三 疑惑
蒸気機関車の一等車で
開け放たれた窓から見える景色は深緑から薄い黄緑へと姿を変えつつある木々が流れていた。木々の間から見える水を張った田んぼは空の色を映している。
〈
高久は視線だけを動かして澄人を見た。澄人は顔のない目元を隠すように白い軍帽を深くかぶり、開いた窓の外をぼんやりと眺めている。
二人は今から乙顔の故郷、〈
「トンネル!」
その一言で乗客が席から立ち上がり、窓を閉めていく音があちこちから聞こえてくる。高久も同様に軍刀を片手に窓を閉めた。窓を閉めてからしばらくしないうちにトンネルに入った列車の窓は暗くなり、鏡のように車内を映し出した。
澄人は鏡のようになった窓を見ないように俯いていた。鏡のような窓に映る自分の姿と俯く澄人の姿が見える。澄人の顔を見ないように高久は目を伏せた。
朝、
――あれは本当に
「
「いいから答えろ。あれは澄人で間違いないのか」
有無を言わせぬ質問だったが、鏡一郎の額に汗の玉が浮いているのを見た高久はただならぬ気配を感じ取った。どこか焦りを
「ええ。あの方は雪村澄人です。間違いありません」
きっぱりと言い切った高久を前に鏡一郎は目を細めた。
「何故、そう思える?」
高久が困惑していると、鏡一郎は何かを察したのだろう。自嘲するような笑みを浮かべて首を振ってみせた。
「僕は不思議でならんのだ。貴様も含め、全員が
鏡一郎は高久から目を離すことなく、まっすぐに見据えている。
まっすぐに自分を見る鏡一郎を前に高久は戸惑っていた。それでもあの人は雪村澄人であるという確信があった。それだけは確かだ。
(なのに、この違和はなんだ)
違和に沈みそうになった高久の意識を引き上げたのは、ぱん、という乾いた音だった。顔を上げると鏡一郎が手を合わせている。
「鏡は真実を余すことなく映し、またはそのものの正体を暴くと言われている」
手を合わせたまま鏡一郎は笑む。妖艶な笑みの下で目は笑っていない。
「先程、僕は澄人の姿が映るようにわざと鏡を手渡した」
「なっ」
高久の声をかき消すように鏡一郎の言葉が重なる。
「あれは、どっちだと思う?」
鏡一郎の問いかけに高久の首の後ろからじわり、と恐怖が満ちる。水面がゆっくりと凍るように満ちる恐怖の中で鏡一郎の声は尚も続く。
「あの家には不自然な程に鏡がなかった。貴様ら軍人は身だしなみを整えることを徹底的に叩き込まれる。故に軍人の家には全身を移す姿見が必ず存在する。これは軍令で定められる程で例外はない。だが、あの家の鏡は随分前に撤去されたような跡があった。パンの包み紙を捨てる時にゴミ箱を確認したが、全くの空だった」
ゴミ箱まで確認したのか、と高久は驚愕した。思わず睨んだ高久に鏡一郎は怯む様子もなければ悪びれる様子もない。
「……澄人は〈
言われて高久は歯噛みした。だが、鏡を前に怯えた澄人の心を
「高久。澄人が持っていた破片、あれは〈
高久は驚いた顔で鏡一郎を見上げた。鏡一郎は切れ長の目を細めている。細めた目から見えるのは黒々とした目だった。その目は何かを探るようにゆらりと右上に動いた。その視線の先にはアパルトマンがある。
「何故……」
「祝い呪いは氏子のみ」
鏡一郎はそうっと目を閉じた。
「その前提がありながら〈鏡ノ径〉は通ったものの望みを見せると伝わる道だ。望みが深ければ深い程、望みに呼応するように具現化したものが現れる。それは何故だ」
「それは……」
「僕が思うに〈鏡ノ径〉にとってそれは祝い呪いではない。神の善悪と人の善悪が同じなものか。だからこそ因習が生まれるんだ」
そうして目を開けた鏡一郎は手を叩いた。
「善悪の相違はまだ良い。何故なら善悪の相違は、祝い呪いの範疇に入るからだ。問題は、善悪が存在しないことだ。善悪がないということは祝い呪いの前提が存在しないということだ」
どこか遠くから笑い声が聞こえる。人の気配が少しずつ満ち始めていた。
遠くからの笑い声を拒むように鏡一郎が目を閉じる。その様子を眺めていた高久は鏡一郎の顔色が悪いことに気付いた。
「〈鏡ノ径〉の産土神におそらく善悪はない。だから通ったものの望みを見せるのだろう。だが、これは人間側の解釈だ。あれは望みを見せるという生やさしいものではない。あれは真を暴くだけの神だ。真実そのままを映す。それは心をも映すということだ。心をそのまま見つめる神は厄介だぞ」
鏡一郎はそうっと目を開けた。
「それは……」
「……貴様の村についてどうこう言うつもりはない。だが、貴様の村、元は二柱の神ならば大抵は対だ。祝いと呪い。生と死。貴様の話から聞くに残った神は〈
高久は鏡一郎の言葉にただ、息を呑んでいた。
鏡一郎はおそらく、察しているのだろう。だが、それをここで言う訳にはいかない。鏡一郎も察しているのか、それ以上は口にしなかった。
「高久。僕が恐れているのはな。善悪なき雲外鏡が、鏡を落とす意味だ。……澄人が持っているあの鏡、今すぐ捨てろ、と言いたいところだが、もう手遅れだろうな」
その言葉の示す意味を高久は知っている。
(だが、それは……澄人が何かを願ったことになる)
