第九章 白の御楯

一 真夜中の蒸気機関車

 真夜中のような静けさが、流れる景色に満ちている。日の暮れぬ国にいるかのような妙な違和には、どこか心許なさがあった。

 真夜中の雰囲気をそのままに空が白々とした明るさをたたえている。まるで白昼夢のような景色を映す窓を、弾くように叩く音がした。

 座席に座りながら手を模した体の布でとん、ととん、と叩く。その旋律は揺るがぬ護りの……で始まる『しろ御楯みたて』という軍歌だった。

 窓を叩く音で旋律を奏でているのは、竟鏡尊ついのかがみのみことであった。澄人すみとの姿ではなく、本来の姿、頭部が鏡で体が黒々とした布の姿で座席に座り、窓に貼り付いて景色を見ている。

 余程、気に入っているのか楽しそうに窓を弾く姿は幼子のように見える。どこか微笑ましいようで、それでも拭えぬおそろしさがあった。

 蒸気機関車の三等客車には高久たかひさ羽坂はざか八代やしろ、そして竟鏡尊の他に誰もいない。貸し切りの蒸気機関車は通常よりも早い速度で〈鏡ノ径かがみのこみち〉の最寄り駅、〈鏡山かがみやま駅〉に向かっていた。

 三等客車はどこの座席に座っても互いの顔を見ることが出来る開けた客車だ。互いにそれぞれの座席に腰を下ろし、妙な明るさに満ちた客室を眺めていた。

白幹ノ帝国駅しろもとのていこくえき〉から〈鏡山駅〉までは約六時間かかる。八代が機関士と機関助士に頭を下げて特例で走らせてもらうよう頼んだのだ。

〈白幹ノ帝国軍〉少将に頭を下げられては機関士と機関助士も断れなかった。蒸気機関車は限度いっぱいの速度で走っている。早ければ約六時間かかる距離を約四時間に短縮出来るだろうという判断だった。各駅停車がないことも合わせた時間だが、それでも場合によっては五時間ほどかかるかもしれないという説明を受けていた。

 蒸気機関車を走らせる準備が整うまでの間、高久は一度、桐ケ谷きりがや令人のりとを幼年学校まで送り届け、羽坂は総司令部に蒸気機関車を特例で走らせる連絡を入れていた。

 全ての準備が整い、客車に乗り込んだ時には深夜近くになっていた。それでも空の色はまだ、妙な違和の中にあった。

 楽しそうに『白き御楯』の旋律を紡ぐ竟鏡尊とは対照的に三人の間に漂う雰囲気は重々しいものであった。

 蒸気機関車が〈白幹ノ帝国駅〉を離れてしばらくしてから、高久は駅構内の純喫茶店〈三色旗さんしょくき〉で購入したサンドウィッチを八代と羽坂に配った。そして離れて座る竟鏡尊のそばに腰を下ろした。

「竟鏡尊様。お召しあがりますか?」

 窓を向いていた竟鏡尊の顔が高久に向いた時、鏡が反射して光った。こくこくと頷く竟鏡尊にサンドウィッチを手渡すと、なめらかで光沢のある布で受け取ってくれた。そうして薄紙に包まれたサンドウィッチを見つめると、嬉しそうに足をゆらゆらさせていた。

 こうして見ると妙な可愛さがある。だが、神様なのだ、と高久は一度、頭を下げてから離れた。

 三人は薄紙を取り、サンドウィッチにかぶりついた。薄く切られた胡瓜とハム、マスタードを挟んだ素朴なサンドウィッチは創業以来、人気の一品だ。

 食欲のない時にでも食べられるようにと大量に挟まれた胡瓜の瑞々しさに助けられながら、三人はゆっくりと完食した。

 ちゃんと食べられているだろうか、と高久が竟鏡尊の方を振り返ると、器用に薄紙を開け、両手ではむ、と食べていた。サンドウィッチは鏡の中に消え、しゃくしゃくと咀嚼する音が聞こえる。余程気に入ったのか嬉しそうに体を揺らす竟鏡尊を前に高久は苦笑した。

 珈琲コーヒーの香が客室に満ちる。

 どうせ、眠れないのだからと頼んだ珈琲を、取っ手のない陶器のコップに入れて、八代と羽坂に手渡してから、竟鏡尊にも手渡した。

「熱いですからね」

 竟鏡尊は恐る恐ると言った様子で受け取った。鏡が湯気によってじんわりと曇る。匂いを堪能してからコップに口をつけた竟鏡尊は一口、飲んで驚いたようだった。その様子に高久は一度、断ってから大量の砂糖とミルクを入れて手渡した。甘い珈琲を口にした竟鏡尊は気に入ったようで、陶器のコップから口を離すことなく、ちびちびと飲み始めた。

