四 仕立屋〈いちのえ〉

「着きましたよ」

 御者ぎょしゃの声で高久たかひさは自分がなかば、遠い所へと意識を飛ばしていたことに気付いた。馬車の中にいても目にまぶしい光が目の前の小さな窓から射し込んでいる。

 ややあって御者台ぎょしゃだいから降りた御者が石畳の上を走る音が聞こえ、失礼します、の声の後で扉が開けられた。

 高久は手提げ鞄を肩に掛けてから座席に置いた手土産の紙袋を慎重に持ち上げた。手土産の紙袋を傾けないように馬車から降りると、御者に心付けを手渡した。

「しばらく待たせます」

 深々と頭を上げた御者に高久は頭を下げると、少し離れた店に向かって歩き出した。

白幹ノ通しろもとのとおり〉は昔ながらの店が軒を連ねる伝統ある通りでもある。主要な道が交差する十字路の手前に仕立屋〈いちのえ〉というお店はあった。

 高久の歩いている場所からは人の通りや馬車と車がある為に見えないが、その先はただすの亡くなった場所だった。十字路の終わりに近い道の真ん中で糺は凶弾に倒れたのだ。

白幹ノ国しろもとのくに〉の要の道だ。何度も通る道に思うことは最早、なくなった。それでも〈白幹ノ通〉を歩く度に頭の片隅に糺の死は過ぎる。

 仕立屋〈いちのえ〉の前で立ち止まった高久は軍帽を脱ぐと両脇をショーウィンドーで挟まれた立派な店構えをしばらく眺めていた。ショーウィンドーの中のマネキンは外套がいとうを身に着けており、もうすぐ訪れる冬を告げる。

 いつもこの店に来るときは、いつもより念入りに身だしなみを整えた糺の姿があった。

 ――兄さん! 変なところ、ないよね?

 何度も変なところがないかを自分に確認する糺とのやり取りは面倒くさいように見えて、案外、楽しいものだった。

縁ノ結えんのむすび〉の報告に来た時には高久も立ち会った。幸せそうに笑う糺を前に、心の底から嬉しかったことを覚えている。

 あの後、糺が妻になった人と共に過ごした時間は長くはない。これからという時だったのだ。

 高久が不意に空を見上げた時、空は澄んだ青色をしていた。それは息を呑む程に美しい光景であった。

 しかし、高久が空を見上げたのは空を見たかったからではない。雨の音がしたような気がしたからだ。石畳を激しく叩きつけるような雨の音だ。嫌な記憶を呼び覚まし、あの日を思い出す雨の音――。

