三 記憶の齟齬

 風呂を済ませた羽坂はざかはホテルの大食堂で柚子ゆず味噌を塗ったおにぎりを食べていた。

 艶々と粒立つ米の甘さを堪能するように咀嚼そしゃくする度、旨味があふれてくる。こっくりした味噌が柚子の酸味でさっぱりとした後味になる。

 羽坂はおにぎりの他、青豆のスープ、骨付き鶏の照り焼き、様々な野菜が盛り付けられたサラダを黙々と食べていた。

 夕餉ゆうげの時間もとうに過ぎていたが、今まで電線の点検作業をしていた人の為に大食堂が開けられたのだ。

 村の五階建ての木骨煉瓦造もっこつれんがづくりのホテルの一階にある大食堂は高い天井が特徴的な造りをしている。微かな足音さえも反響する大食堂の奥にはパイプオルガンがあった。休日になると大食堂は村の人々の奏でるパイプオルガンの穏やかな音楽に満たされる。

 その大食堂は、点検を終えた村の人々の賑やかな声で満ちていた。羽坂は青豆のスープをスプーンですくって口に入れた。優しい味のスープを堪能しながらも羽坂の耳はあちこちから聞こえてくる会話を拾っていた。

 これは参謀本部諜報課に所属する羽坂の癖だった。物事の起きる前触れは必ず存在する。その中のひとつが人の会話だ。だからこそ、羽坂は人の多くいる場所では耳をそばだてる癖がついていた。だが、話を聞かれていると分かると人は気付くものだ。警戒を抱かれてしまったら、そこから読み取れるものは少なくなる。それと気付かせぬ自然さが大事だった。

 羽坂は骨付き鶏の照り焼きをナイフとフォークを使って肉を骨から外し始めた。骨から外した肉を照り焼きソースと絡めてから口に入れた羽坂は肉の弾力を味わいながら噛みしめた。

 その間も羽坂は大食堂の中を飛び交う会話を聞いていた。パイプオルガンの音が響くように作られた大食堂は声が拾いやすい。その中で羽坂は最も、気になる言葉を拾った。

 ――戦争歴を聞きたいと書いたら不自然だろうか。

(戦争歴……)

 羽坂は最後の肉を咀嚼しながらあおい美代みよの会話を思い出した。戦争歴を聞かれた時、その後の会話に羽坂は妙な違和感を覚えたのだ。

(双子を逃がした年の出来事を、間違えることはあるのだろうか)

 毎年、双子を逃がす為に道を均す村の人々だ。産まれた子らを家族のように見守り、送り出す村の人々が記憶を違えることがあるのだろうか。

迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉は一年前で間違いない。だが、羽坂は碧と美代の言葉が気にかかっていた。

 真倉まくらゆうを逃がしたのが〈迫桜高原ノ乱〉のあった年。しかし美代の記憶によれば、逃がしたのは三年前だという。

 昔のことならいざ知らず、〈迫桜高原ノ乱〉は記憶に新しい戦争だ。それも僅か一年前のことだ。ここ近年の記憶で妙なずれが起きる筈がない。

 思考に沈みかけた羽坂の意識を引き上げたのは誰か分からぬ女性の声だった。

「そっかあ。あんなに小さかったあなたが、もう成人したのね……」

 その言葉を聞いた時、羽坂は血の気が引いた。どうして血の気が引いたのかは羽坂にも分かっていない。ただ、正体の分からぬ嫌悪感が体中を這いまわっていた。

 その間も様々に飛び交う会話を羽坂は聞いていた。最早、慣れ、だ。どんなに衝撃を受けようと耳は無意識に人の声を拾うように出来ているのだ。ここに羽坂がいると分かっているから決定的な言葉を村の人が口にすることはなかったが、それでも十分な収穫だった。

 夕餉を済ませた羽坂が部屋に戻ろうとする時には既に日付は変わっていた。

 大食堂を出ると、すぐ隣に休憩場がある。既に日付も変わったというのに村の人々と駐在武官が洋卓を囲み、真剣な顔つきで会話を交わしていた。洋卓の上には大量の本と書類が積み重ね広げられていた。羽坂は声を掛けることなく、三階にある宿泊室へと足を向けた。


 羽坂の滞在用に充てられた部屋は広々としている。二つ並んだベッド。書斎用机と椅子、部屋の真ん中に配置された、木枠が印象的な黒の革張りのソファーと足の低いテーブルの家具が揃った部屋は一人で宿泊するには広すぎるが、このホテル全体が同じような造りになっている。

 この村は観光地ではない。客が訪れることはほぼなく、駐在武官等、長期滞在する人向けの住居代わりとしてのホテルになっている。その為に初めて訪れた人は部屋の広さに驚く程だった。

 電燈を点けると、露台ろだいに続く大窓が鏡のようになる。大窓に映る自分の姿を見た羽坂は疲れた男の顔を見て、苦笑した。

 何を疲れることがあるのか、目の下の隈が酷い。入り口前のスツールに座った羽坂は軍靴の紐を解いた。

 靴を脱いで部屋に上がった羽坂は露台へと続く大窓を開けて、そのまま外に出た。露台からは村が一望出来る。

 夜になると静寂古雅の村と小説家が表現した理由がよく分かる。橙色の淡い光で照らされた赤い三角屋根が印象的な村は不思議と心地が良かった。

 だが、羽坂は今、歯の浮くような嫌な感覚が全身を押し包んでいるように感じられてならなかった。

 何かが、可笑しい。可笑しいのに、その違和が見つけられない気持ち悪さがある。

 羽坂はその気持ち悪さに歯噛みした。先程から思考が定まらない。むしろ意図的に逸らされている気がした。

 胸ポケットに手を伸ばした羽坂は、煙草たばこを吸おうとした自分に苦笑した。村にいる時に煙草は吸わない。だから胸ポケットに煙草は入っていない。なのに習慣というものはおそろしいものだ。

 ――禁煙、してなかったっけ……?

