第31話 背中

 急に意識が跳んだ。


 また、美帆の中で気が付くと、昼間の街角のハンバーガーショップじゃなくて、すっかり夜になっていた。美帆は自分の下宿から、麻友の下宿に向かって歩いているところだ。

 どれくらい時間が経ったんだろう。


 急に跳んだ理由は分かる。

 下原先輩に思いを伝えている美帆をもう見たくなかったからだ。

 

 あの時、美帆が下原先輩に伝えていたことは嘘なんかじゃない。でも、あれは、多分、麻友に出会う前の気持ちなんじゃないかと思う。

美帆も言いながら、自分の本当の気持ちが違うことに気付いていた。膝が震えていたからだ。


 麻友の下宿が近付くにつれて、美帆の中の後悔や申し訳なさが増していく。こんな気分になるんだったら、麻友のところに来なければいいのに。

 美帆は、麻友といると下原先輩に会わなければならないと思い、下原先輩と会っていると麻友に会いたくなるらしい。

 そんなの、つらいに決まってる。

 でも、美帆は二人のどちらも失いたくないでいるんだろう。


 美帆が麻友の部屋の扉をノックすると、美帆?と扉の向こうで声がする。足音やノックの仕方で麻友は美帆の訪問を悟ることができるんだろう。

 ドアを開けた麻友が美帆を見て、少し首を傾けてから、大きくドアを開いて美帆を招き入れる。

「今日は、来ないと思ってたのに」

「ごめんね」

「何かあった?先輩と」


 美帆は何も言わずに首を振る。その沈黙から、麻友は何かを読み取ったのか、ふっとため息をつく。

「明日、私、1限ないからゆっくりしてきな」

 美帆は頷いたけれど、靴を脱ぐことができず、そのまま爪先を見ている。小さな土間には麻友の普段履きのローファーとサンダルが置いてあって、美帆の視界に収まっている。

 靴を脱げないでいる美帆の手を麻友が引く。

「いいから、上がんなよ。紅茶淹れるから」


 会話らしい会話もなく、二人でぼんやりと過ごしていた。

 美帆が、ごめんね、と謝ると、別にいいよ、と麻友が答えた。

 静かな時間だった。

 美帆は、まだ後悔を抱えていたけれど、徐々に落ち着いていく。しかし、その雰囲気を麻友がグシャリと壊した。


「美帆、私、2月には引っ越すから」


 その声に美帆がぴくりと震える。

 麻友の学部のキャンパスは少し離れた街にある。同じ県内だし、電車でも1時間半くらいらしい。でも、今みたいに二人一緒にはいられなくなる。

「学部の4年の先輩が出る部屋を、私が借りるって話が決まったんだ」


「なんで? わたしが一緒に下宿探す、って言ったのに」

「うん、ごめんね」


「わたし、遊びに行っていい?」



「だめ」



 麻友の静かな拒絶が、美帆の胸にグサリと刺さったのを感じた。

 美帆は、そんな麻友の拒絶に逆らおうと、何かを言い掛けて、諦めてやめた。

 横坐りから足を伸ばして、腿の上に組んだ両手を置いた。このポーズからすると、美帆は座ったまま項垂れているみたいだ。


 下原先輩と近付いた分、麻友が離れてく。

 そんな気がして寂しくなった。



 夜になって、狭いスペースに重ねるように布団を敷いて、並んで横になった。

 美帆が寝付けないでいるので、わたしの意識も跳ばないでとどまっている。隣の麻友の睡眠を邪魔しないように。静かに。

 美帆の視界で、枕の隣に置いた腕時計が1時を指していた。


 でも、眠れないのは麻友も同じだったみたいだ。


 美帆の背中に麻友が体を付けて、後ろから抱えてきた。

 美帆の背中が熱くなった。


「ごめんね」


 麻友が囁く。


「私、キャンパスが変わっても美帆のそばにいたいけど、私がいない方がいい。その方が美帆は普通の女の子でいられる。普通に異性の恋人がいる普通の女の子」

 美帆が体を固くした。わたしも体があれば同じような反応をしたと思う。

「そういう女の子に戻って」

 麻友の声が震えた。



「……わたし、男だったら良かった」

 夜の中、胸の前にある麻友の手を握りしめて美帆が呟いた。

「そしたら、ぽんすけみたいになって、先輩たちに可愛がられて、それから、麻友に告白して付き合ってもらう」

「やだよ、美帆がぽんすけだったら、私、即振るから」

 麻友がくすっと笑うと、美帆の肩から少し力が抜けた。


 美帆の背中に麻友が額を擦り付ける感触がした。

「美帆、もう少し、そばにいさせて。お願い」

「……少しじゃなくて、もっとずっとそばにいて」


「それは」

 麻友の指が美帆の腕に縋り付くように食い込む。

「ダメだよ、美帆」



 美帆の喉から、抑えた嗚咽が漏れた。


 美帆の選択肢は、最初から下原先輩しかなかったことを、わたしは悟った。

 


 そして、重いもので潰されたように胸が痛くなる。

 

 お母さん、お母さん、お母さんは、わたしのことを望んで産んだの? お父さんより、こんなに好きな人がいたのに。



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