二 善意

 上梨かみなしが叩いた手の音を合図に大広間の両扉が開いた。そこに現れたのは先程、高久たかひさ澄人すみとに水張り田んぼの説明をしてくれた赤子を背負った年若い男性だった。

 年若い男性はお盆を手に入って来た。その上には白い艶消しの急須と湯呑みが並んでいる。

 高久は用意をしてくれただろう若い男性を見て、申し訳ない気持ちになった。

いつきさん。こっち」

 樹と呼ばれた年若い男性は実乃みのに手招きされ、ここよ、と床を叩いた場所にお盆を置いた。それから布巾を使って実乃と余四郎よしろうの間に入り、囲炉裏の自在鉤じざいかぎから鉄瓶を外した。

 次に急須の蓋を外して鉄瓶のお湯を注ぎ、しばらく蒸らしてから、湯呑みに出来上がったお茶を注いだ。

 高久は湯呑みの数に自分たちが入っていることを確認すると、即座に樹に声をかけた。

「申し訳ございませんが、我々は頂けません」

 高久の言葉に樹は驚いた顔を向けた。乙顔おとがお家の面々と村長である上梨も驚いた表情を隠さなかった。

「そうなのですか……。いえ、うちにいらっしゃる軍人さんはいつも飲食されていたので……」

 樹が驚いた顔をするのも無理はない。何故なら〈顔無之村かんばせなきむら〉を訪れる軍人は飲食を許可されている。それは〈顔無之村〉の等級によるものだ。

 仮に食事に毒を盛り、〈白幹ノ国しろもとのくに〉の軍人に何かあったとなれば等級が変わることは免れない。そういう意味では軍人が飲食出来る村というのは信頼の証であった。

 基本的に〈白幹ノ国〉の軍人は余所に赴く時、出されたものを口にしない決まりがある。毒を盛られる可能性があることを考えてのことだが、実際に毒を盛られる可能性は限りなく低い。軍人の食事に毒を盛れば、条例違反ともなり、等級が変わることは避けられないからだ。

 それでも高久が飲食を断ったのは〈白天ノ子はくてんのこ〉である澄人がいるからだ。

〈白天ノ子〉は前線を先駆ける役割を担う為に、軍隊の士気の要の一つでもある。士気を削ぐ為に敢えて命を狙う者も多く、〈白天ノ子〉と〈しろ御楯みたて〉は例外的に飲食を禁じられている。

 それは例え、等級の低い〈顔無之村〉であろうとも、同じことだった。

「我々は軍務で来ております故、規定でお茶を頂くことは出来ません。お気持ちだけ頂戴いたします」

 その時、その場の空気が変わった。戸惑いの声が広がる中で上梨の険しい視線が高久を突き刺している。明らかに変わった空気に高久は不安を覚えていた。

「そうですが……。残念ですが、そういうことでしたら、軍人さんにご迷惑をかけてはいけませんからお下げします」

「そうしてくださると助かります」

「待ってください」

 寂しそうな表情を浮かべて立ち上がろうとした樹を澄人が呼び止めた。

「高久さん。いただきませんか?」

「はっ?」

 高久が思わず、戸惑いの声をあげる。澄人はそんな高久を前に微笑んでいる――ように見えた。見えただけで澄人の表情を読み取ることが出来なかった。

(――誰だ)

 途端、高久は自分の恐ろしい考えをかき消すように無意識に歯を食いしばっていた。

「お米で作ったお茶、なのですよね?」

「え?」

 樹は澄人を見てから、湯呑みの中を見た。薄黄金に輝く透き通ったお茶は湯気と共に香ばしい匂いを漂わせている。

「頂いても良いですか?」

「え、ええ。それは、勿論です」

 と樹は高久を伺い見た。高久は無表情であったが、内心では澄人の言葉に激しい戸惑いを覚えていた。

〈白天ノ子〉は他の軍人以上に軍務問わず出された食事、飲み物に口をつけないことを徹底されているからだ。高久は〈白天ノ子〉と共に軍務を行う時は自分も絶対に食事を口にしない。

