第八章 白き願い

一 君が為の願い

 淡く、白い光景が遙か彼方かなたまで続いている。

 おぼろげな感覚の中で、澄人は足音を立てぬように歩いていた。足の裏全体を床にそうっと押し付けるようにして歩く。冷たい床の感触にうつむけば、白い床の上に立つ自分の素足が見えた。白に溶けゆくような己の足から目をらして顔を上げると、それまでのおぼろげな感覚をさらうように視界が明瞭になった。

 離れへと繋がる白い渡り廊下。渡り廊下の両端を彩るように囲む様々な種類の白い花。澄人は戸惑いながら、顔をそうっと右に向けた。白に満ちた庭園が日の光を浴びて浩々こうこうと輝いている。目の前に広がる庭園は、幼い頃に暮らしていたあの屋敷の、庭園によく似ていた。

 澄人は自分が見ているものに戸惑いを覚えていた。

 何故なら、この場所はもう、ないからだ。谷屋たにやから雪村ゆきむらへと姓を変えて、二度と戻らないと決めたあの日――兄によってあそこは壊したと聞かされた場所。

 この渡り廊下の先には、亡くなった母と過ごした屋敷がある。そう思った時、澄人は動けなくなった。

 ――澄人様。

 自分を呼ぶ懐かしい声に澄人は庭園から目を離して、渡り廊下の先を見た。声の主は〈護衛師ごえいし〉である日馬くさま秋良あきらだった。端整な顔が際立つベリーショートの白い髪。無表情ながらも自分を見つめる目の優しい懐かしさにのどがつまり、目の奥が熱くなった。

 日馬は表情ひとつ変えずに澄人の下に歩いた。素足でこちらに歩く日馬は足音を立てていない。足の裏全体を床に押し付けるように歩いている。その歩き方を見た途端、澄人は忘れかけていたことを思い出した。この歩き方は、〈護衛師〉の人達が病弱な母の体に響かぬように気を遣った優しさだった。

 澄人は自分も母が生きていた時にはこのような歩き方をしていたことを思い出した。母が亡くなってから何年も経つというのに、体に染みついたくせというのは忘れられないものなのだろう。

 ――こちらにおられたのですね。希世様が呼んでおられましたよ。

 日馬が澄人の隣に並ぶ。

 澄人は顔を上げてその懐かしさに胸が締め付けられた。

 日馬は澄人専属の〈護衛師〉であった。日馬は二十一で〈白天ノ子はくてんのこ〉を辞退すると、澄人が五歳の頃に澄人専属の〈護衛師〉として住み込みで谷屋家に入った人だった。澄人が十二歳で幼年学校に入る時まで〈護衛師〉としての任務を全うし、今は桜の国にいる。

(……この人を見上げるのは、ずっと変わらない)

 あの頃より近くなった筈の日馬の顔が遠く見える。あの頃より背も伸びたというのに、日馬の身長を追い越すことはなかった。

 澄人は日馬の名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気付いた。

(ああ。そうか……。ここは記憶の中だから……)

 言葉を交わせぬ寂しさを押し込めるように俯いた澄人に、日馬が優しく声をかける。

 ――澄人様。行きましょう。

 声にいざなわれるように歩を進める。人の出入りが簡単に出来ないようにもうけられたいくつもの門扉もんぴを通りすぎた先にあるのが、澄人が母と過ごした擬洋風建築の離れだった。〈白山はくざん〉の木材で建てられた離れは日の光も相まって、内側から発光するかのような白さを見せている。

 その白いまぶしさに目を細めながら日馬と並んで歩く。そうっと日馬を見ると、凛とした横顔が目に入った。その時、澄人の視線に気付いた日馬が顔を向けた。

 ――澄人様。手を繋いでもよろしいでしょうか?

