三 白き語り
指先が柄に触れた時、柏手のような音が高久の動きを止めた。音は水面に生じた波紋のように広がり、何かが体を柔く包みこんだ。
それは覚えのある感覚だった。
(この感覚、どこかで……)
だが、手繰り寄せようとした記憶の糸は雨の音によって断ち切られた。
一瞬のことに呆けていた高久は雨の音で我に返るや、軍刀の柄をつかもうとした。だが、指先は柄に触れたまま、動かない。首から後頭部にかけて覆うような痺れがじわり、と広がった。
本能から来る声が不味い、と告げる。体を動かそうにも指一本として動かせない。ただ、軍刀にわずかに触れた指先の感覚だけがある。呼吸は出来る。瞬きも出来る。
恐怖に満ちる頭を落ち着かせながら高久は澄人を凝視した。澄人がどんな表情をしているのか、もう分からない。雨の音は思考を遮断するように激しく降り続け、やがて静寂が訪れた。
ゆら、と澄人の顔に落ちた影が動く。星明りに照らされた白い顔が鏡のように高久を映したように見えた。
その中の自分と目が合った時、目の前の景色が一変した。
**
弓形の山を覆うように桜の木々が咲いている。日に照らされて白く輝く桜の花は風が吹く度に花びらを雪のように落としていった。
四季ごとに咲く桜の影が絶えないことから〈
怒号と悲鳴、爆ぜる音に紛れて聞こえる微かな鳥の音は砲弾が地面に落ちた音によって聞こえなくなった。
〈花影山地〉の山の中腹、
普段は桜の絨毯で分厚く覆われた迫桜高原は北に近づくにつれて地面の色がむき出しになる。砲弾で抉られた土の上に桜の花びらが散り落ちた。
唸るような音とともに黒煙を纏う風がゆっくりと流れてくる。生き物のようにうねりながら形を変える黒煙はやがて灰色の
その中を澄人は旗を手に、〈
黒煙の中でも目立つ白い旗は風が吹く度に波のようにうねる。旗の真ん中に配置された木の幹を表した
〈白天ノ子〉は時折、声を掛け合いながら、迫桜高原を北に向かって走っていた。向かうは〈
軍事作戦が発表された時、前を行く〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉が覚悟していたのは〈
〈真平良之国〉はあくまで感染防止の為に桜を焼くという名目を掲げている。現に〈花影山地〉の桜を焼いてはいるものの、迫桜高原の下にある〈飛花之国〉に向けて攻撃はしていない。
〈飛花之国〉も〈
〈真平良之国〉に攻撃姿勢を見せた途端、〈真平良之国〉は防戦の為に〈飛花之国〉に攻撃をするだろうからだ。
無辜の民を巻き込むわけにはいかない。それなのに、発表された軍事作戦はあまりにも見当違いのものであった。〈白幹ノ国〉は〈花影山地〉の桜の延焼を止める為に赴いている。発表された軍事作戦は明らかに戦争行為であったからだ。
〈白天ノ子〉が先鋒を任されるのは、戦意高揚の為ではない。相手の戦意を削ぐ為に先鋒を任される。その為に〈白天ノ子〉は基本的に武器を持たない。
明らかなる戦争であれば別だが、武器を持たずに相手の前に出ることで
それでも刃を向けられる人間はいる。その為に背後に〈白の御楯〉が控えているのだ。彼らの軍装が黒一色なのは〈白天ノ子〉の影である為だ。
そして今、澄人を含めた〈白天ノ子〉は〈真平良之国〉の砲兵聯隊に向かって突撃しているところだった。〈真平良之国〉の砲兵聯隊は今、桜の木々に大砲を向けている。
桜の木を燃やすだけではない。炸薬の詰まっていない砲弾を木の幹に当てて木々を折っている。
木々が折られる度に山の悲鳴が上がる。
黒煙は激しさを増し、風の力も借りて生き物のようにうねりながら迫桜高原に下りて行く。〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉が北に近づけば近づく程、周囲の煙の色が色濃くなっていた。
