冬融け
湊
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幼馴染からの着信で目を覚ました。
電源を入れたままの炬燵、その上に転がる酒、酒、酒。鼻をつく吸い殻たち、食いかけのあたりめ、そして汁の残ったカップラーメン。人生の不純物に囲まれていた僕は、ぐわんと痛む頭を押さえて電話に出た。
「もしもし?」
「久しぶり。元気してた?」
「なんの用だよ」
起きたばかりのテンションが、怒っているように聞こえたのか、幼馴染――蓮代はごめん、と謝ってきた。
「死のうと思うんだ、今日」
「へえ」
「もしよければ、見届けてくれない?」
やだ、面倒。そう言いたかったが、喉の辺りで抑えた。
「なんかあったのか」
「色々ね。で、どう?」
「少し待ってくれ。折り返す」
一方的に電話を切った。酒による頭痛が辛かったのだ。
よろめきつつも炬燵から出て台所へ行き、水を汲んで一杯飲む。口の中の不浄が一気に洗い流されて、とても気持ちいい。
十秒くらいぼーっとしたのち、蓮代に電話をかけ直した。
「飛び込むのか?」
「飛び降りる」
「人様に迷惑かけんなよ」
「うん」
彼女の声に感情はなかった。機械よりも冷たくて淡々としていた。
「橋にいるから」
それだけ伝えると、今度は蓮代が一方的に電話を切った。
そうして静かになった世界では、締めの甘かった蛇口から零れる水滴が、ぽんぽんとシンクを打っている。
僕は夢うつつだった。橋とはきっと、ここからそう遠くない場所に架かっている小さな橋のことだ。子供の頃よく川に飛び込んで遊んだから覚えている。
しかし行ってどうする。止める権利は無いとはいえ本当に見届けるのか。腐っても幼馴染だ。しばらく会ってなくてもあいつが死ぬのを間近で見るのは良い気分じゃない。最悪だ。
行っても死ぬ、行かなくても死ぬ。どのみち結果に変わりはないけれど、自らのメンタルを労わるのならば、このままベッドで寝直した方が賢くて幸せだろう。
そんなことを考えながら、僕は出発の支度を済ました。
外は細雪だった。寒かった。でも吐息の白さが美しかった。道路に積もった雪の上にかすかな足跡や轍が残されていた。
ふと、歩いているうちに頭痛が治まってゆくのを悟った。冷気が酒気を融かしてくれたのだ。うんとおかしな表現だが、甚くこれが気に入ったので、スマホのメモ帳に書いておいた。
「ああ」
わけもなく溜息をつく。
蓮代と何を話そうか、なんて言って送ってやるべきか、警察へは黙っていようか。まもなく直面するであろう数々の問題に、僕は悩まされた。果たして、ある転機や変化を見物するかのごとく、ひとりぼっちの野次馬になった心持ちでいることに決めた。
それより気になったのは、雨は不快で雪は綺麗と思う僕の人間心理だった。雨も雪も濡れるし冷たい。空から降ってくるし、元は両方とも氷の結晶だ。
それなのに雨が嫌いなのは、たぶん、雪よりも見る機会が多いからだ。降る割合がもしも逆だったなら、雪を鬱陶しく感じるし、雨が好きになるはずだ。
それならば、幼馴染の死という、希少も希少な事柄に向かっているのは、単なる好奇心のせいなのか。すると僕は、自分が思うよりも、最低な奴なのかもしれない。
住宅地の角を折れると小川があり、そこに小さな石橋が架かっていた。橋の上にはコートを羽織った長い髪の女もいた。こちらに気付いて手を振ってくれたので、僕も振り返した。
「ごめん。急で」
また謝まった蓮代の顔は、痩せこけ、端正だった面影は消え、やつれていた。
「いいよ別に」
言って、欄干に積もった雪を払い除け、腕を乗せた。煙草を吸おうとジャケットのポケットをまさぐったが、無い。そうか、昨晩で全部切らしたんだった。
「まあ、なんだ。変わったな、お互いに」
「私は君のこと一目で分かったよ。髭がすごいけど、相変わらず格好いいもん」