 澄人は目を瞬かせながらも、そうっと頷いた。

 今にして思えば、日馬は幼い澄人の手に許可なく触れようとはしなかった。日馬は澄人の手を取ると、その手をそうっと優しく握った。しっかりとした大きな手の温みの懐かしさに澄人は泣きそうになった。


 澄人は、いつの間にか離れの中の廊下を日馬と共に歩いていた。淡い白に包まれた室内は常に光に満たされている。日の光によって温められた白い絨毯の温みが足の裏に伝わる。 

 大広間の奥、大きな扉の前には日馬と同じ〈護衛師〉の女性が控えている。軍刀を佩用はいようした女性二人と日馬が会話を交わして、ようやく大きな扉は開けられた。

 開いた扉の向こうから光と共に風が吹き抜ける。入り口を遮るように幾重もの薄いベールで覆われた部屋の奥に、人影が見えた。

 ――澄人?

 母の、声だった。

 思わず、日馬を見上げると、日馬は優しい目を澄人に向けていた。

 ――私はここで待機しております。

 離れた手の間を風が通り抜ける。澄人はいつの間にか部屋の中を歩いていた。

 ――澄人。

 柔い声に誘われるようにして薄いベールの中に入ると、母は寝台の上で上半身を起こし座っていた。上半身を大きなクッションで預けた母は、澄人を見ると、優しく微笑んだ。

 白く長い髪は丁寧に手入れされていると分かる程に艶やかに輝いており、まっすぐな髪は敷布の上で緩やかに広がっている。病弱であることも相まって肌の色はいっそう白く、灰色の目が更にその白さを際立たせていた。

 母は表面に薄い半透明の膜を張ったような白さを湛えていた。透き通りそうな白さに澄人はあの頃は抱いていなかった筈の恐怖を感じた。

(この人は……こんなにも白かったのだろうか)

 ――澄人。私の愛しい子。

 すう、と母の白い手が伸びる。澄人は慌てて母に近づいた。母の両手が澄人の両頬を包む。母の手の僅かな温もりに鼻の奥がつんとした。

 ――今日も元気そうな顔ね。

 そう言って、母は灰色の目を細めた。こうして母の顔を見ると、自分は母に似たのだと思う。母を知る人は、よく似ていると自分の顔に母を見る。その目に昔日をにじませて、母の記憶を手繰たぐり寄せるのだ。

 ――愛しているわ。澄人。

 頬に伝わる温もりが、母が出来る澄人への愛の伝え方だった。

 ――愛している。

 母は何度も、何度も、繰り返しそう言った。父の分まで言葉を繰り返しているようだった。

 雪村家から嫁いだ母には雪村家の〈護衛師〉が常にかたわらにいた。父にれて、父の下に嫁いだにもかかわらず、父と母が一緒にいるのを澄人は見たことがない。

 父は常に前妻の写真を見つめていて、母を見ることはなかったように思う。前妻である日生ひなせという女性と母は、全く印象の異なる人間だった。日生という女性もまた、体の弱い人であったが、黒髪の印象的な凛とした面差しの人だった。対して母は、儚げな見目をしている。病気であることも儚げな見目を後押ししたのだろう。幼さの残る柔らかな顔をしている母を、父は受け入れがたく思っていたのかもしれない。

 ――ごめんね。澄人。父上様を、許してね。

 両頬を包みながら自分を見つめる母の顔を、澄人ははっきりと覚えている。忘れられる筈がないのだ。

 澄人は母に似た。生き写しと思う程に母に似た。唯一、似ていなかった所があるとするならば、それは髪と、目の色だ。母の瞳は灰色であるが、澄人の瞳は白に近い灰色だった。

 ――それでも私、あの人との子供が欲しかったの。あなたを、産みたかったの。

 母は澄人の髪に触れて、満足そうに微笑んだ。

 澄人が父に似たのは髪の色だけだ。黒々とした艶やかな濡羽色の髪だけが父に似た。強いて言うならば、それだけなのだ。父の髪の色に似た澄人の髪に触れながら、母は嬉しそうに笑んでいる。

 その顔の無垢さに澄人は胸が痛んだ。自分よりも色素の濃い母の灰色の瞳から目を逸らすように俯くと、澄人は奥歯を噛みしめた。

(この人は……どうして……)

 母が父を選んだ理由を一度、問うたことがある。母は驚きに目を開いたが、澄人の目をじっと見つめると、一目惚れしたのだと、柔く笑んだ。

 澄人の記憶の中の父は、ずっと厳格な顔をしている。そして、時折、戸惑ったような表情で澄人を見つめる。澄人にとって父は、遠い家族だった。

(母上様は……それでも父上様を好いていたのですか)

 ここは記憶の中だ。記憶の中の母に問いかけることは出来ない。

 ぬるり、と母の手が頬から離れる。その手が離れた時、澄人は全身に満ちた恐怖に顔を上げた。

 母が口を両手で押さえて咳をした時、手首を赤いものが伝った。

 ――希世きよ様!