――なればこそ、後残りのない約束を。
無邪気な声が聞こえる。あの声は誰の声だったのだろう。
呆然とする高久を前に鏡一郎は深く息を吐いていた。
「……もういい。おい。幸間」
「はい」
「僕はあのパン屋で晴彦の土産を買う。高久。くれぐれも――」
「手短に、ですね。分かりました」
高久に先に言われて鏡一郎は目を丸くしたが、目を細め、口元を
鏡一郎の背中を見ながら高久は息を吐く。呆然としている暇はないのだ。幸間と二人になった高久は即座に問うた。
「幸間さん。澄人さんの前では聞けなかったのですが、ばけの
「それは考え難いでしょう」
幸間はすぐに答えた。
「何故かと言いますと、ばけの皮衣が自分で顔を奪えるなら、〈のっぺらぼう〉の御業など要らないからです」
分かり切っていたことを問うてしまい、高久は自分が如何に焦っているかを痛感した。それでも、他に手かがりが見えない。
高久の焦りを前に幸間は唸った。
「先程の話を否定するなら、ばけの皮衣は顔を奪うことは出来ます。だけど、それをしない根拠があります。ばけの皮衣の剥いだ皮は、すぐに自分につけないと使えない為です。しかも長くは持ちません。乾燥してぼろぼろになっていくのです。
ですから、ばけの皮衣が顔を奪うのは、いっときの間の繋ぎとしてだけなのです。対して〈のっぺらぼう〉は顔を剥ぐことが出来て、戻すことも可能。いつまでも新鮮なままの皮膚を保ちます。その為、医療の視点からすれば〈のっぺらぼう〉の御業というのは魅力的に見えるでしょう。そのことを踏まえて、〈のっぺらぼう〉が傍に居た、ばけの皮衣が澄人さんの顔を奪う理由はないのです」
「そうですか……」
高久は次の言葉が出てこなかった。そうであるならば、澄人は――。高久が思っていても言えなかったことを幸間は言った。
「幻覚は、考えなかったのですか」
「幻覚……」
幻覚は鏡一郎が強く否定したものだった。高久も幻覚は考えた。だが、幻覚であるならば、最悪の仮説がひとつだけあった。
「ええ。幻覚です。いくらなんでも異常です。澄人さんと過ごして思いましたが、顔を全く思い出せない。〈白天ノ子〉ですから、常に顔を見ない日はなく、写真もあるでしょう。なのに、写真すらも顔がない。人の顔を思い出せないということは多々、あります。人の記憶はそれほど鮮明ではありません。ですが、今分かっていることだけでも踏まえると、広範囲に及んでいるのでしょう。それは人智を超えた、産土神の力ではないのですか」
それは高久も薄々、感じていたことだった。〈秘匿之堂〉での会話を思えば、産土神が関わっている可能性は高い。だが、それは同時に考えたくない最悪な可能性に行きつくということだった。
幸間はそんな高久の心情を
「高久軍曹。あなたの心情を害することを言いますが、よろしいでしょうか?」
「なんでも仰ってください」
だが、幸間はすぐに言葉を口にしなかった。車の中で幸間は俯き、唇を引き結んでいる。しばらくの沈黙の後に幸間は顔をあげた。
「澄人さんが……産土神となった可能性はありませんか?」
高久は息を呑んだ。体が凍るような恐怖が全身を包みそうになる。恐怖を押し殺す為に咄嗟に手を握りしめた。
それこそが高久の聞きたかったことだった。澄人の前では聞けぬ最悪の仮説だった。
「人が神に変わることは、あり得ない話ではありません。ごく稀に産土神となりうる人間もいます。……澄人さんは〈白天ノ子〉です。産土神となる素質を誰よりも持っておられます。清廉潔白の清らかな子とあれば、あり得ない話ではないでしょう」
「幸間さん。それは、本気で言っていますか?」
高久は自分の声が思った以上に震えていることに戸惑った。幸間はそんな高久を優しく見つめ、そして頷いた。
「……三年前の〈迫桜高原ノ乱〉。生きて帰ることは難しいと囁かれた戦争。その〈
高久は唇の内側の肉を噛みしめ、俯いた。
「誰もが皆、酔い痴れたあの戦争です。多数の死者を出しながらも勝利を得たあの〈軍葬ノ列〉を〈
――揺るがぬ守りの白の御楯らよ
死しても勝つぞと笑う
我等は忘れはせぬとぞ誓う
声が聞こえる。耳の奥で耳鳴りのような歌が聞こえる。
「生きて帰った彼らにあの歌は酷だったことでしょう。尊ぶ死を褒め称えた軍歌は生きて帰った者にとっては死を望む歌にしか聞こえなかった筈です。あの戦争は、谷屋澄人だったあの方を、雪村澄人へと変えました。それは……彼を絶望に至らせるほどだったからではないのですか」
高久は目を閉じた。恐怖が体に満ちていく。もし、澄人が産土神と成ってしまったのならば。
「人から産土神となった人間が、どのような結末を迎えるのか、幸間さんは御存じの上でおっしゃっているのですよね?」
高久は覚悟を決めて目を開けた。幸間が自分を見つめている。その目は哀しみに満ち溢れたものだった。
「知っています。村から逃げた者たちの末路を何度も見てきましたから」
だからこそ――と幸間は続けた。
「そうではないことを祈りたいのです」
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