 ふいに碧の言葉を思い出した羽坂はぽつりと呟いた。

「禁煙、ねえ……」

 ここに来る前にも高久たかひさに言われたことだ。いつもなら流石、兄弟だ、とでも言いたいところだが、何故か、歯の浮くような気持ち悪さを感じた。その時だった。

 柔く温い風が羽坂の頬を撫でた。

(まだだ……)

 羽坂は眉間に皺を寄せた。風が撫でた頬に手で触れて、感覚を消すように拭い取った。

(まるで……知らない期間があるみたいだ)

 ――あんなに小さかったあなたが、もう成人したのね……。

 大食堂で聞いた女性の言葉を思い出した時、羽坂は思わず、右手で口を押さえていた。

(……待て。澄人すみとは……成人している)

 羽坂は一気に血の気が引くのを感じていた。慌てて記憶を辿ろうとしたその時、聞き覚えのある声が羽坂を引き止めた。

 ――それ以上は、駄目。

 聞き覚えのある声だった。しかし、その声は記憶の中の声よりも随分と幼いように聞こえた。

 即座にふり返った羽坂は、部屋を凝視した。淡い光に包まれた部屋に人の気配はない。

 しばらく立ち尽くしていた羽坂は何かに気付くや、部屋に戻った。

 部屋の脇に置いた革製の黒いトランクをつかみ床に置く。真鍮の鍵の付いたトランクが開けられていないことを確認してから、常に身に着けている鍵を差し込んだ。

 トランクを開けた羽坂は荷物押さえのベルトを外してから広げると、左の内側に取り付けられているポケットに手を差し込んだ。

「……ない」

 ぽつり、と呟いた羽坂はトランクの内側のポケットの中を見た。そこには二冊の本しか入っておらず、目的のものはなかった。本来なら黒革の手帳が入っている筈だった。

 だが、羽坂は焦ることなく、トランクの中の荷物を全部、低いテーブルの上に取り出した。空になったトランクを前に羽坂は底の左上の角に爪を入れるように指を押し込んだ。一見すると分からないが、トランクは二重底になっている。外した底板の下には、白革の手帳が入っていた。

 黒革の手帳との違いがあるとするならば、白革の手帳は完全に個人用だ。それでも内容に差異はない。

 羽坂は立ち上がって黒革のソファーに座り、体を沈めると、手帳を開いて中身を読み始めた。

 手帳の中身は年表だ。その年にあったことを簡潔に書いただけのものだったが、その横には書いた当人にしか分からない記号の組み合わせで埋め尽くされている。例え、手帳が他人の手元に渡っても分からないように暗号化したものだった。

白令はくれい〉七十三年から始まった年表はある意味で意地のようなものだった。高久にどちらかが死んだ時に記憶が消えると聞かされた日から、二人の記憶を縫い留めるように書いてきた手帳だった。

 その手帳には高久と糺のことだけではない。ある時期からは澄人のことも書かれるようになった。手帳を読み進める度に言葉と共に記憶が引き出される。言葉ひとつで膨大な記憶が紐づくように溢れ、時に懐かしさで歯噛みした。

 羽坂はそのひとつひとつを順番に読んでいった。神に抗う自分の姿を手帳に見ながら、羽坂は黙々と手帳を読み続けた。

〈迫桜高原ノ乱〉の文字に触れた時、羽坂は上半身を起こして、後に続く文章を凝視していた。

 羽坂の手帳をつかむ手が無意識に強くなり、額から汗の玉が浮き上がった。目に入る情報と頭にある情報に大きな齟齬がある妙な感覚だった。やがて齟齬が小さくなり、完全に消えた時、羽坂は居ても立っても居られなくなった。

 咄嗟に立ち上がった羽坂は大窓を見た。星明りの見えぬ真っ黒な空は夜の深さを告げている。開け放たれたままの窓からは柔く温い風が入って来た。額に浮き上がった汗が流れ落ち、頬を伝った汗は顎に留まることなく床に落ちた。

 その一瞬だけが、雨の音に聞こえた。

「してやられた……」

 羽坂は深く息を吐くと、どかり、とソファーに座った。木の枠が軋む音がした。

 何もかも分かってしまった。分かった今となっては、美代の不可解な質問も理解出来てしまった。

(今から出れば、間に合う……)

 分かっていても、羽坂はもう動く気にはなれなかった。

(今から出たとしても、村の人間は俺を一人で山に行かせないだろう)

 ――祝い呪いは氏子のみ。あの山を夜に通って無事なのは、道が均されているだけではない。氏子だからこそ、無事なのだ。

 氏子ではない羽坂は、下手をすれば迷う可能性がある。振り切って山に入れば、村の人々に迷惑がかかる。

 こういう時に何もかもかなぐり捨てて動けぬ自分が嫌だった。そう思ってから羽坂は否定するように目を閉じた。

(それでも……俺は最後まで責務を全うする)

 ――寂しくないの?

 碧の言葉が脳裏をよぎる。その後に口をついて出た言葉の違和感が今は分かってしまった。

「分かっていて、仕組んだな……」

 やはり神は嫌いだ、と呟いた羽坂は目を閉じて、そのまま深い眠りへと落ちていった。

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