澄人は走りながら遥か遠方にきらりと光るものを見た。
「砲兵聯隊目視!」
澄人が声を上げた時、呼応するように周囲の声が重なり合う。
〈白天ノ子〉は横並びに整列すると旗を前に掲げ持った。風に煽られ旗が波のように揺れる。〈白の御楯〉は背後に控えて、旗の隙間から相手の行動を伺い見つめていた。
「〈白幹ノ国〉帝国軍隊!」
〈白天ノ子〉のよく伸びる声が鼓膜を震わせる。
「〈真平良之国〉に告ぐ! 〈花影山地〉への砲撃中止を要請する! ただちに砲撃を停止せよ!」
風が止み、砲撃の音がより鮮明に響く。
その時、〈真平良之国〉の軍人が自国の軍人に向かって片手を上げた。遠目から見ても分かる
〈真平良之国〉の軍人はゆったりとした動きで〈白天ノ子〉に顔を向けた。その背後でゆっくりと大砲が横並びに整列を始めている。
〈白天ノ子〉から戸惑いの声が上がる。
「羽坂さん……。これは……」
澄人もまた、戸惑っていた。
「まさか……あいつら」
羽坂が大砲に目を向けた。
大砲はこちらに向けられている。なのに、砲口の角度から弾着点はここではないことが分かってしまった。
「目標位置! 〈白天ノ子〉のはるか前方!」
聞こえてきた声は〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉を困惑させるには十分だった。
「砲弾の尽きる限り射て!」
鼓膜が破れんばかりの音が響く。発射された砲弾は高々と〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉の頭上を通りすぎて、はるか後方へと落ちていった。
誰もが瞬時に理解した。同時に、理解出来なかった。
呆然とする〈白天ノ子〉に向かって羽坂が声を上げた。
「砲撃聯隊を止めろ! このままでは後方の聯隊に弾が当たる!」
咄嗟に動いたのは澄人だった。羽坂が後に続いた時、止まった時が動き出したように一気に人が動いた。
砲弾は炸薬の詰まっていない鉄製の球体とは言え、当たれば人体が破損する威力がある。それでも〈真平良之国〉はあくまでも「桜の木に向けて発射した」と主張するだろう。
「砲撃を止めなさい!」
声を張り上げた澄人に〈真平良之国〉の軍人は
驚きに目を開く澄人の背後から羽坂が飛び出し、軍人を容赦なく斬っていく。血飛沫は澄人の白い旗をまばらに染めた。
「澄人少尉!」
悲鳴のような声に澄人は振り返った。〈白の御楯〉が斬り損ねた敵の軍人が軍刀を振り上げていた所だった。軍刀は今まさに振り下ろされようとしている。
――間に合わない。
そう判断した澄人は覚悟を決めて左肩をあげた。鉄版の入った肩章で受け止めて、いなす――生存率が低かろうとも生き延びる最善の術を選んだ澄人の目に飛び込んできたのは羽坂だった。
金属の擦れ合う嫌な音と共に、血飛沫が澄人の顔に飛び散った。
「羽坂さん!」
悲痛な声と乾いた音が重なり合う。
羽坂の背中越しに軍人が地面に崩れ落ちるのを澄人は呆然と見つめていた。
小銃を手にした羽坂が片膝をつく。倒れないように地面に左手をついた羽坂の手の甲に血が流れ落ちて溜まるのを見た澄人は思わず、旗を手放した。
「羽坂さん!」
羽坂の下に駆け寄って膝をついた澄人は羽坂が倒れないように上半身を支えた。小銃を手放した羽坂は自分の左肩を押さえながら、空いた片方の手で澄人の肩を押しのけた。白い軍装が羽坂の血で染まる。
「羽坂さん……」
「澄人。やるべきことをやれ……」
だが、澄人は動かなかった。澄人の肩をつかんでいる羽坂の手首からぽたり、と血が落ちる。血は地面の僅かに残った花びらの上に落ちた。顔面蒼白になる澄人の襟首を羽坂はつかんだ。