 時に批判を受けることもあるが、それでも〈白の御楯〉は〈白天ノ子〉の御身おんみを守る為に悪役を買って出る。

 澄人もそれを分かっていたからこそ、羽坂はざかや高久一人を決して、悪役にはさせなかった。自分の身を守り、同行者を守る為であることを分かっていたからこそだった。

 それなのに――戸惑う高久を前に澄人は顔を向けた。

 顔のない、表情の分からない澄人が自分を見つめている。

 ――あれは本当に雪村ゆきむら澄人なのか。

 鏡一郎きょういちろうの声が確かな説得力を伴い、脳裏を満たす。

 澄人は鏡一郎の家宅を訪れた時も飲食をしていたことを高久は、どうしてか今、思い出した。そこに違和感を抱かなかったと言えば嘘になる。

(何故、あの時、自分は)

 違和感に気付きかけたその時だった。

 ――まだ、駄目。

 聞き覚えのある声だった。記憶の中より幼い声に顔を上げると、微笑んでいるただすが目の前にいた。

 ――大丈夫。信じて。

 高久が目を瞬かせると、糺の姿は消えて、顔のない澄人の姿があった。澄人は高久にしか聞こえないようにそうっと囁いた。

「大丈夫です。信じてください」

 それは優しくも説得力のある力強い声だった。それでも、と高久は揺らいでいた。〈白の御楯〉として自分が取るべき行動はとうに決まっている。なのに。

「そうですね……。いただきましょうか」

 自分の口から流れるように出た言葉に高久は目を開いた。糺の姿を見たからなのか、澄人の妙な説得力に流されたからなのか。いずれにしても自分の口から出た言葉に気持ち悪さを覚えながらも、発言を撤回するつもりがない自分に戸惑ってもいた。

 高久の動揺などいざ知らず、樹は嬉しそうに湯呑みにお茶を注いでいた。

 上梨の視線も柔らかいものに変わり、乙顔家もそう来ないと、と嬉しそうに顔を見つめ合っている。

 次に扉を開けて入って来たのは、樹と同じように赤子を背負った、お盆を手にした年若い男女が三人、入って来た。お盆には様々な種類のおにぎりをのせたお皿が並んでいる。

「ついで――と言ってはなんですが、おにぎりも食べて頂けませんか? どうしても、高久さんに食べていただきたいのです」

 どうしても――と重ねて言った樹に戸惑いながらも高久は断ろうと口を開いた。だが、その先の言葉は自分の思考と反するものだった。

 いただきますと言おうとした思考に抗うように高久は首を振った。

「――すいませんが、それは」

 断ろうとしたその先の言葉が出て来ない。思考が強制的に遮断されている妙な感覚だった。

(――可笑しい)

「高久さん。いただきましょう」

 途端、思考がぐらり、と歪む感覚に高久は眩暈めまいを覚えた。

「ね?」

 澄人の声を合図に耳の奥で雨の音が聞こえ始めた。

 周囲の音をかき消すような激しい雨の音に変わる頃、一瞬の間だけ、時が止まり、音が消える。体の所在が分からなくなる妙な感覚が全身を覆う。

 そんな中で高久が口にしたのは自分の意と反する言葉だった。

「お言葉に甘えていただきます」

 途端、音が戻り、乙顔家が嬉しそうにお米の自慢を始めていた。

「〈顔無之村〉のお米、今ノ年こんのとしは更に、美味しく出来たんですよ。だからね、皆さん食べてもらいたくてうずうずしていたのよね」

 伊織が嬉しそうに言う。高久は自分の前に置かれたおにぎりを前に不思議と穏やかな心持ちだった。

「さあ、皆さん。手を合わせて、日々の恵みに感謝しましょう」

 伊織の声で手を合わせる。年若い男性は伊織の後ろで膝座りして感想を待ちわびているようだった。

「いただきます」

 待ちわびたようにおにぎりに手を伸ばし、口に入れる。高久は白く艶やかなおにぎりを手にしていた。ほろりと崩れそうな見た目をしたおにぎりは手でつかんでも、しっかりと三角の形を保っている。

「白米に塩をつけただけのおにぎりです」

 樹が説明する。

「高久さん。美味しそうですね」

 澄人を見ると、澄人は白米に塩のおにぎりを口にしていた。ほろりと音のしそうなおにぎりを口にした澄人はお米の甘さを堪能するように何度も噛みしめた。

 そんな澄人を村の人々は息を止めるように見守っていた。

「美味しいです」

 村の人々から歓声があがる。乙顔家は勿論だが、先程まで硬い表情を浮かべていた耕太と文子も互いに顔を見合わせて笑顔を浮かべている。

 歓声の中で高久はおにぎりを口にした。口の中でほろりとほどける米粒をしっかりと噛みしめる。どこか懐かしさを感じる味に高久は思わず手を止めておにぎりを見た。

(……美味しい)