 すぐ様、ベールが上げられ、母専属の〈護衛師〉芳野よしの春子はるこが駆け寄った。懐かしい顔に胸を締め付けられる間もなく、春子の切羽詰まった声が飛んだ。

 ――日馬! 澄人様を外に!

 ――はい。澄人様。行きましょう。

 日馬に手招きされながら母の部屋を離れる。敷布を染める赤が白い世界の中で鮮明に浮き上がっていた。

 寝台に沈む母の姿を、何度見てきたことだろう。それでも尚、澄人には心配かけさせまいと笑顔を浮かべる母の顔を、閉まる扉の隙間から何度見たことだろう。

 白い扉が閉まった途端、澄人は頬に衝撃を感じた。

 白い床の近さに戸惑いながら、顔を上げると、兄の顔が見えた。

 ――なんでお前が。

 憎しみと悲しみの混在した兄の目が自分を見下ろしている。続く言葉は無音となり、兄の口の形が言葉を告げる。日馬の駆け寄る足音と、兄の怒号が聞こえる。

 続けて日馬に取り押さえられる兄の姿を、澄人は呆然と眺めていた。兄の目には涙の膜が張っている。その目は、白い扉に向けられていた。

 今にして思えば、兄は、母に私を産んで欲しくなかったのだろう。

 私を産めば、後妻は母となる。それが、許せなかったのだ。兄にとっての母は日生ただ一人だ。だからこそ、その怒りは澄人に向けられた。

 頬に刻まれたあの痛みが、あの時はこの世で一番、痛かったように思う。あんなにも痛いのに泣けなかった。

 日馬に取り押さえられた兄は叫んでいる。その叫びは無音となって澄人の耳には届かない。なのに、口の形から何を言っているか分かってしまった。


 気がつけば、白く淡い世界の上に置き去りにされたように澄人は立っていた。

 柔らかな風が髪を揺らして、頬を撫でる。微睡みの中で意識は常に覚醒と睡眠を繰り返していた。時折、聞こえる雨の音が澄人の意識を揺り動かすが、抗えない睡魔が澄人の体を引っ張り落とそうとする。

 澄人は閉じかけた目蓋をこじ開けて、どうにか歩こうと睡魔に抗った。

 ふっと景色が変わり、淡い桜の花びらが黒煙と共に目の前を覆った時、澄人の意識は一気に覚醒した。

(嫌だ)

 この記憶は。

 ――澄人!

 自分の体が引き倒されて、背中を強かに打ち付ける。強かに背中を打ち付けて痛みに呻く澄人の上に覆いかぶさったのは同じ〈白天ノ子〉であり、同期のはやてだった。

 戸惑う間もなく頭上が暗くなる。澄人が顔を上げると、〈皎衣こうい〉を被せようとする城ノ戸きのと稲生いのうと目が合った。

(嫌だ)

 叫びそうになる恐怖が体中に満ちる。起きあがろうとした澄人の動きを止めたのは厳しい声だった。

 ――動くな!

 言霊に絡め取られるようにして動かなくなった澄人に、城ノ戸は微笑みを向けた。厳しい顔が常に顔に張り付いた軍人の、あまりにも優しい微笑みに澄人は言葉を失った。

 ――生きろよ。

 その言葉を最後に〈皎衣〉を被せられ、視界が真っ暗になる。網膜に焼き付いてしまった笑顔が残像のように暗闇にちらつく。城ノ戸と稲生が覆いかぶさったのが体に伝わる重みで分かった澄人は青ざめた。

(やめて)

 澄人は彼らが何をしようとしているのが、分かっていた。分かっているからこそ、拒めなかった。自分と颯を守ろうとしている城ノ戸の手が布越しに自分の肩に触れた時、澄人の両目からは涙があふれていた。