「俺は……大丈夫だ! 良いから……行け!」
「嫌です! あなたを置いていけない!」
「
羽坂のがなる声に澄人は息を詰まらせた。羽坂は澄人を睨みながら、淡々と問うた。
「谷屋澄人少尉。あなたは今、何をしている?」
大怪我を負ったとは思えぬしっかりとした声だった。呆然として答えぬ澄人にむかって羽坂は叱咤した。
「旗を手放すとは何事だ! 谷屋澄人少尉! 今のあなたの役目は何だ! 答えろ!」
澄人は目を開いて地面に投げ捨てた旗を見た。白く輝く国の
例え、仲間が銃創に斃れても、手放してはならぬと教えられた白き御旗を見つめた澄人は声を張り上げて答えた。
「後方の仲間に砲弾が当たらないよう〈真平良之国〉の砲兵聯隊を止めることです!」
澄人は羽坂を支えたまま、羽坂の
「澄人……。我儘を言って良いか」
「はい」
「あなたの〈皎衣〉を使わせてくれ」
「羽坂さん……」
「……こんな時に悪いな」
澄人は涙ぐみながら首を振った。背嚢から自分の〈皎衣〉を取り出して羽坂に被せると、まずは足に巻き付けて飛ばされないように固定した。
「羽坂! お前大丈夫か」
慌てて羽坂と澄人の下に駆け寄ったのは羽坂の同期であり、〈白の御楯〉である
「城ノ戸軍曹……。羽坂さんが……」
「分かっている。傷が思ったより深い。衛生聯隊がここに来るのはおそらく、困難だろう。だから」
「城ノ戸」
羽坂は城ノ戸の伸ばした手を声で制すると、鋭い目を城ノ戸に向けた。
「……俺は動けない。だから、澄人を頼んだ」
城ノ戸は驚きに目を開いたが、即座に頷いた。
「分かった」
「……澄人」
羽坂の上半身に〈皎衣〉を被せようとした澄人の頬に羽坂の手が伸びる。澄人はその手を咄嗟に握りしめた。羽坂の手を握りしめる澄人の手は震えていた。
「いいか……。生きて……帰れよ……」
「はい。羽坂さんも絶対に生きていてくださいね」
「ああ……」
「絶対に……絶対ですからね……」
羽坂は力なく微笑んで頷いた。澄人は羽坂の手を体の上にゆっくりと下ろした。
「澄人……。俺の〈皎衣〉はちゃんと返せよ」
それは違いなく、生きて帰って来い、の意味を込めた羽坂の言葉だった。澄人は力強く頷いた。
「いってまいります」
精一杯の微笑みを羽坂に向けた澄人は、城ノ戸と共に羽坂の頭まで〈皎衣〉を被せて固定するや、地面の上の旗を持ち上げた。
「向かうは〈真平良之国〉の砲兵聯隊! 後方の仲間達に砲弾の降り注がぬよう砲台を奪います!」
澄人の声に呼応するように味方の声が応答する。
澄人は羽坂を覆う〈皎衣〉を一瞥してから城ノ戸と共に目標に向かって走った。
〈真平良之国〉の砲兵聯隊から砲台を奪うのは簡単だった。何故なら彼らは最初こそ抵抗するものの、〈白天ノ子〉が砲台に近づくと簡単にその身を差し出して〈白の御楯〉にあっさりと斬られてしまう。或いはさっさとその場から離れて逃げてしまう。
敵軍の砲兵聯隊は自国の砲弾の弾道が干渉しないよう配置されているようだった。奥に進めば進む程砲台の数は増える。それなのに、持ち場を守る気配が〈真平良之国〉からは微塵も感じられなかった。
「澄人少尉」
砲台から離れて逃げた敵の軍人を見ていた澄人は、ふり返って城ノ戸を見上げた。
「城ノ戸軍曹……」
「何かが可笑しい」
澄人も何か気付いたのだろう。険しい顔をはるか先の砲兵聯隊に向けた。
「はい。可笑しいです。この大砲、〈真平良之国〉の経済状況を考えれば決して安い武器ではない筈です。なのに、彼らは最初を除いて、私達が近づくと砲台を置き去りに逃げていきます。……まるで、奥へ奥へと誘われている感覚です」
城ノ戸は眉間の皺を深めて頷いた。
「ああ。俺達が砲台を奪っても、はるか前方にいるあいつらは自国の軍人を助けようともしない。何が目的だ……」
城ノ戸は迷っている様子だった。
