五 穏やかな夜

 すっかり日が暮れて暗くなった道を少ない街灯が照らす。カンテラを手にした伊織いおりの案内で〈顔迎ノ駅かんばせむかえのえき〉まで続く道を高久たかひさ澄人すみとは並んで歩いていた。

顔無之村かんばせなきむら〉の東に位置する最寄り駅は村から離れている。カンテラが照らす道を歩きながら伊織が顔を上げた。

「すっかり日が暮れてしまいましたね。丁度、田んぼに星空が映し出される光景をお見せすることが出来て良かったです。まるで幻想的な空間の中を歩いているようでしょう?」

 あんなことがあったにもかかわらず、伊織の声は最初に会った時と変わりない。

 高久は田んぼを見た。水を張り鏡のようなった田んぼに映る星は地平線の星空と混じり、溶け合いそうな程、はるか先まで続いている。左右どちらを見ても続く星空は夜空の中を歩いていると錯覚しそうな程だった。

 澄人は沈黙したまま、前を向いて歩いている。その表情は闇に隠れて見ることは出来ない。そのことに高久は安堵していた。どこか張り詰めた雰囲気の中で伊織の明るい声が飛んできた。

「風もなくて、空が澄んでいるから今日は一層、綺麗ねえ。高久さん。澄人さん。あなた達は本当に運が良いですよぉ」

 伊織の手のカンテラがゆらゆらと揺れて地面に落ちた光が踊る。悪意の欠如故の行動なのか、それとも単に豪胆なのか――高久は伊織に問うた。

「……伊織さん。あなたはどこまで知っていたんですか?」

 静けさが訪れて、星空が満ちる中で歩く音だけが響く。しばらくの沈黙の後で伊織は声をあげて笑い出した。

 堪えきれなかったものを発散するような笑い方だった。

「高久さん。澄人さん。見ましたか? 高久さんに怒られた時の村長さんの、真っ赤な顔! 傑作でした!」

 カンテラを揺らし歩きながら伊織は笑った。ひとしきり笑ってから伊織はため息をついた。

「ああ……。本当に胸のすく思いです。高久さん。ありがとうございます。あの子達の為に怒ってくれて」

「いえ……。あの子達が村に居づらくなるようなことがなければ良いのですが」

「それは問題ございません。皆さん、村長さんに何も言えなかっただけで、可笑しいことは分かっていたんですよ。村長がああなった今、もう何も心配はございません」

 伊織はあっけらかんと言い放ったが、それはそれで問題だろう――と言いかけた言葉を高久は飲み込んだ。伊織が口を開く気配がしたからだ。

「ごめんなさいね。本当はもう少し早く止めるべきでした。……ですが、木吉きよしの様子を見て、しばらく様子を見ることに甘んじておりました。結果として丸く収まりましたが、あの子達に酷な言葉を聞かせてしまうことになりました」

 伊織の言葉の様子から高久は木吉が言葉を交わすことが出来る子だと確信してしまった。木吉は結局、最後まで澄人に懐くことはなかった。最後まで高久や源九郎げんくろうの後ろに隠れたまま、澄人を見つめていた。その行動が意味することを高久は分かっていた。

