第9話 夕暮れの床屋

帰宅した勇一は、部屋の鏡の前に立って、まだ長い髪を何度も指で梳かしていた。そこに映る自分の姿を見つめながら、今からこれが全部なくなってしまう、という現実と向き合っていた。そして深呼吸をし、鼓舞するように自分自身に話しかけた。


「嫌なのなんて最初だけだ。切ってしまえばきっと慣れる。それに、みんなも同じだ。僕だけじゃない」


次に、自分を誤魔化すように、中学校で新しい友達ができ、そこで楽しく過ごすことを想像し始めた。その想像の中には、丸刈りになっても、笑って友人たちとバレーを楽しむ自分の姿があった。


勇一は、この全てが自分自身への欺瞞であることを悟っていた。しかし彼はその事実をも胸の中に押し込み、「丸刈りなんて大したことない」と繰り返すことで、自分を納得させようとしていたのだ。


髪を切る決心はやはりつかない。ともあれ、明日の卒業式に決められた丸刈りで出るためには、今が床屋に行く最後のチャンスだ。心の整理がつかないまま、諦めて家を出ることにした勇一は、鏡に映る自分の長い髪を最後にもう一度だけ撫で、その感触を心に刻み込んだ。


床屋に向かう自転車を漕ぎながら勇一は、風に揺れる前髪が、鼻をくすぐる感触を強く意識した。「これで最後か…」そう思いながら床屋に辿り着き、自転車を停めた勇一がふと窓越しに店内を覗くと、そこには勇一と同じく、今日まで丸刈りにすることができなかったクラスメイトの将吾しょうごの姿があった。


その姿を見た瞬間、勇一は足がすくみ、動けなくなってしまった。勇一は将吾と親しくはなかったが、なんとなく同じような境遇だと感じていた。そして今、彼が自分と同じように丸刈りになる運命を受け入れていることに、少しの悲しみを覚えた。


将吾の髪は、細く柔らかそうな黒髪であった。おそらく丸刈りを注文したであろう店主との短いやり取りの後、いよいよその頭にバリカンが入ると、彼の髪の毛は、見るもあっけなく床に落ちていく。その様子に、勇一は言葉を失った。


将吾は最初、何も感じていないように見えたが、しばらくすると表情が硬くなり、やがて汗だくになっていった。勇一も、バリカンが頭の上を何度も何度も往復し、頭の表面が青くなっていくのを目の当たりにし、胸が詰まるような感覚に襲われていた。


店主がバリカンを止め、将吾が完全に丸刈りになった姿を目にした瞬間、勇一はなにかが壊れたような気がした。将吾は、ついさっきまでの顔をもう思い出せないほどに、変わり果てた姿になっており、短い髪の毛の粉が、額や首筋に張り付いている様子は、勇一にはあまりにも不憫に映った。


店内の床には、さっきまで将吾の体の一部だったのに、ほんの一瞬でただのゴミに変わってしまった髪の毛が、こんもりと積み重なっている。勇一はその光景に息を呑み、頭を丸刈りにするという行為の冷酷さ、そして自分自身がその過程を今から経験しなければならないという運命に対する強い恐怖が、再び心を支配した。


気づくと勇一は、再び自転車に跨り、猛ダッシュで自宅へと引き返していた。

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