ここから先に向かうべきか、澄人も判断しかねている様子だった。周囲の〈白天ノ子〉もまた、〈真平良之国〉の軍人の様子に違和感を覚えている様子だった。
先に進めば進む程、違和感が大きくなる。
その時、
「この音は!」
城ノ戸はあらん限りの声を張り上げて叫んだ。
「全員衝撃に備えろ!」
北の方角から照明弾が上がった時、〈白の御楯〉が一斉に自分の背嚢から〈皎衣〉を取り出した。遅れて〈白天ノ子〉も自分の背嚢から〈皎衣〉を取り出したその時、発砲音が聞こえた。
澄人は発砲音に目を向けて、そして、絶句した。
目の前を人が走っている。
逃げるように走る人は〈真平良之国〉の軍人ではなく、着ている服から〈飛花之国〉の〈
〈山ノ守名〉はその名の通り、山を守る番人だ。〈花影山地〉の桜を管理し、守り育てる人々――。その姿は煤と血に汚れていた。最後まで桜を守っていたのだろう。血に濡れた姿を前に澄人は叫んだ。
「皆さん! 〈山ノ守名〉の救助に当たってください!」
澄人はその時、逃げるように走る人の背後に立つ〈真平良之国〉の砲兵聯隊を見た。彼らは何をするでもない。ただ、直立不動の姿勢を取り、覚悟に満ちた目で〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉を見つめていた。
「捕まえて気絶させろ! 〈皎衣〉を被せて守るんだ!」
城ノ戸の声に澄人は〈山ノ守名〉の下に走ると、気絶させた。そうして二人気絶させた澄人はまとめて仰向けに並べると、羽坂の〈皎衣〉を使って体を巻き込むように被せて固定した。
澄人は逃げている〈山ノ守名〉がいないか確認する為に顔を上げた。
その時、弧をかいてゆっくりとこちらに落ちて来る物体を澄人は見た。澄人は驚きに目を開き、そして、諦めたように目を閉じた。どうにもならない現実を受け入れた人間の落ち着きだった。
「澄人少尉!」
名前を呼ばれた澄人が地面に引きずり倒される。背中を強かに打ちつけて痛みに呻く澄人を引きずり倒したのは、澄人の同期である
「颯さん?」
驚きに目を開く澄人を前に颯は切羽詰まった表情で澄人に覆いかぶさった。
その上から城ノ戸と颯の〈白の御楯〉である
「動くな!」
体の動きを止めた澄人を見届けて、軍曹二人はにっこりと笑った。
「生きろよ」
その言葉を最後に澄人と颯の上に〈皎衣〉が被せられた。太陽を背にした大鷲が目に焼きついた後で目の前は真っ暗になった。そして――地を震わすような轟音がその場にいたものの命を吹き飛ばした。
**
高久は今、何が起きたのか分かっていなかった。右手で口をつかむように押さえた高久は、いつ、自分が動けるようになったのかも気付いていなかった。
ただ、今しがた、あの日の澄人をこの目で見てきたような、どこか白昼夢の中を歩いているような感覚が高久を支配していた。
ただ、高久は混乱する中で、分かったことがあった。〈
〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉。彼らの死の原因は今に至るまで謎のままだった。全員が〈皎衣〉を持っていたにもかかわらず、半分以上の〈皎衣〉が使われた跡がないことが戦況検分で分かっているのみだった。
〈白の御楯〉は全員が〈皎衣〉の上に覆いかぶさるように死んでいたと戦況検分を行った者が記録しており、誰を守っていたのかまでは不明だったのだ。
生き残った〈白天ノ子〉はあの日を境に辞職した。〈飛花之国〉も何も言わなかった。いや、言えなかったと言った方が正しい。
(あれは……言える筈もない……)
戦況検分をした者は迫桜高原のあまりの惨状に無理に聞かない方が良いと進言したのだ。故に謎のまま今に至ることとなったのだ。そしてその見立ては正しかったといえよう。
