披露パーティー当日①
昨日、地下へと降りていった店長は以降、姿を見せることはなかった。少なくとも、あたしが退勤するまでの間には戻ってこなかったわ。
調理場のホワイトボードに店長が書き記した残りの仕込み作業は、リエルさんと仲良く分担して済ませてある。
リエルさんは本業が主婦だけあって、調理場周りの仕事は何でもできた。中途半端にしか理解していないあたしと違い、レシピブックを見ながらであるものの、店長とそう変わらない手際であったと思うわね。
エマの担当するケーキの装飾も、あたしが退勤する時間までには終わり。エマはリースさんを連れ帰ったわ。リエルさんとあたしは店舗側の出入り口から退出して、家路へ。
リエルさんの家=レオの家は、あたしが向かう最寄り駅とは反対方向ということで店頭で別れたわ。どうせ、明日も顔を合わせるということで挨拶も軽いもので済ませたわよ。
昨日は月曜、今日は火曜で完全な休日出勤。二日連続よ!
振替休日? そんなものはない。来週まで我慢よ。
そんなものより。いや休日も大事なのだけどね。
今のあたしにとって最も切実なのは、狩りをする場所が失われてしまったことなのよ。
リエルさん曰く「私たちはもう二度とアーミルの地を踏むことはない」そうなの。
何がどうなって、どうして逃げ出さなくてはならなかったのか? あたしには理解しかねるのだけど、二度と訪れることができないというのは致命傷だわ。
からん、からん
「おはようございます!」
「あぁ、おはよう」
「イオリ、おはよう」
あたしが元気よく挨拶をするのは毎度のことだけど、今日は珍しく店長が動き回っていたわ。ホール内のレイアウトを変更している最中だったのよ。
店長は巾着状のアンダークロスも剥した大きな丸テーブルを二つを器用に転がして、ホールに隣接する物置部屋に運んでいた。また、エマは長方形のテーブルを物置部屋から担いで来ては並べていたの。
「当初は完全な立食の予定だったんだが……年寄りが多いのと、社交に慣れていない人間に立食は厳しいと考え、着席ビュッフェに変更することにした」
「イオリ、アンダー掛けるの手伝って」
「着替えてくるから待ってって!」
・
・
・
「クロス掛けと霧吹き、終わりました」
「カトラリーはバスケットに適当に放り込んでビュッフェ台に置いとけ。レードルやサーバーもな。什器は手垢や指紋が付かないよう手袋をしてから運べよ」
「おとうさん、お皿はこれ?」
「その六インチプレートで十分だ。十枚を一山にして二山くらい並べておけばいい。ケーキ台の隣には飲み物を置くからカップウォーマーと中身も忘れるなよ」
ホールの印象は普段と完全に異なる。
まずテーブルの数が少ない。大きな丸いテーブルが九台並んでいる所に、今日は三台しかない。その周辺をL字型のビュッフェ台が半包囲している状態にあるの。
丸テーブルのクロスは普段通りだけど、ビュッフェ台のクロスは少し違う。側面にスカートが取り付けられ、テーブルは足元まで完全に隠されているの。
こういうとアレなのだけど……あたしはビュッフェ方式のサーブは初めてなので、わくわくとドキドキが混在しているの。経験者らしきエマがいるし、店長も教えてくれるだろうからそう心配はしていないわ。
「床に隠されたコンセントがある。床板をずらして押せば飛び出してくる。ビュッフェの時は壁まで遠いようなら床から電源を引っ張るように。コードの上にカバーを掛けておけば引っ掛かって躓くこともない。カバーは物置にある」
ビュッフェ台に並べた料理が冷えないように、各什器には電熱器が取り付けられているの。だから延長コードや電工ドラムが大活躍しているわ。
ビュッフェ台はまるで白鳥のようだわ。
表面上は優雅なように見えても水掻きを必死で動かしている、というやつよ。
電源コードは元より、お皿や替えのカトラリーが入ったバスケットが隠されているのよ。動作不良になった什器が出ても対処できるように、替えの什器も控えているわね。
「来客の十分前に料理を運ぶが蓋は外すな。ケーキ入刀の後、乾杯の合図で外すように」
ビュッフェ台の準備が完了し、店長が簡単に段取りを説明していると入口の扉が開いた。唐突なドアベルの音にあたしの意識は、そちらへと向かう。
「今日はよろしくお願いします」
「やあ、久しぶり」
「何でお前がいる? 虎太郎、どういうことだ?」
「彼を責めちゃいけないよ。今日顔を合わせるまで、僕が居ることに彼も気付いていなかったのだから」
「すみません。新婦側の列席者にこの方がいらっしゃって、急ぎお連れした次第なのです」