 高久は座席に戻ると、八代と羽坂の顔を見た。互いに疲れ切った顔をしている友の顔を見て、不意に年を重ねたと思った。

 幼年学校で出会ってから十七年。大きな戦争をいくつか経て、よく生きて来られたと思う。窓枠に陶器のカップを置いた高久は意を決し、切り出した。

「……羽坂。八代。今ここで、伝えておきたいことがある」

 高久は澄人と行動を共にした日々の事、竟鏡尊が見せた〈白山ノ戦はくざんのたたかい〉での澄人のことを話し始めた。

 高久の話を聞き終えた後で羽坂が大きく、息を吐く。祈るように組んだ手が震えているのを高久と八代は見なかったことにした。

「……高久。お前さんから見て、澄人の怪我はどの程度だ?」

 羽坂に問われ、高久は一瞬、答えるのを躊躇った。

「高久」

 構わない、と言った羽坂の声に高久は躊躇いながらも答えた。

「あの怪我ではまず、助からない」

 八代が息を呑んだのが分かる。羽坂は深く息をして、顔をあげた。疲れ切った友の目には何も映っていなかった。

「……澄人は、何か言っていたか?」

 ――会いたい。

 澄人の言葉を振り切るように高久は答えた。

「いや……何も、言っていなかった」

 あの言葉は、羽坂に対しての言葉だ。だけど、それを言うことは高久には出来なかった。死の間際に願った澄人の言葉は、聞いてはならないものだった。

 意図せず聞いた言葉は、例え、伝えるべき相手がいようとも、絶対に言ってはならない。だからこそ、高久は答えられなかった。

「ただ、お前があげた煙草の箱を、握りしめていたよ」

 羽坂から貰った煙草の箱、〈彼岸ノ桜ひがんのさくら〉を祈るように握りしめた澄人の姿が鮮烈に浮かび上がる。澄人は、最後まで生きようとしていた。生きて、帰ろうとしていたのだ。

 羽坂は両手で顔を覆った。

「そう、か……」

 静けさが満ちて、竟鏡尊が窓を叩き奏でる『白き御楯』の旋律が聞こえてくる。

 揺るがぬ護りの白の御楯らよ……その軍歌は〈白天ノ子はくてんのこ〉がよく歌うものだった。自分達を鼓舞し賛美する歌ではなく、〈白の御楯〉への感謝を表す歌として、彼らはよく歌っていた。

 我等は忘れはせぬぞと誓う……で締めくくられる歌には続きがある。


 ――帝国精神 山に原に旗は風にひらめ

   とどろの名は白き御旗みはたの名に恥じぬ

   ああ! 我等のえある白天ノ子よ!


 だが、この歌詞は民間人によって作られた替え歌であった。今や民間人の間ではこちらの方が有名で元の歌詞を歌う者は少ない。

 本来の歌詞に〈白天ノ子〉という言葉はない。本来はこのように続く歌であった。


 ――帝国精神 山に原に旗は風に閃く

   轟く其の名は白き御楯みたての名に恥じぬ

   ああ! 我等を導く股肱ここうしん


〈白の御楯〉を称える終わりで締めくくられる歌は、いつからか〈白天ノ子〉に変わってしまった。

 竟鏡尊はそれを分かっていて、やっているのだろうか。揺るがぬ護りの……と歌った竟鏡尊の声にはどこか皮肉めいたものがあった。

「高久。私はずっと、気になっていることがある」

 顔をあげると、八代が険しい表情で俯いていた。何かを切り出そうと開きかけた口を一度、閉じた。しばらく何かを考えるように固く口を閉ざしてから、ようやく八代は口を開いた。