「……あの時、降り注ぐ
澄人は、あの日死んでいった軍人を悼むように言葉を紡いだ。
「目的はおそらく、私達〈白天ノ子〉です。後方にいる〈白幹ノ帝国軍〉にあえて砲弾を落とすことで、私達には後方にいる仲間に砲弾が当たらないよう自軍に向かわせる……。そうして私達を奥へ奥へと誘いこんだ。そして、〈山ノ守名〉をあの場面で逃がすことで、〈皎衣〉を使わせ、〈白幹ノ国〉の榴弾砲によって私達を殺そうとしたのです」
高久は澄人の話を聞きながら〈真平良之国〉に対する怒りが抑えきれないでいた。〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉が自分の命ではなく、民間人の命を優先することを知っていて〈山ノ守名〉を利用したことに、ただただ、怒りしか湧いてこなかった。
犠牲になったのは〈白幹ノ国〉の軍人だけではない。〈真平良之国〉の軍人もまた、分かっていて犠牲になったのだ。彼らにも帰る家があっただろうに哀れでならなかった。
(卑劣なことを……!)
目の前が真っ赤になるような怒りを湛えた高久に耳に澄人の優しい声が届く。
「高久さん」
高久が顔を上げると、澄人は窓の外を見つめていた。
「……私達が気付いた時には夜でした。こんな風に星が見える夜でした。星明りを頼りに声をかけ合い、〈山ノ守名〉の無事を確認し、その日は身を寄せ合って夜を過ごしました」
澄人は淡々と――語った。ともすれば決壊しそうな感情を押さえつけるような話し方だった。
「迎えた朝に見たあの光景を私は忘れることはないでしょう。生き残ったのは私も含めた〈白天ノ子〉十人。〈山ノ守名〉四十八人。……残念ながら二人、途中で覚醒して〈皎衣〉から出てしまったようです」
救えなかった命を悔いるように澄人の声は震えていた。
「……この後、私達は衛生聯隊によって〈山ノ守名〉と共に一度、〈飛花之国〉に下り、三日程、滞在しました」
その後、〈白幹ノ国〉に帰った彼らが何を見たのか、ここからは高久も知っている。
高久が澄人の生存を知ったのは〈白幹ノ国〉に戻ってから三日後、病棟の寝台の上でのことだった。未だ意識不明の羽坂の隣でどれだけ安堵したことだろう。
ただ、その時に〈白天ノ子〉十人生存の報があったにもかかわらず、別の場所では全員死亡の報が誤って届いてしまった。参謀本部少将である
そのことに誰も当日まで気付けなかったのは、杜撰だったと言わざるを得ない。どこで情報網が途絶えたのか、行き違いが起きてしまったのか、ともかく〈軍葬ノ列〉は進められてしまった。
当日、慌てて執務室に入ってきた当真に告げられたのは、〈白天ノ子〉の遺影に生存者が含まれているということだった。
折しもその日、〈白天ノ子〉が戻ってくると聞いていた高久は執務室を飛び出すや、〈
白の世界が歓喜の声に満ちる。
熱狂して酔い痴れる群衆を前に哀しみを覚えたあの日を忘れることはない。
死は、美徳ではない。それでも、いつか麻痺していく。彩られた死程、人の心を打つ。〈花影山地〉の桜を、〈飛花之国〉の人を守る為に死んでいった〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉――それは、彼らにとっては美しい物語なのだろう。
軍人にとっては救われぬ物語でしかない結末だとしても、軍人ではない彼らにとっては違うのだと突き付けられた日だった。
お涙頂戴の物語で人々の軍に対する心を繋ぎ止めてはならない。
それでもこの国は軍と無縁ではいられない。国を護る為の軍事力は必要だ。生を望みながら死地に送り出す矛盾を知って尚、高久は教官を続けている。
(私の覚悟を、軍人でない人間に押し付けてはならない)