 次の瞬間、地面を震わす音と共に背中を叩きつける衝撃が体を貫いた。同時に体に伝わる重みがなくなり、肩の温みが離れた。地面に何かが落ちた音が鮮明に聞こえたが、その音の正体を澄人は考えないようにした。

 自分に覆いかぶさる颯の体が弓なりになるような衝撃が澄人の体に伝わる。せり上がる吐き気を抑えて息を呑むと、気を失った颯の重みが澄人の胸にのしかかった。胸を押さえつけられる苦しみに朦朧もうろうとしながら鼓膜を破るような爆音を最後に澄人は意識を失った。


 次に目を開けた時には満天の星空が目の前にあった。

 この先の記憶を澄人は分かっている。あの日は今でも夢に見る。

 自分を護り、死んだ彼らの体があちこちに散らばる光景を、〈白天ノ子〉は呆然と見つめていた。

 あの時、自分を含め、彼らは心を護る為に感情を消すことを選んだ。気を失った〈山ノ守名やまのもりな〉を安全な場所に運んでから、〈しろ御楯みたて〉の体を集めた。

 彼らの体を運びながら、感情を殺していたせいなのだろう。あの時の体の重さを澄人はもう覚えていない。ただ、体を集めても彼らが目を覚ますことはない。その真実だけが今も心を苛んでいる。

 なのに。

 澄人は〈白の御楯〉の足を持ち上げながら、思ってしまった。

 絶対に、思ってはならないことを、あの時、浮かべてしまったのだ。

(私は……むごい人間だ)


 淡い光が満ちている。窓から見える景色はゆっくりと流れている。

〈白天ノ子〉を乗せた列車がゆっくりと走っている。

 ――澄人。

 颯の声が聞こえる。

 ――僕、〈白天ノ子〉を辞退するよ。

 戸惑う澄人に颯は微笑んだ。

 ――今は、秘術で動けているんだけど、もうね、下半身、動かないんだって。

〈皎衣〉は決して万能ではない。伝わる衝撃が上回れば、肉体が損傷することもある。何も言えずにいる澄人に颯は歯を見せて笑った。

 ――後は軍属として皆を支えるよ。いいよね。稲生軍曹……。

 颯は窓に顔を向けた。その頬に伝った涙を、忘れることはないのだろう。

 だけど、あの後、颯は軍から去った。


 遠くから歓喜の声が聞こえる。

 鼓膜を震わすような歌声が構内まで聞こえてくる。すれ違う人々が自分達を見て戸惑っているのを見て、何が起きたのかは察していた。連絡の行き違いは珍しいことではない。なのに、あの日、澄人を含め〈白天ノ子〉は〈白幹ノ通しろもとのとおり〉を通り、帰ることを選んだ。

 揺るがぬ護りの白の御楯みたてらよ。

 言葉の意味を変えて、形を変えたあの歌に反抗はんこうするように、あの道を通ることを選んだのだ。通らなければ、ならなかった。

 それが、〈白の御楯〉への弔いだったのだ。


 花びらの形にがれ落ちるように景色は変わり、澄人はあわいを歩いていた。

 いつの間にか溢れた涙が頬を濡らす。澄人は、泣くな、と自分を叱咤したが、溢れる涙を止めることは出来なかった。

 ――泣いていいのです。

 澄人の耳に高久たかひさの言葉が届く。

 ――澄人さん。ここにはあなたと、私しかいません。泣いてもいい。怒ってもいい。どんな語りだろうと私はあなたの言葉を受け止めます。同時に、語りたくないことは一生、口を閉ざしてもいいのです。

 こらえきれない嗚咽をそのままに、澄人は歩き始めた。水中を歩くように心許ない足を動かして前を歩く。

 先に進む度に目の端の風景が急に変わっては昔日入り交じる記憶を見せる。

 ――澄人様。あなたは我儘を仰っても良いのですよ。

 日馬の声が聞こえる。記憶は過去をばらばらに見せながら澄人の心を揺り動かしていく。

 ――私は、いつかあなたの下から離れる時が来ます。でも、私は、あなたと共に居られた時間がとても楽しかったです。

 そう言って珍しく微笑んだ日馬は桜の国に行ってしまった。

 あの人も、あの人も、母上様も、私の大切な人は離れてしまう。

 ――行かないで。

 幼い自分が一人、あわいの中を歩いている。

 ――どうして、行ってしまうの。

 自分の幼い声が耳に刺さる。

 ――行かないで。ずっと、そばにいて。母上様。

 ごめんね、と声が聞こえる。

 ――澄人。私はきっと、あなたの大きくなる姿を見ることが出来ない。

 ――嫌です。嫌です! 母上様! お願いだから、私のおそばにいてください!

