第46話 罪悪

「浅野麻友さん」


 しゅうちゃんが呼んだその名を聞いて、カップを落としたのは、お母さんだった。

 柊ちゃんは、無言で自分の飲んでいるコーヒーのカップをソーサーの上に置いてから、倒れてしまったお母さんのカップをソーサーに置き直した。お母さんは、もうコーヒーを飲み終わっていたので、テーブルにこぼれるものはなかった。


 浅野麻友。

 そして、その名を呼んだ柊ちゃんの視線は、




しっかりとおばちゃんの方を向いていた。





 おばちゃんは、おばちゃんで、じっと柊ちゃんを見詰め返す。

 柊ちゃんは、おばちゃんを見ながら、言葉を継いだ。


「……幸せになった筈のその人が、離婚して子供を連れて実家に戻っていたことを、偶然知ったあなたは」


 ちょっと待って、柊ちゃん!?

 浅野麻友って、何、何言ってんの?それを教えて欲しいのに、柊ちゃんは何事もなかったように話を続ける。

 わたしはおばちゃんと柊ちゃんをキョロキョロと見比べるしかない。お母さんはコーヒーカップに目を落としてる。



麻友あなたは、自分のせいで、相手が不幸せになったのかと悩み」


「銀行員を辞めて、使い道のないまま貯めていた貯金を全部はたいて」


 柊ちゃんは、おばちゃんに向けていた目をそばめた。


「ここに喫茶店を開いて、子育てを手伝ってきた」


「そうですよね」


「浅野、麻友、さん」





「えええええええええええ!?」

 わたしの奇声で、緊張しまくっていたその場の雰囲気が粉砕された。でも、でも、だって。え?


「え、どゆこと?おばちゃんが麻友なの?」


 おばちゃん、


 ……はたと気付けば、わたし、おばちゃんのこと、何も知らない。本名も年も出身も何もかも知らない。親戚だからわたしと同じ苗字なんだろうなあ、とか適当に思ってた程度だ。ずっと一緒にいてくれた、あまりにも近しい存在だから、細かい情報なんて要らなかった。

 髪型も昔から男みたいなベリーショートで、それも今ではシルバーグレーだし。ずっと濃い色眼鏡を掛けてるし。

 麻友とは、似ても似つかな……


 ……や、似てる。


 改めておばちゃんの顔をじっくりと見る。見慣れているおばちゃんじゃなくて、麻友として見る。

 若い頃の麻友の顔を散々見てきた今なら分かる。

 おばちゃんは、麻友だ。30年後の麻友だ。



「柊ちゃん、探偵でも雇った? わざわざ私の過去を調べるなんて、何のため?」

 おばちゃんの声が低い。怒ってる時の声だ。怖い。

「調べてはいません。言いましたよ。私は、昔のあなたの中にいたんです。あなたに何が起きたのか一緒に見て聞いて、あなたがそれをどう感じていたかを知ってしまっただけです。何を思っていたのかまでは存じませんが」

 

 おばちゃんも柊ちゃんも、口角が上がっていて笑顔に見えるけれど、目が全然笑ってない。ギンギンに睨み合ってる。ヤバい。


「つまり、やはりあなたが麻友さんですね」


「そんなに親しげに名前を呼ばれるのは、久しぶり」

 おばちゃんの声から尖りが消えた。

「麻友さんは、知らないでしょうけれど、私にとっては、あなたはずっと親友でした」

 そう言った柊ちゃんの落ち着いた顔を見て、おばちゃんはやれやれと言うように肩をすくめた。

 でも、それ分かる。わたしも自分が美帆の親友みたいに思ってた。


「仕事を辞めたのは、美帆と透子を助けるためだけど、喫茶店を開いたのは、別に二人のためじゃなくて」

「中学校時代からの密かな夢でしたよね」

 おばちゃんが固まる。

「やれやれ、柊ちゃんは透子にも話してなかったことを知ってるんだ」

「ずっと麻友の中で麻友を応援してましたから」

「……気持ち悪い。信じたくないけど、本当に私の中にいたって気がしてきた」

「いたんですよ。麻友あなたの中に」

 おばちゃんは柊ちゃんに胡乱げな目を向け、そして、納得できないというようにコーヒーを飲んだ。冷めてしまっていたコーヒーが不味かったのか、口元に皺がよる。

 その皺が、かすかに笑い皺になる。


「で、柊ちゃんは、私と美帆のことをわけ?」

 おばちゃんがそう言うと、お母さんがむせた。

 どこまでって、それは。

 柊ちゃんは、そのおばちゃんの質問にちょっと悪い笑顔だけを見せた。ああ、これはしっかり見てたんだろうし、感じてたんだろうなあ。

「答えなくていいから」

 おばちゃんは、そう言って苦笑いした。


 おばちゃんのそんな笑顔を確認すると、柊ちゃんはわたしを振り返って、格好良く、悪い笑顔を見せてから、また、お母さんとおばちゃんを見やった。


「あなたがたは、約20年間、お二人で透子を育ててくださいました。

 透子は多少生意気だったり鈍かったり能天気だったりもしますが、私の大好きな透子を育ててくださって、私は感謝しています」

 柊ちゃんは軽く頭を下げる。ちょっと待て、今、わたし、さりげにディスられた気がするんだけど。



「……そして、どうか、あなたたちが透子から父親を奪ったという罪悪感をもう忘れてください」



 お母さんとおばちゃんが目を見開いた。

 や、図星って表情だよね、それ。

「そんな罪悪感なんて、わたし知らない。……そんなの要らなかったよ」

 思わず、わたしが口を挟む。

「それはそう。だって、二人ともお父さんがいない分、透子を守ってくれてたんだもの」

 お父さんがいないことなんて、全然気にしたことなかったのに。

 ……や、気にしないようにしてくれてたってこと?胸がグッと締め付けられる。


 ふいに、体がぐらっと揺れる。柊ちゃんがわたしの肩をギュッと抱き寄せたからだ。初めての学祭実行委員会で柊ちゃんがわたしをナンパした時みたいに。


麻友と美帆あなたがたが透子を愛してきた分、いいえ、それ以上に私が透子を愛しますから、ここから先はどうかご心配なく」


「しゅ、柊ちゃん!」

 なんか、無茶苦茶嬉しい言葉が耳に飛び込んできたんだけど。

「ね、透子、私と一緒に暮らす気になったでしょ。美帆は、あなたのお母さんは、ずっと一人じゃなかった。だから、大丈夫」

 そう言って、お母さんたちの前で、柊ちゃんはわたしに熱烈な口付けを落としてきやがった……!

 人前ではやめてって言ったのに。

 しかも、親の前で。

 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!



 ……や、わたしも、目の前の美帆と麻友のキス、何度も見たっけ。じゃ、お互い様ってこと?


 なんて、ちょっと面白くなった瞬間、世界が暗転した。

 

 えええ、それ、もう終わったんじゃないの?








◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇

いつもお読みくださってありがとうございます。

あと残り3話です。よろしければ最後までお付き合いください。


うびぞお

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