それでもやり切れぬ思いが常に心の奥底に沈殿している。
「あの日のことを……私は今もよく覚えています」
思考が読まれたような気がして高久は顔を上げた。途端、ふっと車内が暗くなり、トンネルに入ったことを告げる。
「――あの日、〈白幹ノ通〉を歩いていた私達が目にしたのは、自分達と……死んでいった〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉の死を悼む群衆でした」
短いトンネルを抜けた時、暗い車内が星明りによって明るくなった。
澄人の白い軍装が、白い顔が、星明りによって仄淡く浮かび上がった時、高久は我が目を疑った。
端整な目鼻立ち。形の良い二重の、色素の薄い灰色の瞳が星明りの中で高久を見つめている。
そうして目を瞬かせた高久は澄人の顔を見て驚きに息を呑んでいた。
澄人は、見る人が思わず息を呑んでしまうような、作り物めいた顔をしている。その人が美しいと信じて彫られた彫刻のような非現実的な顔だ。憂いを帯びた儚げな見目でありながら、そう見えなかったのは澄人が毅然とした人間だったからだ。
高久を見つめる目は柔い色彩の下に強い意志を秘めている。覚悟を決めた人間の力強い目だ。
驚きに声を失う高久の前で、澄人は目を細めて柔らかに微笑んだ。
「高久さん。あの日、私達は自分の意思で〈白幹ノ通〉を通ることを選びました。通らなければならなかったんです」
澄人はそうっと目を閉じた。
「揺るがぬ護りの白の御楯らよ……」
澄人の歌声はとても柔らかなものだった。澄人は元々、性別の匂わぬ声をしている。歌を歌うことで柔らかな声はいっそう、耳朶をくすぐるような響きを伴った。
目をそうっと開けた澄人は高久を見た。人をまっすぐに見つめるその目は星明りによって煌めいている。色素の薄い灰色の目。それは今、白銀色のようにも見えていた。
「この歌は歴代の〈白天ノ子〉が〈白の御楯〉に向けて歌うものでした。いつからかこの歌は民間人の間で〈白天ノ子〉を称える歌へと変わっていました」
澄人は寂しそうな微笑みを浮かべた。
「高久さん。私達、本当は〈白幹ノ通〉を通らずとも、良かったのです」
高久は無意識に息を呑んでいた。
耳の奥で、歌が聞こえる。
――揺るがぬ護りの白の御楯らよ
御国を護ると笑う
我らは忘れはせぬぞと誓う
歓呼の声が大きくなる。その中でむせび泣く声が聞こえる。耐え切れずにその場を離れる者もいた。あれは、〈白の御楯〉である人を亡くした女性の姿だった。
――帝国精神 山に原に旗は風に
ああ! 我等の
歌はいつしか言葉を変える。
言葉を変えて、形を変えて、いつしか本当の意味までも歪めてしまう。
ぽたり、と雨音が聞こえる。
「澄人……」
雨音はゆっくりと、落ちる。頬を伝い、顎に留まり、流れた雨に押しやられるように落ちていく。
澄人は表情を変えぬまま、色素の薄い灰色の目から涙を流していた。
「……駄目です」
澄人の声が僅かに震える。
「これだけは、私の口から語らなければならない。私は……」
澄人の言葉が止まる。
「澄人。もういい」
高久は思わず澄人の肩をつかんでいた。だが、澄人は首を振った。
「お願いします。高久さん。聞いてください」
澄人の手が高久の腕に伸びる。
「言わないと……もう……時間がないんです」
「え?」
その理由を問う前に澄人が言葉を続けた。
「あの日……私達は、覚悟を決めたのです。あの場所を通ると決めたのは、あの歌を聞いてしまったからです。あの歌は……あの歌は私達を称える歌であってはならない」
「澄人!」
「違う……。違うんです。こんな、こんな泣きながら、あの日を語りたくなかった……! 泣いて……私は泣いてはならないんです!」
「それは違う!」