 幼い自分が母にすがる。そんな幼い澄人の頭に母の手が触れる。

 ――あなたには、羽坂はざか紘太朗こうたろうがいます。

 母の声に息を呑んだのは、幼い澄人ではなかった。

(母上様……あなたは……)

 ――あの人と私は、血が繋がっていないのに?

 幼い澄人の問いかけに母が嬉しそうな笑みを浮かべた。その微笑みが、いつもと違っていたことだけを思い出した。

 ――血が何だというのです。血は、関係ありません。あなたは、あの人の言葉を信じなさい。

 ――母上様!

 幼い澄人が思わず伸ばした手が、大きな手に絡め取られる。その手の主に澄人は目を大きく開いた。

 ――澄人。

 ――羽坂さん?

 ――あなたが嫌じゃなければ、俺と一緒に暮らそう。

 幼い自分が頷く。縋るように抱きついた幼い自分を大きな腕が包むように抱きしめたのを澄人は眺めていた。

 当時のあの人の年齢を思えば、あまりにも酷な決断だったのではないだろうかと澄人はこの年になって、思う。

 あの時、澄人は八歳、羽坂は十八歳だった。

 十八歳。あの時は随分と大人に見えたが、あの人は、まだ、未成年だったのだ。士官学校在中の最中に子供の護衛を任され、受け入れる覚悟を決めた。

 澄人が十八を迎えた時、鏡に映った自分の幼さと頼りなさに愕然がくぜんとしたというのに、あの人は十八で全てを決めて受け入れたのだ。

 それなのに。

 ――あなたは、何も知らなくていい。

 いつの間にか目の間にあの人が立っている。澄人を見下ろす目は恐怖を感じるくらさをしていた。

 ――知る必要はない。

 頼むから、と声が聞こえる。羽坂は澄人を突き放すように言った。

 ――頼むから、あなたは、何も知らないままでいてくれ。

 何も知らないまま生きることなど、澄人には出来なかった。

 澄人は幼い頃から自分が護られていることを自覚していた。何があれば〈護衛師〉の飛んでくる生活だ。赤の他人が命をして自分を護る。我儘なんて言える筈がない。

 一度、父を心配させたくて、隠れようと思ったことがある。

 だけど、幼い澄人にはそれが出来なかった。隠れて、何かあった時、〈護衛師〉の負うとがを澄人は幼い頃にして理解してしまったからだ。

 ――澄人。

 あの人の声が聞こえる。

 昏い目をした、あの人の声が聞こえる。

 ――あなたを、けがしたくない。

 途端、澄人はあの日の言葉を思い出してしまった。〈白の御楯〉の足を持ちながら、澄人はあの時、思ったのだ。

「羽坂さんがここにいなくて良かった」

 記憶を裂くように己の声が響く。これは、自分の罪だ。

(私の中にも……こんなに惨い感情があるというのに)