 高久は二口目を口にした。どこか懐かしい味を舌の上で探るように米の甘味を堪能する。ちょっと効きすぎた塩がまた丁度良い具合にお米の味を引き立てていた。

 全て食べてから自分を見つめる村人に気付き、高久は微笑んでいた。

「美味しいです」

 高久の言葉に樹が微笑んだ。高久は二つ目を手に取った。黒い穀物と併せて炊いた米の間から茶色のゆで卵が見える。

「そちらはゆで卵を漬けたものを〈黒舞こくまい〉を入れたお米で包みました」

 高久はゆで卵にかぶりつくようにおにぎりを口にした。弾力のあるゆで卵は半熟だった。とろりとした黄身が白米と絡み、白身に染み込んだ香ばしい醤油の味が口の中に広がった。

 しっかりと味わい、飲み込んでから高久は樹を見た。

「……こちらも美味しいです」

「そうでしょう」

 樹は得意気な笑みを浮かべた。

(次に〈顔無之村〉を訪れる時……恐らく、自分は何も口にしないだろう)

 自分の意志と体が分離したような感覚を味わいながらも、不思議と不快感はなかった。ただ、どこか懐かしい味をしたおにぎりを味わった高久は最後のおにぎりに手を伸ばした。味噌がたっぷり塗られた焼きおにぎりだった。

 かりっとした食感と共に酸味を感じる味噌の味が舌に広がる。高久は焼きおにぎりの味噌を見た。

「この味噌……」

「気付かれましたか? 高久さんの故郷の柚子ゆず味噌ですよ。だから食べていただきたかったのです」

 樹に言われて高久は思わず、澄人を見た。澄人は二つ目のおにぎりを手に取っているところだった。高久が見ていることに気付いた澄人は穏やかな微笑みを向けていた。

 先程まで分からなかった表情が分かり、安堵するよりも先に違和が膨らむ。膨張した違和は弾ける寸前までに膨らんでいた。それを抑え込むような感覚がはっきりと感じられた時、高久は思わず、目を逸らしていた。

(まだ、駄目だ)

 自分の思考か、本能から来る声か――今は触れぬ方がいいと判断した高久は焼きおにぎりを口にした。

 口にしてから高久は思った。

(常々思うが、軍人はやはりどこか欠如している)

 妙な違和のただ中にあっても、久しぶりに食べた故郷の味を素直に美味しいと感じてしまう自分がいるからだ。戦争に赴く時、どんな緊迫感の最中にあっても、食べられる時は食べなければならない。食べることは生きること――。だからこそ、妙な違和感の中でも高久はどっしりと構えている自分を可笑しく思った。

 甘い味噌の奥に感じる柑橘系の香が故郷を思わせる。湯呑みを手に取り、お茶を飲む。甘味のある香ばしいお茶を飲みながら、高久は妙な違和の中に身を委ねていた。


 **

 食事を終えた高久と澄人は、早速、耕太こうた文子あやこの案内でかんばせ様の本殿に向かうことになった。二人が並んで歩く後ろを高久と澄人が並んで歩く。

 ゆるやかな傾斜が続く道の両脇には半木骨造はんもっこつぞうの家が建ち並んでいる。白一色の〈白幹ノ国〉と違い、淡い色彩ながらも色鮮やかに並ぶ家はどれも印象的であった。一見、無秩序に見える色は景観を考えた上で塗られていること、鋭利に尖った屋根は雪が流れやすい勾配にしていることを、文子がよどみなく説明した。観光客を相手にしていると説明を求められる為、詳しくなったのだと言う。

 石畳の道はかんばせ様が祀られている社の入り口まで続いた。神様の通り道である鳥居は通常の鳥居と違い、コの字型の洗練された見た目の鳥居だった。黒漆で仕上げたと分かる鳥居の下を通ると、遠方から鈴の音が聞こえた。

「仕組みは分からないんですけど、この鳥居を出入りすると鈴の音が聞こえるんです」

 耕太が振り返る。表情筋の動きから不安を滲ませている耕太は文子を伺い見た。文子は声を出さすにまだ、と言った。

 高久は先程の寄り合いのやり取りからも二人が何かを隠していることは感じ取っていた。

 耕太はもう耐えきれなくなったのだろう、もう無理だ、と言わんばかりに青ざめた表情を浮かべている。文子も同じ思いだったのだろう。高久と澄人を振り返り見た。

 不安を隠しきれない表情を浮かべたまま、文子は言った。

「あの、先に案内したいところがあるんです。良いですか?」


 金木犀きんもくせいの花のように小さな木漏れ日が踊る地面の上を二足の革靴と二足の軍靴が踏み歩く。文子と耕太に案内されている高久と澄人は今、本殿から逸れた裏の道を歩いていた。