「そらどうも」
昔、蓮代に告白されたことがあった。幼馴染である手前、姉あるいは妹としての感覚が強く、断ってしまったが、彼女が泣いたのを目にしたのは、この時が初めてだった。
「君、お酒臭いね」
「酒に頼った方が楽に生きられるんだ」
「そうなんだ。私は飲まなかったから、よく分からないな」
確かに、蓮代が飲酒している姿を、僕は想像できない。子供の頃も、水かお茶しか飲んでいなかったし、炭酸に関してはそも喉が受け付けなかったはずだ。
「分からなくていい。酒に頼らないと楽に生きられないのは虚しいんだ」
「虚しくなんかないよ。生きられる方法があるんだもん」
一呼吸置き、そうかもな、と僕は呟く。
「最後に会ったのはいつだ?」
「十年前、かな」
「そんなにか」
高校二年生の秋に、蓮代は父親の仕事の都合で遠くへ引っ越した。突然の別れに悲しむ暇もなく、見送ることも叶わず、時が経つにつれて連絡を取る回数も少なくなり、やがて幼馴染は他人へと成り下がってしまった。
「お前、死ぬために帰って来たのか?」
「半分正解。もう半分は君に会いたかったから」
「俺に」
俺? と蓮代は首を傾げる。
十年ぶりの再会が、別れの挨拶とは、笑えない冗談だ。
「君なら止めてくれるかなって」
「そんな権利はねぇよ」
「そっか。だよね」
誰かを死の欲求から救い出せるほど、優れた人間ではないと自覚している。
それでも、こんな僕でも彼女にしてやれることが、ひとつだけある。
「話なら聞いてやる。いくらでも」
「いいの?」
「元々そのつもりで来た」
「ありがと。ごめん」
三回目の謝罪だ。謝られるたびに何故だか苛立ち、もやっとする。
「寒いし、俺ん家来いよ」
「でも」
「親はいない。とっくに死んだよ」
それを聞いて、蓮代は言葉を失ってしまっ。たぶん、初耳だったのだろう。
父子家庭だった彼女は、僕の両親に実の娘も同然に可愛がられていたから、その気持ちは容易に推し量れる。
「とにかく、大丈夫だ」
答えを待たずして蓮代の手を取った。
かくして帰路に着いたが会話は起こらず、雪に混じって吹く風や、遠くを走る車のエンジン音だけが、白い世界に存在し、僕はそれらに耳を傾けた。
僕の家は、二階建てのボロアパートの一室だ。ずっと両親とここで暮らしてきた。蓮代の家はその隣の平屋だったが、今や売地となって久しい。呪われているかのように、いつまで経っても買い手がつかないのだ。
アパートに到着すると、やはりというか、蓮代は売地と化した我が家の跡地を、物憂げな瞳で眺めていた。
「はす」
十年前の渾名で彼女を呼ぶ。
「懐かしいね、それ」
僕の渾名も言ってくれるかと思ったが、微笑を返してきたのみで、その笑みすらも不器用に歪んでいた。
「ちょっと安心したかも」
「安心?」
「うち、売られてなくて」
「そうか」
僕は軽く頷き、先に行ってるぞ、と伝えてアパートの階段を上った。今はそっとしておいた方が良さそうだ。
扉を開け、鍵をかけ忘れていたことに気づき、改めて我が家の散らかりようを認識し、片付けるべきだと思いはしたが、それもなんだか面倒になって、結局は冷蔵庫からビールを取って飲んで待った。
なんの努力も苦労もせずに流し込むビールほど美味いものはない。無駄に命をすり減らしてるというのに、むしろそれが快楽に繋がって、良い。アルコールで脳を洗うのは、ある種のオーバードーズだ。
一缶目をペキッっと潰した頃になって、ようやく蓮代がやってきた。コートに雪が付いたままだったが、どうでもよかった。
「随分遅かったな」
「黄昏てた」
脱ぎっぱなしの衣服やら、読みかけの本やら、コードやらテッシュやらが散乱する床を踏み進み、蓮代は炬燵に入ってくる。
「君も色々限界だね」
「野郎の一人暮らしはだいたいこうなる」
「彼氏は綺麗好きたったよ」
「お前に彼氏が?」
素直に驚いた。あるいは嫉妬が芽生えた。彼女からの告白を断った癖に。