何度か聞いた虎太郎というレオの父親と共に、店長が眉を顰めるほどの相手が店に入場したのよ。
「新婦が僕の従妹でね」
「新婦こそが関係者じゃねえか。虎太郎、てめぇ憶えとけよ! エマ、先輩を呼んで来い」
店長はレオの父親を怒鳴りつけるとエマに言伝た。
店長が先輩と呼ぶ、あのダミ声の主を呼んで来いと。
「どうした後輩よ?」
「どうしたじゃねえよ! あんたの子孫がやってくれた。今日の宴席の主役のひとりが先輩の血縁ときたもんだ」
「な、んだと!? ……本当か、陽太?」
「僕もハガキをもらって初めて知ったんだけどね。二週間前に」
「二週間もあって、なぜ連絡せぬのだ。この馬鹿垂れが!」
「僕だって本業が忙しいんだよ!」
エマと一緒にやって来たのは、曲げを結った侍だった! 着流しに雪駄姿の侍の出で立ちはお店の雰囲気とミスマッチもいいところ。
昨日、リエルさんが冗談で言ったものと思っていたお侍だわよ。
「先輩、どうするよ? 肉は一応用意してあるがあんたの意志が最優先だ。必要ならこの場も無しに出来るが?」
「分家の話に儂が介入するわけにもいかん。そも、儂の威光が働くのは本家筋のみ」
「そりゃそうだ。僕に何か言うのとは全く別の話さ。あの子もご先祖様とコンタクトを取れるなんて知りもしないのだから」
「「こいつ!」」
お侍と店長が憎々しいばかりにと不本意な来客に当たるも、当人は素知らぬ顔で全てを受け流していたわよ。店長とお侍は小言を言うも無しの礫。
一旦、冷静になったであろう店長があたしを手招きするの。
「なんですか?」
「紹介する。この小男はレオの父親、リエルの夫で橘 虎太郎。んでこっちの優男が、俺の旧友の鈴木 陽太。この店のオーナーだ」
「言い方! 言い方に気を付けなよ! 僕は君との取引の結果、この店の名義人にはなっているけど、それはあくまでも登記上の話で、この店は君のだから!」
レオの父親を置き去りに、店長は謎の客をあたしに紹介するのよ。それもオーナーという大物を。
「オーナーさん、ですか?」
「初めまして、僕はこういうものです。……どうしたの、この娘。日本人みたいだけど?」
「俺の後釜に用意した。もし俺に何かあって戻って来れない場合、この娘をここの店長に据えてくれ」
「急に真面目な話をするの止めなよ。昔から気味の悪い癖だよ」
「まだ教育は始まったばかりで、いつ完成するかもわからんがな」
貰った名刺には弁護士事務所と記載されている。しかもこの鈴木 陽太さんは、その事務所の弁護士先生だったのよ。
店長が旧友と呼び、親しく会話するその姿は正にお友達と言う感じだけれども。
どうも店長はあたしをこの本店の店長に据えるつもりでいるようなの。
店長が言うように、あたしは店長になるための教育が施され始めたばかりの新人なのよ。まだ初歩の初歩くらいしか教わっていないあたしに、この店を任されても困るわ。レシピブックはあっても料理だって、まだまともに作れる料理は三品くらいしかないのよね。
「ご先祖様も何か言ってやってくださいよ」
「儂はあの方に逆らえぬ身。後輩も熟慮の末のこと、異議を申すにも実力が足らぬ」
「相変わらず、こういう時に全く役に立ちませんね」
「すまぬ」
「ああ、もう! トラくん、僕は今日もカウンターに居座るから、そのつもりで」
「わかりました」
レオの父親はとても背が低い。
あたしよりも若干低く、百六十台……下手をすると百五入台かもしれない。付き合いは浅くとも、この男性にリエルさんが射止められたというのは少々意外ではあるわね。
あたしはレオの父親と聞いて、店長やレオのようながっしりとした体格の男性を想像していたけど、実際はこういうものなのね。
まあ、世の中の男が全てマッチョでは面白くないものね。
あたしはマッチョな方が好みだけど!
「……というわけで、今日の俺はこの馬鹿に付きっきりだ。
料理は寸胴に仕込んであるだろ? 食事のスピードを見て、適当に追加すればいい。手が空いていれば、私も指示を出す。メインの龍肉は私が調理後にサーブする。ビュッフェ台での作業は二人に任せる。では、エマが苦心してデザインしたケーキでも載せるとするか」
「バーテン時代に戻ったみたいじゃない」
「黙ってろ!」
レオの父親は居場所なく右往左往しているが、オーナーさんは店長に何気なく話し掛けるも一蹴される。しかし当人に一切気にした様子もなく、実にマイペースな御仁であるとだと理解させられてしまうわ。
店長と付き合うならば、あのくらいの図々しさが必要不可欠なのよ。
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