 木吉は産土神をおそれている。顔之尊かんばせのみことを畏れて高久の後ろに隠れたように、澄人に対しても畏れていたのだ。

 ――澄人は、産土神にりかけているのかもしれない。

 隣に並んで歩いている澄人の顔を高久は未だに見ることが出来ないでいる。

「……木吉さんが産土神と話せる子であることをあなたは知っておられたのですね」

「勿論です。十二年も言葉を聞いていれば、嘘を吐いている子と吐いていない子がよく分かります。……後はこのまま、何事もなく言葉を交わせなくなることを祈りましょう」

「はい。そうあって欲しいものです」

「……高久さん。改めて、あの子達の為に怒ってくださったこと、お礼を申し上げます。この先のあの子達にとって、救われる言葉でした」

「そうでしょうか」

「ええ。あの場でかばってくれた大人がいたことは彼らにとって救いになります。それは確かです。……救われなかった子達を見てきましたから」

 伊織は悔恨を滲ませた。

「……あの子達から姉さん方のお話を聞きましたか?」

「はい。〈顔捧之儀かんばせささげのぎ〉を本来の儀式に戻すよう尽力された方達だとお聞きしました」

「その方達は、私の親友です」

「えっ……」

 思いがけない真実に高久は驚きの声を隠さなかった。高久を驚かせることが出来た伊織の嬉しそうな様子が背中からも伝わってくる。

「ふふふ……。これでようやく、村に意趣返し出来ましたわ。村長さんにとっては痛いしっぺ返しでしょうけどね」

 高久は茫然自失の上梨の姿を思い出した。あの後、上梨は源九郎と周囲の力のある人間が抱えて連れて行ったのだ。連れて行かれる間も上梨は何かを怖がるように何度も悲鳴をあげては謝ることを繰り返した。

「……高久さん。村長さんのことを心配しない私を酷いと思われるかしら?」

「いいえ」

 それは本心からの言葉だった。上梨は己を過信した。その末が産土神による容赦のない制裁だった。それだけだ。

「でも、村長さんの名誉の為に申し上げておきますと、あの方は村にとって必要不可欠な存在でした。〈外之交そとのまじわり〉において村長さんの外交術は我が村が生きていくのに欠かせないものだったからです。〈顔捧之儀〉以外においては真っ当な人でしたから、今まで誰も強く言えずに目を背けて来たんです」

 だから――と伊織は悲しそうに続けた。

「私の親友達を村から追い出した時も誰も何も言わなかった。言えなかったんです。かく言う私もその一人です」

 そう言った伊織の声は悲痛に満ちていた。

「あなたにはあなたの目的があったからなのでしょう」

「それでも、声を上げるべき時ってあるでしょう。あなたがあの子達の為に声を上げたように……。でも、私はその道を選ばなかった」

 伊織はきっぱりと言い切った。

「高久さん。村長さんがあそこまで〈顔捧之儀〉を元の形に戻さなかった理由は、彼もまた、意趣返しなのですよ」

「それはどういう意味でしょうか?」

「始まりは七十年前の〈顔捧之儀〉です。あの年に残された人の間で儀式を行うしかなかったことをご存知でしょうか?」

「はい」

「話が早くて助かります。あの当時、儀式において大人が子どもに触れるのは御法度でした。仕方のないことではありましたが、随分と批判されたそうです。その結果、その人は自殺してしまった。その人が村長さんの年の離れた友人だったのです。村長さんが頑なに儀式の形を変えなかったのは、亡くなったその方の為――そして、〈のっぺらぼう〉の弔い合戦だと、亡くなった曾祖母から話を聞きました」

 今も覚えている――と伊織は続けた。

「だからといって村長さんのしたことが正当化される訳ではありません。私が曾祖母から話を聞いた今思うのは、その為に他者に犠牲を強いた嫌悪感です」

 伊織は顔を上げた。どこまでも続く吸い込まれそうな星空を愛しむように見ながら伊織は歩いていた。

「それを美談として話す曾祖母も、大嫌いでした。一人の人間を自殺にまで追い込んだ当時の人の行為は当然、断罪するべきです。……ですが、関係ない人を巻き込んで犠牲を強いることはあってはなりません」

 伊織の声には隠し切れない怒りが孕んでいた。

「高久さん。私は自分の一族が好きで、嫌いです。悪意がない故に自分が加害者である可能性を推し量ることが出来ないからです」

 それは寄り合いの場で高久が感じていたことだった。

 悪意の欠如はともすれば善悪の欠如だ。善意の下に悪事を行えてしまう危うさが彼らにはある。そこに伊織は気付いていたのだ。

「〈のっぺらぼう〉に悪意がない故に……〈顔捧之儀〉に異議を唱えようと、村長さんはそれを理由に突っぱねて来た。〈のっぺらぼう〉の一族も自分に悪意がない故に容認してきたんです。自分がどう思うかではなく、相手がどう思うか……。そこが分からないからこそ、七十年前から今に至るまで〈顔捧之儀〉の形は歪められてきたのです」

