縹 はなだ
藍の新たな先輩となった縹はきれいな女性だった。きれい、というよりは、少し背伸びした大人な装いに身を包んでいるが、そこから隠しきれない若さ、みずみずしさがあふれているように感じられる。若さがあるが、決して子供っぽいということはなく、上品なかわいらしさがあった。
「藍くんは元空の神だからなんとなくわかるかもしれないけど、私たち管理員の神は、地の神からの依頼メールをチェックして、どこにいつどんな天気を希望しているかを時間別に振り分けする。で、実際デザインしている空の神に連絡。それが終わったら今度は空の神たちを見回って進捗のチェック。遅れてたり、規則を大幅に違反するような神がいたらそこで注意して。完成した絵は提出の前に必ずチェック。あんまり出来がひどいようならリジェクトしてこの段階ですぐに描き直させてね。よさげなら反映しておいて」
ロビーを歩く縹の後を追いながら、藍は縹の説明にあわただしくメモを取った。地の神というのは、日本の土地、神社を拠点として働く神たちのことだ。
彼らの仕事は、人間の住む場所と職場が近いので、神社に来る来ないにかかわらず多くの人間たちの生の声を聞いて、分析し、将来起こりうることを予測して、悩みを解決するささやかな手伝いをしたり、天気で解決できそうな悩みなら空の神にその人間の声を届けたりすることだ。
空の神を生み出す空様と似たような役目を担っているのが陸様という神である。
「メールっていうのは?」
藍が聞くと、縹はエレベーターに乗り込んでボタンを押す。藍が瞑としてデザインをしていた時に働いていた仕事場のある階のボタンが光る。
「管理員のオフィスについたら説明するね。藍くんのデスクとパソコンはもう用意されてるから、今すぐにでも仕事は開始できるはずだよ」
エレベーターの扉が開く。見慣れた廊下が続いている。デザインの仕事場のすぐ横の部屋に入ると、たくさんの神がパソコンに向かって仕事をしていた。
壁の一面が窓になっていて、リアルタイムで日本上空に現在反映中の空の様子が見える。
他の壁には、空の神たちがデザインした作品が所せましと貼られている。
部屋の中央には大きく、床から天井まで伸びる円柱の透明なガラスの柱があり、中の様子を見てみれば、その柱は、色とりどりの浮きが浮いたり沈んだりしているガリレオ時計になっていた。
天井からは吊り下げ式のランプのように各デスクの上にランタンが吊るされており、そのランタンの中は液体と結晶が満ちていた。ストームグラスである。
初めて入った管理員のオフィスの美しさに藍が圧倒されていると、縹がその肩をぽんと叩く。
「最初このオフィスに足を踏み入れるとみんなこうなっちゃうんだ。素敵でしょ」
「ええ、とても」
縹に促され、藍は自分のデスクに着いてパソコンの電源を入れる。メールがいくつか届いていた。
「まずはメールを仕分けして空の神に連絡してみよう」
言われるがままに仕分けをして連絡すべき事項をまとめたメモを作成する。縹の後についてデザイナーの働いている隣の部屋に向かう。
デザイナーの仕事場の扉を開けるとまずあふれてくるのがインクや画材の匂いだ。数日入らなかっただけなのに、藍はもうこの匂いに懐かしさを感じた。
デザイナーの仕事場は基本的に床に物が散乱し、窓はなく、壁は飛び散ったインクの染みだらけ。デザイナーごとに仕切りでブースが分けられていて、創作の個人スペースであるブースはそれぞれの個性が見受けられる。絵の具や筆が散らかって、キャンバスが山のように積まれているブースもあれば、椅子一脚とキャンバスのみのシンプルなブースもある。
「まずは、この連絡だね。宵って神のブースに行ってみよっか」
最近までこの部屋のブースに入り浸って仕事をしていたので、誰がどこのブースなのかは完璧に藍の頭に入っていた。宵という名前の神は聞いたことがなかったが、おそらく自分の後釜だろうということは察しがついた。
自分が以前まで使っていたブースに向かうと、椅子とキャンバス、壁にはコルクボードが一枚かかっているだけのシンプルなブースに一人、若い青年が座って絵を描いていた。
「あ、どうも」
藍と縹に気付くと青年は筆を置いた。眼鏡をかけた涼やかな顔立ちが印象的だった。スーツのジャケットは脱いで、エプロンをつけ、真っ白なワイシャツの腕をまくって作業をしている。
「今日から管理員になりました藍です。宵さんに地の神から連絡が」
「ああ、ひょっとしてあなたが僕の先輩の瞑さんじゃないですか?」
宵は立ち上がって藍に握手を求めた。
「
藍は宵の手を握り返した。
「わかりました。移動になったことは聞いてました。僕がその後を継いだということも。今の役目がなんであれ、絵の技術に関しては先輩だと思っているので、遠慮なくご指導いただけたらうれしいです」
絵の技術に関しては、というところに多少の引っかかりを覚えたが、「もちろん」と言って藍は頷いた。
エヘン、という咳払いが聞こえた。縹である。藍は宵にメモを手渡した。
「あるカップルが来月結婚式だそうなので、その日の大事な場面だけでも晴れにしてください、という依頼です。よろしくお願いします」
宵はメモを眺めると少し目を細めるようにした。
「ダブルブッキングですね。ちょっときびしいかもしれませんが、ま、了解しました」
メモを壁に掛けたコルクボードに画びょうでとめる。その態度が少し気になった藍は言った。
「我々の仕事は人間の幸せを創ることです。依頼には全力で応えるようにしてください」
「わかってます。できることをやりますよ」
宵が二人に軽くお辞儀をした。
「連絡、ありがとうございました」
キャンバスの前に戻っていく。
「次行こうか」
縹が言ったので、藍はそのブースを後にした。
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