 一列に歩く二人と澄人の後に続きながら、高久は不意に〈弓鳴山地ゆみなりさんち〉に目を向けた。神々が還ると伝わる山の頂には粉砂糖をふったような雪がかかっている。その下を馬が悠々と駆け、牛がのっそり歩いている。

 軍靴が木の枝を折る音をきっかけに高久は前に視線を戻した。前を歩く澄人の細い背中に木漏れ日が落ちている。奥に進む程に光は少しずつ淡くなり、鬱蒼うっそうとした薄暗さが増していく。地面を踏む感触がじっとりとし始めた頃、目の前が開けるように明るくなった。薄暗闇の中にいても明るさを感じる遠くの景色を前に歩を進めると石造りの塔らしきものが見えて来た。日の光を浴びて淡く浮かび上がる塔は灰色調の煉瓦を積んで作られた建造物のようだった。

 じっとりとした地面はいつの間にか固くなっていて歩く度に乾いた音を立てる。塔の姿がはっきりと見える頃には鬱蒼とした薄暗闇から明るい場所を歩いていた。密集した木々に囲まれた開けた場所の真ん中に塔はそびえ立っていた。顔をあげると灰色の煉瓦に映える鮮明な青い屋根が見える。

 その塔には窓が見当たらず、家畜の飼料を保存する貯蔵庫のようにも見えた。

「こちらです」

 文子と耕太が立ち止まり、視線で場所を告げる。高久と澄人は重厚な鉄の扉の前で立ち止まった。

「今、開けますので、すぐに入ってください。そしたら、耕太が扉を閉めます。中は暗いので入ったらそのまま動かないでください。うちが窓を開けますから、それまでその場に居てください」

「分かりました」

 高久は頷いて澄人を見た。澄人も同様に頷いていたが、その顔に表情を読み取ることは出来なかった。〈顔無之村〉に来てから澄人の表情が分からなくなってきている。

 高久は静かな不安を覚えながらも今は目の前のことに集中することにした。何よりも自分の本能が考えるなと告げている。高久は自分の警告に従うことにした。

 文子は周囲を見回してから鍵を取り出し、体全身を使うようにして鉄の扉を開けた。あまりに重そうな扉を前に高久と澄人は手伝いを申し出たが、文子が断った。鉄の扉は限られた者しか開けてはならない決まりがあるのだという。文子は二人にお礼を言ってから再び扉を開けた。

 蝶番のこすきしむ音がしてようやく扉が半分開いた時、文子は体を滑り込ませるようにして中に入った。そして内から扉を押すと、高久と澄人に入るように体を引いた。

 高久と澄人は塔の中に入った。塔の中は完全なる暗闇だった。外の光が届かないように遮断し、密閉した造りになっているのだろう。最後に耕太が中に入ると、文子と同じように体全体を使って扉をゆっくりと閉めていく。光が徐々に細くなり消える前に文子が奥に走った。

 音を立てて扉が閉まり、完全なる暗闇の中で階段を駆け上る音だけが聞こえている。階段を駆け上る足音はしばらく続き、やがて聞こえなくなると何かを回すような音と共に歯車が擦れ合う音が聞こえて来た。

 暗闇の中で射し込む光に誘われるようにして見上げた天井近くの窓から一筋の細い光が見える。細い光は暗闇に慣れた目には眩しかった。

 僅かに射し込んだ光は暗闇を薄暗闇に変えた。物の形が見えるおぼろげな中でも分かる白。その色は文子と耕太が高久と澄人を塔に案内した理由が分かるものだった。

 金具の軋む音と共に細長い空が一気に開け、明るくなった室内で真っ先に目に飛び込んだのは白い柱だった。樹齢何百年もの大樹を使った柱は天井からの光を浴びて淡く白い姿を見せていた。

 その姿からも〈白幹ノ国しろもとのくに〉に自生する〈白樹はくじゅ〉と分かる木の幹の先を見る為に高久は顔をあげた。

 真ん中の木の幹をそのまま使った柱を軸にして周囲を囲むように螺旋階段がある。螺旋階段にはいくつもの踊り場があり、その先に棚に繋がる渡り廊下があった。

 高久は棚に視線を移した。空の見える天井近くまで棚がある。棚はある程度の高さで区切られ、それぞれの階に分けられているようだった。棚の前には人一人が通れる狭さの通路があり、人が落ちない為の手すりが設けられていた。