 カンテラの金属が擦れあう音が聞こえる。橙色の光が地面とそれぞれの足元を踊るように照らしている。

 でも――と伊織は明るい声の調子を少しだけ取り戻した。

「今日、全てが報われた。まさかこんなにもあっさりとした幕引きになるとは思いませんでしたけども、村長さんには良い薬でしょう。それにしても何を見たのかしら」

 想像したくないけれども――と伊織は笑った。

「伊織さん。あなたはいつからこうなることを想定していたのですか?」

「あら。私を買いかぶりすぎですよ。今日、村長さんが使い物にならなくなるとは思いませんでしたから。でも、そうね……。親友達の〈顔捧之儀〉からかしら」

 高久は七つにならぬ時から先の為に決意していたということに驚いた。

「随分と……長い間待ったのでは?」

「はい。長い意趣返しでしょう。その間に色々と事を進めてきました。村長さんが必要不可欠な存在で、誰も逆らえないのなら私が代わりになろうと決めたんですよ。ふふ……案内役として顔はありませんけども、あちこちの国、町、村に顔を売り、時に村長さんの代わりを務めたこともあります。おかげで村長さんの信頼を得るのは楽でした。私が〈のっぺらぼう〉の一族であることも幸いしました」

「……声をあげなかった理由はそれで充分でしょう」

 それでも伊織は首を振った。

「親友達も同じことを言いました。それでも、私はあの日の自分を許すことはないでしょう」

 それは辛い罰ではないか、と高久は思ったが口に出さなかった。

「それでもあなたが尽力したおかげで、救われた人は多い筈です。少なくともこの十二年間、本来の〈顔捧之儀〉に戻すことが出来ました」

 伊織は首を振った。

「それはあの子達の力よ。私はただ、あの子達とのかんばせ様との楽しいお話を村中に広めただけです。それはもう……楽しそうにね。かんばせ様のお言葉とあれば、村長さんも無下には出来ないでしょう?」

 明るい声で言った伊織のしたたかさに高久は嬉しそうに口の端をあげた。

「あなた、策士ですね」

「そうでしょう。おかげで頼られるばかりで、村に同年代の友人はおりませんわ」

 伊織はころころと笑った。暗闇の中で淡く浮かぶ駅の姿が近づくと、伊織はゆっくりと速度を落として立ち止まった。高久と澄人も同様に立ち止まると、伊織は振り返った。

 カンテラの橙色の灯りが三人を照らす。

「高久さん。実は私、寄り合いの場では、少しはらはらしていたのですよ」

「え?」

「飲食禁止のことです。もし、高久さんが飲食しなかったら、村長さんはあなた達を帰していました」

 高久は寄り合いでのことを思い出して、苦笑した。結果論として毒は入っていなかったが、〈白の御楯〉としては良からぬ行為であることに変わりはない。

「……確かにそうかもしれませんね」

「ふふ……。お気持ちは分かりますけど、村長さんのような人は毒を盛ることをしません。むしろ、飲食しなかったことを盾にあなた達を追い詰めます。軍人さんに言うことではありませんが、食べて信頼を得ることもひとつの戦略ですよ」