「もういないけどね」
「死んだ?」
「まさか。普通に別れた」
それを聞けて、僕は惨めにも胸をなでおろしてしまった。
「どんな奴だ。教えろよ」
「君以下の顔面で、君以上の人間」
「なんだそりゃ」
そう吐き捨てて、僕は二本目のビールを取りに行った。
「はすも飲むか?」
「うん、最後に飲んでみたい」
「酒を?」
「うん」
素晴らしい試みだと褒めてやりたい。酒を飲まずして死ぬのは、それはそれはつまらない人生だろう。
「酔えるやつがいいな」
「酔えるやつねぇ」
気軽に酔えるなら日本酒が好ましいが生憎冷庫の中には缶ビールしかない。こんなことなら薄汚いジジイがこよなく愛す、パック酒でも買っておくべきだった。
「ほれ」
仕方なく僕はビールを持って炬燵に戻り、冷えたそれを手渡した。
「開け方分かるか?」
「馬鹿にしてる?」
言って、蓮代は細い指でプルトップを引っ張った。すると、冷え過ぎていたからか、泡が勢いよく吹き出してしまい、彼女の手を伝ってテーブルに流れ落ちた。
「あーあ」
「気にすんな、飲め」
「ん」
僕の言葉に従って、蓮代はビール処女を捨てた。命を減らす琥珀色の液体が、彼女の喉をごくりと震わせる。
「どうだ?」
「無理」
予想通りの感想だった。苦くて臭い炭酸なんて、飲めるはずがない。
「それでいい」
僕は蓮世からビールを受け取ろうと手を伸ばした。が、彼女はそれを拒み、二口目を喉に流し込んだ。
「おい」
止まらない。止まろうとしない。止まることなく飲んでいる。喘ぐような呻くような弱々しい声が、飲みきれなかったビールと一緒に口の端から零れている。
僕は止めずに静観した。
そして蓮代は、咳き込みながら、ついに一缶飲み干したのだった。
「おぇ」
「気分は最高か?」
「ふわふわする」
蓮代の顔は、茹だったように赤みを帯びていた。元々青白かったこともあり、冬の寒さも添えて、酩酊寸前に見えた。あるいは生を取り戻したのかもしれなかった。
「これ、酔ってる?」
「かなり」
「こんな感じなんだ」
とみに蓮代は炬燵から出ると、両の手を広げ、くるりと回ってみせて、自由の効かない体を堪能し始めた。
「しっかり立ってられないや」
ゴミ山でふらつく彼女の姿は、路地裏で踊る貧しき少女のようで、美しくも儚い、汚れてしまったダイヤモンドであった。
それを肴に、僕はビールを飲む。
「永遠に酔ってられたらな」
「同感だ」
「死んでも酔ってたい」
「ああ」
ふと、こんな考えが浮かんだ。
人間はみんな死んでいて、それなのに酔ってるから、生きてるって錯覚しているのかもしれない。死にたくなるのは、酔いが覚めつつある証拠であり、なんらおかしくない、必然の願望なのだ。
「もっと早くお酒飲んでれば良かった」
「なんで飲まなかったんだ?」
「体に悪いから駄目だって彼氏が」
「正気か?」
そんなつまらない男だったとは。
今この場にそいつが居たのなら、僕は迷いなく殴りかかっていたことだろう。たとえ常識的に正しいのは向こうでも、正論には暴力で戦うに限る。
「彼がここに来たら卒倒するかもね」
僕が何かを言い返す前に、でも、と蓮代は言葉を紡いだ。
「いい人だったよ、ほんとに」
僕は黙り続けた。どうも惚気話をしたがっている様子ではなかったからだ。
「私ね、ぜんぜん駄目だったの。仕事も家事もろくに出来なくて、謝ってばっかりで、どうしようもない彼女だったの」
僕はビールを飲みつつ相槌を打つ。
「絶対迷惑だし負担になってるのに、あの人は文句を言わずに慰めてくれて」
繰り返し相槌を打つ。しかし蓮代はすぐに二の句を継がず、背を向けた。
「……うん」
腹を決めたように呟くと、蓮代はゴミ山の上にゆっくりと倒れ、仰向けになった。
「優しすぎて、嫌になった。そうなっちゃった私も嫌いになった」
「で、別れたと」