 あの人は私を綺麗なまま護ろうとする。

「羽坂さん。お願いですから……。私にも背負わせてください。あなただけに手を汚して欲しくないんです!」

 叫びを押さえようとするような羽坂の手が伸びて、澄人の頬に触れた。

 ――悪いが、俺はあなたに背負わせるつもりはない。

「羽坂さん!」

 あなたを、穢したくない、と声が聞こえる。

 振り払われた言葉が心にひびを入れていく。言葉を尽くしても届かない苦しさを何度、突きつけられようと、羽坂を止めることを澄人は諦められなかった。

 ――俺は、専一郎せんいちろうを殺すよ。

「駄目! 羽坂さん! もう殺さないで!」

 伸ばした手はうろを踊る。それでも、と白い手を伸ばし、澄人は何かをつかんだ。

 白い煙が周囲を満たす。土埃で汚れた己の手がつかんだものは、煙草の箱だった。白い箱。桜に旗があしらわれた煙草の箱は、〈彼岸ノ桜ひがんのさくら〉だった。

 途端、視界は暗転し、澄人は硝子ガラスが爆ぜる音を聞いた。


 **

 薄く開いたまぶたの隙間から淡い光の玉がゆらゆらと踊っているのが見える。

 輪郭がぼやけたいくつもの光の玉が、揺れて重なり、踊る様子は地面に落ちた木洩れ日の光のようだった。

 ――揺るがぬ護りの白の御楯らよ……。

 幾重もの声が織り成す歌声に誘われるようにして、澄人は薄く開いた目蓋をそうっと開けた。

 淡い光の中で、澄人は自分の揃えた足の上にある手を見た。その手の中には〈彼岸ノ桜〉があった。

 角がすこし潰れて土と血で汚れた煙草の箱を澄人はそうっと持ち上げて握りしめると、祈り乞うように〈彼岸ノ桜〉を額に押し付けた。

 ――……神、山に原に旗は風にひらめく……。

 幾重いくえもの声は子供と大人のあわいのような声をしている。続く歌は本来の歌詞をなぞり続く。その言葉をかき消すような汽笛の音がして、その音の尾の消えぬ間に歌は終わった。

 ――目が覚めましたか?

 澄人はそうっと手を下ろして、顔を上げた。

 先程まで誰も座っていなかった筈の席に、何かが座っている。

〈白天ノ子〉しかまとうことを許されない純白の軍装。その軍装を纏うのは、顔のない自分だった。ひとつ違うことがあるとするならば、髪の色だ。澄人の髪の色が鴉の濡れ羽のような色ならば、目の前にいる何かの髪の色は、淡い白色をしていた。その色は、母の髪の色によく似ていた。

 その何かに向かって迷うことなく澄人は声をかけた。

「……〈鏡ノ径かがみのこみち〉様」

 すると、目の前の何かは嬉しそうに笑った。正確には笑ったことが伝わると言った方がいいのかもしれない。

 ――良かった。このまま目を覚まさなくなるかと心配しました。

 幾重もの声が聞こえる。どこか幼さを残す声を聞きながら、澄人は目だけで周囲を確認した。どこかで見たことのあるような、懐かしさすら覚える内装。

 見覚えのある金赤の、向かい合う座席は、澄人が羽坂と共に桐ケ谷と令人を送迎する時に使う一等客車の中だった。

 一等客車の座席は金赤きんあかのベルベット生地が張られた二人掛けの座席だ。向かい合わせになるように配置された座席は頭が隠れる背もたれによって半個室のような設えになっている。

 そして、黄味を帯びた色鮮やかな金赤のベルベットが一等客席の特徴だった。

「……ここは列車の中なのですね」

 自分の声に懐かしさと哀しみが滲むのに戸惑いながら、澄人は息を呑んだ。

 ――ええ。どうでしょうか。

 その声はどこか、無邪気なものだった。澄人はその声には答えなかった。

「……随分と、懐かしい夢を見ました」

 ――ええ。素敵な夢でしたね。

 幾重もの声に他意はない。澄人はそのことをよく、分かっていた。

(この人は……善悪なき神様なのだ)

「……〈鏡ノ径〉様。今、羽坂さんはどうされていますか」

 途端、笑んでいた〈鏡ノ径〉の表情が抜け落ちたようにふっと消えた。ただ、顔のない自分を模した〈鏡ノ径〉が目の前にある。

 ――何故。

 幾重もの声が後に続くように反響する。何故、を問うた〈鏡ノ径〉を澄人は穏やかな目で見つめていた。穏やかに自分を見つめる澄人に戸惑いを覚えたのか、〈鏡ノ径〉の姿が僅かに揺らぐ。

 しかし、それは一瞬のことですぐにその揺らぎは消えた。

 ――そうですね。あなたはそういう人です。だからこそ、私とこうして言葉を交わすことが出来る。

〈鏡ノ径〉の姿が高久に変わる。澄人は思わず、目を開いていた。

 ――祝い呪いは氏子のみ。まほらの呪いをこうとあらがった神が何人いたことでしょう。この呪いは否応なしに我等、産土を縛り続けています。

 高久の姿を模した〈鏡ノ径〉は無表情のまま言った。戸惑う澄人に〈鏡ノ径〉がわずかに笑む。高久の笑みそのままの表情に恐怖が満ちる。

 ――姿を模す、というのはこういう事です。高久さんはこういう笑い方をする人でしょう?