 それは結果論だ。それでも、高久は頷いた。

 伊織もまた、分かっているのだろう。優しい笑顔を浮かべた伊織は最後に表情を消した。

「高久さん。常和ときわに伝えて頂きたいことがあります」

「はい」

「村に戻ることは許しません。あなたのしたことは人助けではなく、犯罪です。自分の罪に向き合い、償いなさいとお伝えください」

 伊織は表情のない顔で言った。高久は表情の見えぬ伊織に向かって敬礼した。

「承知致しました」

 伊織はすぐに満面の笑みを見せて、前を向いて歩き出した。

「今日は本当に運が良いわあ。星は綺麗に見えるし――」

 その先を伊織は言わなかった。それから三人は駅までの星降る道を静かに歩いていた。


 速度を落として走る蒸気機関車が時折、縦に揺れる。

 高久と澄人が向かい合って座っているのは鍵付きの個室だった。扉を閉め切った真っ暗な個室の中で星明りが互いの顔を照らしている。

 列車の車窓から見える景色は幻想的で美しいものだった。地平線の先まで続く星空は澄んだ空も相まってどこまでも、どこまでも続いていた。

 美しい景色に後押しされるようにして高久はようやく澄人の顔を見た。最早、澄人の顔に表情を読み取ることは出来なかった。それが当たり前なのだ。澄人もまた、高久をまっすぐに見つめていた。そこに顔はない。星明りの中で白い顔が淡く浮かび上がるばかりであった。

 もう、目は逸らせない。違和は今や弾ける寸前にまで来ている。なのに、弾けないように抑えつけているような妙な感覚が拭えなかった。

(この期に及んで……自分はまだ、認めたくないのだろう)

 産土神に成りかけていることを認めたくない。〈顔無之村〉への来訪はあくまできっかけに過ぎず、恐らくは何年か前から予兆はあったのだ。

 そこに高久は気付けなかった。そのことがただ、悔しかった。

 国に帰ればこのことを報告しなければならない。途端、疲れ果てた友の顔を思い出して胸に苦いものが広がった。

羽坂はざかなら……澄人と共に国を出て逃げるのだろう)

 羽坂なら絶対にそうするだろう。

「……澄人さん」

「はい」

 言葉が通じるうちはまだ、産土神ではない。叶うならどうか、このまま神に成ることなく人として生きていて欲しい。

「――お前は誰だ」

 産土神の言葉が分かるのかと問おうとした高久は自分の口から出た見当違いの言葉に驚愕した。だが、澄人は動じることなく高久を見つめている。

「……何故、そう思うのでしょうか?」

 澄人が穏やかに問いかけた。途端、寄り合いの席での違和感が一気に噴き出した。

「寄り合いの件だ。あの場で澄人さんならば、絶対に食事に口をつけることはしません。どのような場でも澄人さんは断ります。澄人さんは自分が潔白である為に他者を犠牲にすることはしない。共に地獄を歩くと言う人だ」

 雨の音が聞こえる。雨音が強くなる気配に身構えた高久は澄人の言葉に面食らった

「……人は、変わるものですよ」

 雨の音は消えて、澄人の優しい声だけが耳に届く。

「人は変わるんです。高久さん。変わらずにいられる人なんて……いないのですよ」

 星空が視界の端を流れていく。互いの顔を星明かりが照らす中で澄人の表情はやはり、見えなかった。澄人はどんな顔をしているのだろう。どんな表情で自分を見つめているのだろう。顔のない澄人を前に表情が見えないのが歯がゆかった。

「高久さん……〈白幹ノ国しろもとのくに〉まではまだ、遠いですね」

 澄人は窓に顔を向けた。どこまでも続く星空の、ゆっくりと流れる景色を堪能しているかのようだった。

「私が変わったと感じるならば、それは屹度、〈迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉がきっかけです」

 澄人が自分を見る。澄人にやはり顔はなかった。そして――どんな表情をしているかも分からない。

「高久さん〈迫桜高原ノ乱〉……あの時、あの場所で何が起こったのか……聞いていただけますか?」

 弾けそうで弾けぬ違和を受け入れるようにして高久は頷いた。長らく聞くことの叶わなかった〈迫桜高原ノ乱〉。あの時、澄人の身に何かあったのか――高久は知りたいと思ったのだ。

 星降るような夜が映る窓を前に語られたのは美しい星空を黒く塗りつぶすような無惨な戦争の形だった。

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