「お前と行動していた澄人は確かに澄人なのか?」

 お前、と言われて高久は八代の怒りが解けたことに気付いた。八代は怒っている時、貴様、と言う。自分と羽坂にだけしか使わない癖のようなものだった。

「高久?」

 思わずぼんやりしてしまってから我に返った高久は慌てて答えた。

「確かに澄人で間違いない。……恐らく、意識は澄人にあったのだと思う。ただ……」

「ただ?」

「……共に行動していて、澄人の顔がないのに表情が分かる時と、分からない時があった。今にして思えば、澄人の意識が出ている時と、そうでない時だったのかもしれない」

 高久は振り返った。竟鏡尊は、窓の外の流れる景色を眺めていた。

 しばらく黙っていた八代が口を開くと同時に高久は体を戻した。

「高久の話を聞いていて、気になっていたことがある。……澄人の意識が出ている時と、そうでない時……それは、澄人の体に影響しているということだろう?」

 八代は羽坂を一度見て、目をそらした。

「……澄人は、生きているのか?」

 それは高久も懸念していたことだった。澄人の怪我は普通なら助からない。

「竟鏡尊様はあわいの中で死までの時を緩やかにしただけだと、言っていた。半年をかけて澄人は意識が明瞭になったそうだ」

 八代は青ざめていた。そうして辛そうに顔を歪めた八代は俯いた。

「なんて、むごいことを……」

 高久はその先の言葉を言うべきか悩んでいた。口にしたら本当になってしまいそうで怖いのだ。生きて帰って欲しい。それはここに居る誰もが願うことだ。

 ――だけど。

 高久はあの怪我を見てしまった。神であれども死の淵に立つ人を救うことは出来ない。そして竟鏡尊は澄人の生死に関して、はっきりと言及はしていない。

 高久のずっと背後で今も尚、窓を叩く竟鏡尊は言葉を発することはなく、高久達の会話に興味を持つことはない。そもそも、言葉を交わせないのだから、興味を持ちようもないのだろう。

 水面が迫るように満ちる静寂に、本来なら暗い筈の空を見上げる。妙な違和はまだ去らず、日のない明るさの空色は白昼夢の中を生きているようだった。

 黙って高久と八代の会話を聞いていた羽坂がようやく、口を開いた。

「高久。八代。お前さん達に伝えておきたいことがある」

 顔をあげた羽坂は憔悴しきっていたが、その目には力強い光があった。

 高久と八代は互いに顔を見合わせて、頷いた。

「……八代。今回のことは全て、俺に被せろ」

 羽坂に言われ、八代は即座に立ち上がり、険しい表情を浮かべた。

「おい。羽坂。貴様」

「待て。最後まで聞け。……お前さんには、軍に居てもらわないと困るんだ」

 立ち上がった八代は羽坂の言葉に座り直した。

「今回の件、責任を厳しく追及されるかもしれないが、おそらくは何とかなる。だが、全て解決した訳じゃない。その為にも八代。お前さんは軍に居て欲しいんだ。これからの……未来の為にも」

 八代は険しい表情で羽坂を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。

「分かった」

「高久。お前さんもだ。……教官として新人少尉を導き、育てて欲しい。だから……俺を見捨てろ」

 本当ならば、容認できないと言いたかった。だけど、羽坂の覚悟はもう揺らぐことはないと分かっていた。

「……分かった」

 羽坂は微笑みを浮かべると、深く息をした。

「最初に、謝らないといけないことがある」

 だが、羽坂の言葉を一蹴したのは八代だった。

「それなら私は聞く気はないが。そうだろう? 高久」

 八代に言われて高久は思わず、苦笑した。羽坂の告白を一刀両断した八代に、羽坂が目を丸くした。

「どうせ、貴様のことだ。私達を諜報していたと言うつもりだろう」

「何故、それを……」

 羽坂は表情を変えぬように努めていたが、その目には驚きに満ちている。八代は鼻を鳴らして答えた。

「そんなもの、珍しくもなんともない。高久の所は村だろう。私は家のことだろう。貴様のことだから、誤魔化して報告してくれたと思っている。それでも貴様のことだ。私達を裏切り続けていたことを責めて来たか?」

 羽坂は困惑した表情で高久を見た。

「正直、感づいてはいた。あの頃、誰も気付かなかっただろうが、お前が諜報員であることには気付いていたよ。それでも、私達は裏切られたとは思ったことはない」

 だが、羽坂の表情は曇ったままだった。

「……俺はな、澄人も裏切っている」

「だから」

 それは違うと言おうとした高久の言葉を遮るように羽坂が言った。

城ノ戸きのと稲生いのうを殺したのは、俺だ」

 物騒な台詞に高久と八代はすぐに言葉を発することが出来なかった。高久は困惑しながらも思いつめた表情をする羽坂を見た。

「……待て。城ノ戸と稲生は、〈迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉で死んだ。お前が殺したわけではないだろう」

