)
広央の目が潤みかけた。
歩み寄るイサの姿を、周りのギャラリーも息を詰めて見守った。
そして…
バチーン
高い音が辺りに響き渡った。
バチーンバチーンバチーーン
イサが容赦なく広央に往復ビンタをかました。
「ふん、逃げろ。どこまでも逃げろ。クズめ。」
そう吐き捨てるように言うと、イサは鼻血を出して倒れた広央には目もくれず、スタスタと山の方へ帰っていった。
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