第9話 電話
わたしはなぜか若い頃のお母さんの中に意識があるみたいだった。
こんなの、どうしていいか分からない。
できるのは、お母さんの中から、お母さんの視点でその生活を眺めることだけ。不安になってもどうなるものでもないので、若いお母さんの中でただ見ている。できることというか、母に与える影響はほとんどない。わたしが感情的になると、少しだけ母の気持ちも揺れるくらい。でも、その程度。ほんのちょっとだ。
わたしの意識が途切れることもあるので、24時間ずっとではなくて、時々時間がとんでいるみたいに感じられる。跳ぶ時間に法則性は特にないみたい。
それこそ、お風呂やトイレまで覗き見したくはないので、嫌だな、見たくないと感じたところは目を瞑るような感覚で時間がとぶ。あとは、講義中。今更、大学の講義なんて聞いていられない。そのせいで講義中もよく時間が跳んでいるが、これはどうも母が講義中に居眠りをしてるせいでもあるようだ。
柊ちゃんに会いたい。触れたい。
一緒にDVDを見ていた柊ちゃんはどうなったんだろう?
母がカレンダーを見て、今日らしい日を指で触ったので、今日が何年何月が分かった。計算すると、どうやら、母は大学2年の春先を過ごしてる。
驚くくらい、母は普通の女子大生だった。不真面目じゃないけど、そんなに真面目でもない。
宿題が出ると、本気で嫌がっていて不快に思っていることが伝わってくるし、同級生と話している時とか、好きな音楽を聴いている時とかは、楽しいと感じることができる。学習塾の採点アルバイトは面倒くさがってるのが伝わってくる。
わたしと同じだった。
勉強とバイトは面倒臭い。でも大学は何となく楽しい。そんな感じだ。
水曜日と土曜日は講義が午前中で終わるので、午後はサークルがある。お母さんは、思いの外、サークル活動を楽しんでいる。サークルのある日は午前中から少し浮ついているのが伝わってくる。
それはそうだ。
だって、サークルには、初めての恋人らしい恋人がいる。
お父さんとは、1年の終わり頃から付き合い始めたらしい。お父さんは1年上の3年生だった。
若い頃のお父さん、割と格好良くて驚いた。
「岡部さーん、お電話です」
「はーい、ありがとうございまーす」
共用電話の呼び出し!!
柊ちゃん、80年代の大学生って携帯電話がないんだよ、びっくりだよ。下宿の廊下の隅っこに共同の赤い電話があるだけ。電話が掛かってくると、誰かが出て、掛かってきた部屋の人をノックして呼び出すの。すごいな、ただでさえ面倒臭い上に、彼氏の存在が他の住人に丸分かりになるシステムじゃん。個人情報どうなってんの、この時代?
お母さんは、お父さんのことを下原先輩って呼んでた。ちょっとだけドキドキしながら。お母さんが恋する乙女で気恥ずかしいけれど、ちょっと微笑ましかった。
そういや、わたし、ちっさい頃、下原透子だった。ずっと岡部透子だったから忘れてたけど。
「はい、どうしたんですか?サークル明日ありますよねぇ」
電話の相手の声はなぜか余り聞き取れない。テレビとかラジオとかも音が小さい。
まあ、両親じゃなくてもカップルのイチャイチャする会話なんて、あんまり聞くもんじゃないから、美帆の声だけでもお腹いっぱいになる。カフェとかで隣にカップルが座ってベタベタしてる時の会話って、つい聞いちゃうんだけど、やたら耳に煩わしいから嫌いなんだ。
「え?カメラ、見付けたんですか?」
「え!本当ですか?いくらだったんですか、駅西ですか。えー、嬉しい。 」
お母さんの口調が変わった。高揚してる。【下原先輩】より【カメラ】に明らかに関心が移ったみたい。
お母さんは、すぐに電話を切って部屋に戻り、お財布を見ながらお金について考え始めたみたいだった。数字を書いては消し書いては消し、バイト料と仕送りからカメラを買えるか考える。
「んん〜」
ちょっと唸る。
そして、10円玉を握って電話をかけるために廊下に出た。
「……おばちゃん、お金貸して欲しいんだけど」
お母さんは、おばちゃんに泣きついてまでしてカメラを買おうとしている。
ああ、わたしも学生時代に何回か、おばちゃんに泣きついた。
変なところで、わたしとお母さんは、確かに母子だった。
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