返事はなかったが、たぶんそういうことなのだろう。
「そりゃなんとも救えないな」
「私が?」
「どっちも」
生まれてこのかた彼女など作ったことがない手前、愛の行く末をすべて知っているわけじゃないが、第三者として今の話は、絶望的なまでに相性の悪い、初めから終わっていた関係だったとしか解釈の仕様がない。
「だよね」
自嘲気味に蓮代は笑う。
「友達の頃は楽しかったんだけどなぁ」
「そんなもんだろ。俺たちも子供の頃はもっと大丈夫だったし」
薄暗い部屋の中、窓の外の雪を眺め、ぼんやりと思考を巡らせる。
歳を重ね、大人になり、社会構造の一部となる、虚しくも不可避の運命に、人は嘆くことしか出来ない。
何も知らなければ良かったと、果たして何度思ったことか。無知で幼気でまっさらで、そうであっても生きられたら、どんなに素晴らしいことか。
永遠に酔っていられれば幸せなのに。
「なあ」
「ん?」
「死ぬのか?」
「死にたい。君といると、まだいいやってなっちゃいそう」
「そんな奴に死を見届けてくれだなんて、おかしな話だな」
「だって。分かってよ」
語尾に小さな「ぅ」が付きそうなトーンだった。しかし主語の抜けた台詞に理解を求められても困る。
「君はこの十年間何してたの?」
「生産性のない日々を送ってた」
過去の話題を振られ、真っ先に浮かんだのは、思い返したくもない記憶だ。
でも彼女になら、明かしてもいい。
「夢を追いかけてたんだ」
「どんな夢?」
「作家」
言った。誰にも言わなかったことを、こうもすんなりと言えた。なのに蓮代の反応は、へぇ、と凡な二文字だった。
「本出せたの?」
「出せてたらこんな惨めになってない」
知ってか知らずか、いずれにせよ無神経な蓮代の問いに、情けなくも苛立ちを覚えてしまった。
「十年も書いてたのに」
「向いてないって気づくのが遅過ぎた」
「可哀想」
「向き不向きはどうしようもないさ」
「君じゃなくてキャラが」
「キャラが?」
蓮代はゴミ山から体を起こした。顔のほてりは未だ健在だった。
「作家ってさ、キャラの生みの親だよね。キャラたちの人生を決めれる権利があるのも、君だよね」
「そうだな」
なんとなく、彼女の言いたいことが分かった気がした。
「向いてないから書くのやめたって、君の都合じゃん。君の都合でキャラの人生終わらせちゃってるじゃん」
「その通りだな」
「君、自分で自分のキャラ殺したんだよ」
清流のごとく淀みない正論だ。どう捉えたって正しい論理だ。
そうだ、僕は僕の子らを殺したのだ。小説に限らず創作物というジャンルに於いて、挫折し諦めるとは、そういうことなのだ。
「可哀想だよ、それ」
蓮代の声が震えている。酒のせいで感受性が豊かになっているのだろうか。
「なんで無理になったの。きっかけは?」
「さあな」
忘れてしまった。大したことない擦り傷から血が出てくるように、緩やかに諦めたのだけは覚えている。
「賞に落ちるのが当り前になった頃か。義務感で書いてた頃か。作家になりたいと思ってしまった瞬間か」
「向いてないのに、夢見ちゃったんだ」
僕は頷いた。認めざるを得ない現実だ。
「分かってたさ、初めの数年で既に。でも、やめたら生きる目的が無くなって、なんも残らないんだ」
「君も死にたかった?」
「消えたかった。藻屑のようにたゆたって、煙のようにふっと」
ああ、そうなってくれれば良かったのに。
ひたすらに祈り、切望し、叶わず時が経ち、親は死んで懐は寂しい。夢が途絶え、虚しさばかりが募るのなら、僕は羽虫でいいから、いっそ叩き潰してくれ。
「君さ」
「なんだよ」
「泣いてるよ」
え、と呟き、下瞼を触る。指が濡れた。泣いていた。
「なん、は、なんで」
「相当溜め込んでたでしょ」
その一言で、更に涙が流れてくる。唇も痙攣し始めた。
「十年も費やしてこれじゃあね」
ゴミまみれの部屋が視界に移る。