 羽坂は首を振った。

「高久。お前さんから託されたただすの〈皎衣こうい〉。俺は、それを城ノ戸に持たせた。澄人は〈皎衣〉を自分の為に使わないと思ったからだ。だから、城ノ戸と稲生に頼んだんだ。これで澄人を守って欲しい、と。……結果的には俺が殺したも当然だ」

「それは」

 違うと言い切れなかった。だが、それでも、城ノ戸と稲生は澄人と、そして、自分達の〈白天ノ子〉、はやてを守ったのだ。

 城ノ戸と稲生はやるべきことを果たした。〈白の御楯〉となったのだ。高久もまた、自分があの場に居たならば、同じことをするだろう。〈白天ノ子〉は身をていして後方を導くが、〈白の御楯〉は身を挺して〈白天ノ子〉たる少尉を守る。例え、自分の命と引き換えにしても、〈白の御楯〉としての任を全うする。

 それを分かっているからこそ、羽坂は自分が許せないのだろう。そして澄人はそれを分かっていたのだ。だから、羽坂の重荷を背負おうとしたのだ。

「それでも、澄人は分かっていて、俺と〈家籍かせき〉を結んだのだな……」

 ――澄人、と呟いた羽坂の声は切実なものだった。誰よりも澄人の生存を願って来たのは羽坂だった。

 ――俺と共に地獄に堕ちてくれ。

 友の声の覚悟に満ちた、そして悲しい約束を高久は聞いた。その言葉の意味するところは一つだ。

「その上で、お前さん達に聞いて欲しい話がある。澄人のことだ」

 その言葉は、高久と八代の覚悟を問うものでもあった。高久と八代は無言で、そして目で答えた。羽坂はそんな二人を穏やかな微笑みで見つめていた。

「澄人は、諜報課が要護衛人物と認定した人だ」

「要護衛人物……?」

 高久は思わず、口にしていた。〈白幹ノ帝国軍〉が定める要護衛人物というのは主に政絡みになる。

「ああ。澄人の母親である雪村ゆきむら希世きよさんの顔を、知っているか?」

「……いや。私は見たことがない」

 八代に続いて高久が答えた。

「私も見たことはない。ただ、戸籍謄本を確認した時、澄人の母親の顔も消えていた。澄人に似ているんだな?」

 高久が声を落とすと羽坂は頷いた。

「白い髪に白い肌……。そして灰色の目。希世さんよりも色素は薄いが、お前さん達、澄人の目、この国の人間にしては珍しいと思わなかったか?」

「珍しいとは思ったが、それだけだ」

 八代が答えると羽坂は微笑んだが、すぐにその笑みは消えた。

「澄人の母の希世さんは、〈白胎ノ子しろはらのこ〉だ」

 高久と八代はそれを聞いて顔色を変えた。〈白胎ノ子〉それはいい響きを持たぬ言葉だからだ。〈白胎ノ子〉。それはまほらのなりそこないという意味を持つ言葉でもあった。

「次のまほらの命を繋ぐ〈産之胤うみのいん〉から産まれた、〈白胎ノ子〉。……だが、希世さんはまほらの器に選ばれることはなかった。目の色が灰色だったからだ。だが、〈産之胤〉候補としての器を持っていた」

 羽坂は迷うように言葉を続けた。

「希世さんは幼い頃から体が弱くてな、神の手は離れられないだろうと言われていた。そんな希世さんは、二十一で妊娠し、二十二で澄人を産んだ。問題はここからだ」

 羽坂は深く息を吐いた。

「澄人が産まれて、一年程、経った時だった。澄人の食事に毒が混入していたんだ」

「毒?」

 ただならぬ単語に八代が眉をひそめた。

「ああ。幸い、食べる前に気付いたらしく、大事には至らなかった。だが、この件をきっかけに澄人は命を狙われるようになったそうだ。……片時も〈護衛師ごえいし〉が離れられない程に偶然を装って狙う為に、澄人は一人になったことがない。だが、流石にそれは不味いだろうと、澄人が八歳になった時、境入中将の命で俺が護衛を任された」

「そんな前から……」

 八代の驚く声に羽坂は苦笑した。だが、高久も八代も、羽坂の澄人に対する態度を考えると腑に落ちた。

「ああ。澄人との出会いは、あくまで護衛としての出会いだったんだ。あの時は――」

 昔を懐かしむように羽坂は、ぽつぽつと語り始めた。それは長い昔語りだった。

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