 階ごとに螺旋階段に繋がる渡り廊下は光を遮らないよう互い違いに配置され、下から見ると車輪のようであった。

 本棚のようにも見える棚に納められているのは横に積まれた本ではなく、白い木の箱である。白い木の箱が幾重にも重なり、整然と棚に納められている様子は見ていて気持ちの良いものであった。棚の中で寸分違わず綺麗に納まる箱は良く見ると一つ一つ、名前が彫られていた。名前が彫られていることで一見すると本のようにも見える。

「お待たせしました」

 上から声が下りてくる。階段を一気に駆け下りる文子の足取りは軽いものだった。文子が階段を下りる間に耕太が高久と澄人に声をかけた。

「……お二人ならご存知でしょうが、塔の中なら外に話が漏れることはありませんから」

 高久は〈殿ノ前あらかのまえ〉を思い出した。声が漏れることのない音の遮断された建物。〈白樹〉の特性を利用してこの塔は作られている。その目的は〈殿ノ前〉と同じではない。ここはおそらく――。その答えの先を耕太は言った。

「ここは防炎の為に作られた塔なんです。見ての通り、お二人の国の〈白樹〉を使用しています。防音にもなるので人に聞かれたくない話をする時は主にここを使います」

「耕太! 鍵かけた?」

 階段を下り終えた文子が階段から声をあげる。耕太は文子に顔を向けた。

「鍵はかけないわ。その方が塔の中を案内したって説明できるじゃない」

 耕太に言われて文子は頷いた。

「それもそうだ」

「では上の踊り場まで案内しますね」

 耕太に導かれて高久と澄人は階段まで歩いた。

「土足厳禁なので靴は脱いでくださいね」

 そう言った文子の足元はいつ脱いだのか靴下のみであった。階段の下には散らばった靴が落ちている。文子は自分の粗相に気付くや気まずそうに靴を並べ直してから、姿勢を正した。

「どうぞ、こちらへ」

 靴を脱いで階段を上がった高久と澄人は踊り場に案内された。踊り場には横に長い〈白樹〉で作られた長い背もたれのある椅子が置かれていた。高久と澄人は文子と耕太の強い押しもあり、椅子に座ることを勧められた。高久と澄人は言葉に甘えて、軍刀帯ぐんとうたいから軍刀を外して椅子に座った。

 文子と耕太はそのまま床の上に座ると、姿勢を正した。

 だが、二人はすぐに口を開かなかった。互いの顔を見つめあった二人は覚悟を決めたように頷きあった。

「高久さん。うちらから、話がございます。まずは、お詫びさせてください。ごめんなさい」

 文子が頭を下げると同時に耕太も同時に頭を下げた。深々と頭を下げる二人を前に戸惑った高久は澄人と顔を見合わせた。

「まずは謝るその訳を聞かせてもらえませんか」

 高久の落ち着いた声に頭を上げた文子が息を吸って、吐いてから切り出した。

「――かんばせ様と話せる子は存在しません。全て……うちらが考えたことです」

 寄り合いで二人の様子が可笑しかった理由が腑に落ちた高久は嫌なものが胸に満ちていくのを感じていた。

 それは不快感の為ではない。寄り合いの時に感じた〈のっぺらぼう〉の一族の悪意の欠如だ。それはともすれば、感覚を麻痺させかねない要因ともなる。

 耕太は涙汲んでいた。顔のない目に涙の玉が浮かび上がる。文子はスラックスを握りしめていた。その手は震えている。

早志はやしさんの所の子も、かんばせ様と話すことは出来ません。うちが、話すことが出来るふりをさせているだけです……」

 文子の声は震えていた。

 高久と澄人は、文子が嘘を吐いた理由を分かっていた。

 軍に居ると嫌でも知ることになる。それは戦争の理由でもあるからだ。文子の続ける言葉の先を、高久と澄人は知っている。

 風習は文化でもあり、代々続くその土地の生活である。だが、長い時を経て風習は形を変えていくこともある。考えが変われば容易く転ずるものでもある。

 高久は自分を見上げる文子を見た。その顔は救いを乞う表情を浮かべていた。

「全ては……因習から子供を救う為です」

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