憐れむな、優しくするな、と言いたいが、まともに喋れない。
「よく生きてたと思う」
蓮代が四つん這いになってこちらに近づいてくる。僕は鼻水を啜り、必死に手で涙を拭った。弱くて、恥ずかしくて、今こそ早急に消えたい。
「偉いえらい」
素晴らしき子供時代、楽しかった昔にされたように、頭を撫でられた。年上の手は、変わり果てた幼馴染の手のひらは、ほんのりと温かくて、心臓が締め付けられた。
「く、う、うぅ……」
僕は我慢ならず蓮代の胸で泣いた。抱きしめるように腕を巻き、体の芯から十年分の感情を掬い出して、ひたすらに泣いた。
理不尽で無慈悲な日常が、嗚咽とともに吐かれていく。
「あ、あぁ……」
泣く。こんなにも簡単に、苦しみから解放されるのなら、それが気休めなのだとしても、ちょっと楽になれるのなら、どうしてやらなかったのだろう。
作家になりたいという、多難で低率な夢は追いかけれたのに、どうして自分を労わらなかったんだ。
どうして僕は、我慢して、一人で勝手に苦しんでしまったんだ。
分からない、分かりたくない、分かってはいけない。誰かに頼り、何かに縋るべきだったなんて絶対に、認めちゃいけない。
でもたぶん、いやきっと、そうなんだ。人間はみんな孤独だけど、一人じゃ生きられない、矛盾を抱えた生き物なんだ。
酒だって同じだ。一人で飲むよりも、大勢で飲んだ方が酔える。
「ごめん……ごめん……ごめん……」
「誰に謝ってるのさ」
僕だ、僕自身だ。
ようやく、蓮代が頻繁に謝っていたわけを理解できた。あいつは僕じゃなくて駄目な自分に対し、ごめん、と言っていたんだ。
「僕は……なんのために……」
「やっと僕呼びに戻ったね。そっちの方が合ってるよ」
涙と鼻水に濡れて不快なはずなのに、蓮代はまた僕の頭を撫でてくれた。
「作家、もっかい目指せば? 遅咲きでも徒花でも咲きはするよ」
「徒花じゃなくて、落花がいい」
確かに、と蓮代は笑った。僕も涙が収まってきたので、彼女の胸から顔を離した。
「酷い顔」
「すっきりした」
「書けそう?」
「一作は」
実際、それが限界だった。泣いたところで作家になれるでもなし、むしろ現実から遠ざかったせいで、あるいは落選すれば、その反動は過去最大級になるだろう。
ひょっとしたら書いている途中でやってくるかもしれない。いや、そう考えてしまう今がそうなのかもしれない。
しかしだ、その警戒心こそが、燻る創作意欲なのだ。
「だからさ、はす」
「ん?」
「これが完成するまでは、生きてくれよ」
他人の死を、人生を、変える権利は持っていない。かつて蓮代にそう言い放った僕は傲慢にも頭を下げた。
「君……」
そして、呆れるほど身勝手な男に告げられたのは、こんな答えだった。
「いいかもね」
曖昧で、諸手を挙げて喜べない。が、拒絶されるよりかはマシだ。
「死なせたくないからって、完成を先延ばしにしちゃ駄目だよ」
「いつ完成するかは分からない」
「うん。いいよ」
蓮代はまったく笑っていない。怒ってもいない。憂いてもいない。無心とはまた違って透き通るように不鮮明だ。
そんな彼女に僕は一抹の不安を抱いた。
「じゃ、そろそろ行くね」
「うちにいても、いいんだぞ」
「平気。お金はある」
蓮代はスッと立ち上がった。
「金って、足りるのか」
「大丈夫だって」
そう言って走早に玄関へ向かう彼女を、僕は慌てて追いかける。
「はす。お前、まさか」
「まさかって何さ」
「違うよな?」
意味は伝えない、伝えたらいけない。
「平気だって。なんかちょっと、無理になりそうなだけだから」
「はす!」
「君も頑張ってね」
彼女は雪の中に駆けて行った。
足跡残して去りゆく背中を、僕は見届けることしか出来なかった。
〈了〉
冬融け 湊 @Hokora
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