 それ以上、見たくない、と澄人が思わず握り締めた箱を前に顔を覆うと、〈鏡ノ径〉は澄人の肩に触れた。途端、澄人の肩が僅かに跳ねた。

 ――これは失礼。

 澄人の様子に気付いた〈鏡ノ径〉が澄人の肩から手を離した。

 ――そう。この方は許可なくあなたの体に触れない人でしたね。

 澄人が顔を上げると、〈鏡ノ径〉は顔のない澄人に姿を戻していた。風がないのに柔く白い髪が揺れる。

 ――いいのですか?

 幾重もの声が澄人に問う。続けざまに汽笛の音が響いた。汽笛の音が消え去った後で〈鏡ノ径〉は澄人に問うた。

 ――まほらの祝い呪いは不可侵の条約です。まほらの死の訪れぬ限り続く弥終いやはての呪い。我等が産土の力すらも及ばぬ呪いです。それでも私は、とある目的の為に人と繋がらねばならなかった。そうして幾年の月日を経てようやく繋がったのがあなただった。

 それなのに――と〈鏡ノ径〉は続けた。

 ――あなたの願いは羽坂紘太朗によって歪められた。歪められた願いはあなたに返る。今なら、まだ、間に合います。羽坂紘太朗を見捨てなさい。

 だが、澄人は頷かなかった。

 ――どうして。どうして見捨てられない……! 願いを歪めた人間など……私は!

 戸惑い、怒りに震えるような幾重もの声が響く中、澄人は窓の外を見た。流れる景色は冬の訪れを告げていた。

「〈鏡ノ径〉様。私の過去を見ましたよね」

 ――ええ。

 怒りをはらむ声をなだめるように澄人は穏やかな声で続けた。

「私は……たくさんの人に護られながら生きてきました。いえ。たくさんの人に護られたからこそ、私は今日のこの日を生きていけた」

 澄人は流れる景色を惜しみながらも〈鏡ノ径〉に視線を移した。白い髪を逆立たせた〈鏡ノ径〉から光の粒が見える。その光の粒は澄人に向かって飛んでいる。肌を弾く痛みを通して目の前の神の怒りが澄人の中に流れ込んできた。

「だからこそ、あの人に……羽坂さんに全てを負わせて生きていくことは出来ません。あの人に、兄を……いえ、専一郎を殺させる訳にはいかないんです」

 例え――と澄人は唇を震わせた。

「羽坂さんと二度と、生きていけなくなったとしても、あの人が、人を殺さずに済むならば、私はそれでいい。私と出会わなければ……羽坂さんは専一郎への憎しみもなく、生きていけた。私が、あの人の人生を変えてしまった。それでも……私は、羽坂さんと共に生きていきたいと思っている。だから、もう一度、羽坂さんに問いかけます。その上であの人がまた、専一郎を殺すと言うならば……」

 澄人は奥歯を噛みしめて〈鏡ノ径〉を見つめた。顔のない自分の姿を模した〈鏡ノ径〉の顔に、自分の顔が写る。

 母によく似た、顔だった。

「産土神と成ろうとも構いません」

 澄人の確かな声を受けて、〈鏡ノ径〉の怒りがゆっくりとおさまっていく。光の粒は花びらのように力なく落ちて、爆ぜるように消えていった。

 ――あなたが、もっと我儘な人間なら、良かったことでしょう。

 そう言った声は先ほどの怒りが嘘のように穏やかなものだった。それから長い息を吐いた〈鏡ノ径〉は、ゆっくりと問いかけた。

 ――いいのですか?

 澄人は微笑んで、静かに頷いた。澄人の姿を模した顔のない〈鏡ノ径〉はどこか物憂げな表情をしてから、澄人と同じように微笑んだ。

 そうして澄人の姿を模した顔のない〈鏡ノ径〉は、澄人の声で言祝ことほぎを紡いだ。


 ――なればこそ、後残りのない約束を。

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