顔を上げた澄人が驚きに目を開く。その両目から涙は絶えず溢れてくる。涙を湛えた瞳は澄んでいた。高久はその目を見つめたまま、淡々と言った。
「澄人さん。泣いていいのです。語りながら、泣いてもいいのです。怒りながらでもいい。笑いながらでもいい。ふざけていてもいい。語るということは真実の再確認です。心を軽くする一方で、心を傷つける行為でもあります。本来なら、落ち着き語れるものではないのです。……澄人さん。ここにはあなたと、私しかいません。泣いてもいい。怒ってもいい。どんな語りだろうと私はあなたの言葉を受け止めます。同時に、語りたくないことは一生、口を閉ざしてもいいのです」
澄人の彫刻のような顔がぐしゃり、と歪む。
「た、たかひさ、さん……」
「はい」
「わ、私はあんな風にあの歌を歌って欲しくなかった! 私は、自分の力で生きのびたんじゃない! 〈白の御楯〉の方達が……命を懸けて救ってくださった! 私は……私はあの人達のおかげで生きているだけなんです! なのに……なのにどうして」
白世界が白に満ちる。
花が舞う。
歌が響く。
高らかに響くあの声を裂くように澄人が叫ぶ。
「どうしてその人達の死の前で栄えある〈白天ノ子〉なんて歌えるんですか!」
悲鳴のような声だった。澄人はか細い声でしゃくりあげた。
「分かって……いるんです。こんなのは、ただの、八つ当たりだと……。あの日、あの場所にいた人達は、悪くない。それでも、それでも……私は、あの道を通らなければならなかった。それは、他の方も同じでした」
澄人は深く息を吐き、そして吸った。
「私達があの道を通ることで〈白の御楯〉の方達への弔いをする。その為に私達は敢えて、〈軍葬ノ列〉の最中を通ることにしたのです。でも……私は、あの時、突きつけられてしまった」
あの時――と澄人は声を震わせた。
「行列の中に私の父と兄がおりました」
高久の腕に縋る澄人の手に力が込められる。
「兄は、兄は……私を見るや驚き、……殺意を籠めた目を向けました。兄の目を見た時……私は、嫌でも分かってしまいました」
澄人が浅く呼吸をする。高久はただ、澄人の顔を見つめるしか出来なかった。涙は今も尚、頬を伝い流れ落ちる。
「高久さん。迫桜高原で皆様が死んだのは、私のせいなんです……」
途端、高久は〈
――
胸に迫る悲しみと怒りが入り交じる感情に困惑していると震える澄人の声が高久を我に返らせた。
「高久さん……どうして……兄上様は私を」
澄人はとうとう堪えきれず、俯いた。拍子に、涙が床にぽたりと落ちる。その先の言葉に高久は声を失った。
「私だけを殺してくれなかったのですか……!」
高久は澄人の言葉に答えてやることは出来なかった。澄人の悲しみは兄に殺されそうになった悲しみではない。
「無謀な軍事作戦を立ててまで、多くの人を巻き込んでまで……どうして……。……私の為に、多くの人が死んでいった……。生きていて……生きていて欲しかった……城ノ戸軍曹っ……稲生軍曹……」
〈迫桜高原ノ乱〉で死んでいった仲間の名を呼ぶ澄人に高久は胸をつかれた。歯を食いしばり、仲間の名前を呼び続ける澄人の声を聞くことしか出来なかった。
澄人がずっと抱えていたことはあまりにも重かった。自分の命が奪われそうになった悲しみではない。仲間の命を奪われた悲しみをずっと、抱えて生きて来たのだ。
――生きて欲しかった。
何度も繰り返す、切なる願いの叶わなかった悲痛な声に高久は思わず、あの日、生還した〈白天ノ子〉を抱き締めたように澄人を抱き締めた。
感情を必死で抑えていた澄人はとうとう感情をせき止めることが出来ず、決壊したように声をあげて泣き始めた。
澄人の
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