 記憶を振り払うように高久は深く息を吐いて、視線を戻した。仕立屋〈いちのえ〉の扉を開けると、来客を告げる鈴の音が重々しく鳴り響いた。歴史を重ねた鈴の音色だった。

「ようこそお越しくださいました」

 カウンター席に立つ女性は高久を見るや、微笑んだ。

「高久さん。本日はどのような御用件でしょう」

 仕立屋〈いちのえ〉の主、一之江いちのえ世奈せなに迎えられた高久は店の中を見た。

「今、お時間は大丈夫ですか?」

 高久の様子に気付いた世奈は即座に頷いた。

「丁度、お昼に入ろうと思っていた所なんです。こちらに座っていてください」

 休憩中の札を扉にかけに行った世奈を高久は来客用の椅子に座って待っていた。

 落ち着いた内装は年を重ねた木の色をしている。他の国の木を使った内装だからこその色だった。備え付けの棚は黒い箱が綺麗に並び、上等な布が積み重なっている。

 ここで高久は妹の糺と共に軍装の仕立てを頼んだのだ。糺の身丈を父親が測る様子を奥の扉から世奈が目を輝かせ、見つめていた。あれが糺と世奈の最初の出会いだった。

「お待たせしました」

 戻って来た世奈が机を挟んだ向かい合わせの椅子に座ると、高久は紙袋の中から小さな箱を取り出した。

「〈三色旗さんしょくき〉のチーズケーキです」

 高久がチーズケーキの入った白い箱を手渡すと、世奈は声を上げて笑顔を見せた。

「わあ……。ありがとうございます。ここのチーズケーキ、美味しいんですよね」

 世奈は笑顔で箱を見つめていたが、すぐに落ち着かない表情になって高久を見た。

「あの、やはり、珈琲コーヒーを用意させて頂けないでしょうか」

 高久は世奈の気遣いをありがたく思いながら首を振った。

「嬉しい心遣いですが、申し訳ございません。すぐに戻らなければいけない用があるのです」

 世奈はああ、と頷いた。

「引き留めてしまってごめんなさい。それで、どうされたのですか?」

「あなたにお渡ししたいものがありまして」

 高久は手提げ鞄から包みを取り出すと、世奈の許可を得て机の上に置いた。包みの結びを解いて開くと、世奈の息を呑む音が聞こえた。

「……これ」

 驚いて顔を上げた世奈に高久は頷きながら答えた。

「村の子に描いてもらいました。受け取って頂けますか?」

 世奈は目を潤ませながら、小さく、何度も頷いた。そうして絵の入った額縁をそっと持ち上げた世奈は感嘆の息を吐いた。

「……本当に写真のような絵ね」

「はい」

「改めて描いた人に御礼をさせてください」

「喜ぶと思います。……ですが、御礼だけで十分です」

 だが、世奈は首を振った。

「御礼をさせてください。この絵を描くまでにどれ程の時間を頂いたことか……。何もしない訳にはいきません」

 高久は世奈の気遣いを受け入れて頷いた。

「分かりました。村の子にも言っておきます」

 世奈は微笑みながら机の上に額縁をそっと置くと、高久を見た。

「高久さん」

 世奈の琥珀色の瞳は迷いに揺れている。だが、その瞳に覚悟の色を見た時、高久は、とうとう、この時が来た、と思った。

「もうすぐ、十年になるの」

 高久は頷いた。

「はい。今年も〈白送はくそう〉をやりましょう」

〈白送〉は命日に死者を弔う〈白幹ノ国〉の風習である。死者を思い、語らうことで残された人の心を鎮めるものであった。毎年、十一之月じゅういちのつきが近づくと羽坂はざか八代やしろと共に世奈の店に訪れる。糺の思い出を振り返りながら一日を過ごす〈白送〉は今年で十回目になる。

「高久さん。そのことなのですが、今年で終わりにしましょう」

 終わりを告げる言葉に高久は声を失っていた。

 返す言葉を探せないまま、世奈の覚悟に満ちた表情を高久は見つめていた。

 世奈は立ち上がると、カウンターに向かって歩いた。カウンターの下から手紙を取り出した世奈は戻ってくると、椅子に座った。そうして封蝋ふうろうされた手紙を高久の前に差し出した世奈は静かに言った。

「糺から、言われていたの。……あなたが、十年経っても村に帰らないようなら、これを渡して、と」

 高久は躊躇ためらいながらも世奈の手から手紙を受け取った。

 手紙を前にしても高久は何も言うことが出来なかった。それでも手紙を封切らずとも中身は分かっていた。

 何故なら、自分も糺も同じことを書いていたのだから。生まれ育った村を出る前に残した手紙は、既に高久の手元にはなくとも、書いた言葉を覚えている。

 躊躇うような沈黙の後で、世奈は気遣うように言った。

「糺に、会いに行ってあげて」

 だが、高久は世奈の言葉に答えなかった。

 机の上に目線を落とした高久は、世奈と共に笑う糺の絵を見て首を振った。

「……私は、帰る気はありません」

 高久は世奈を見ることが出来なかった。

「高久さん。私に気を遣っているなら、もういいの」

 静かな声が二人しかいない店内でやけに響く。世奈の静かな声が言葉を続けた。

「糺と〈縁ノ結〉をする時に、何度も、何度も話し合ったことです。私は分かっていて、糺と共に歩くと決めました。……あなたが、気に病む必要はないんです。もし、私に気を遣っているなら、お願いします。糺に会いに行ってあげて。糺は」

「世奈さん」

 その先を言わせまいと思わず出た声に高久は自分でも驚いていた。驚いた世奈の目と目が合う。覚悟を決めた世奈の琥珀色の瞳から、高久は目を逸らすことが出来なかった。

 その目は高久の背後の、ショーウィンドーに向けられた。

「……ここに座る度、いつも銃声を聞くの」

 世奈はショーウィンドーの先の景色を見つめていた。

「糺が死んだ日……私は、お客様の接客をしていて、何が起きたか分かっていなかった。悲鳴と怒号が飛び交う中、お客様と顔を見合わせて何かあったのかとお話を続けていたの」

 すう、と世奈が深く息を吸って、緩やかに吐き出した。

「糺少尉が撃たれた、と叫ぶ声で私は外に出た。雨が降っていたことも、外に出てから気付いた。たった十数歩……。あんなに、あんなに近くにいたのに、声が聞こえるまで、気付けなかった……。その先で倒れていた糺の体を抱きしめていたあなたの姿を……今も忘れられない」

 唇を震わせた世奈は顔を覆った。

「……高久さん。もう、十年なのか、まだ、十年なのか……。私にはもう、分からないの。ここに座る度にあの日が私の目の前にある。毎日のように突きつけられるあの日を繰り返しながら、もしもを考えてしまうの。分かっていても、あの先に、あの日に戻って糺を助ける私の姿を見てしまう……」

 高久は震える世奈の声を聞いていた。あの日から、自分も世奈も動けずにいる。それでも進む日々を過ごしながら、世奈はあの日を繰り返し突き付けられながら生きてきたのだ。

「あなたが帰りたくないのを分かっていて安堵する自分が嫌だった。本当は……本当は、帰って欲しくない。なのに、あなたが帰るかもしれないことで安堵してしまう自分も……たまらなく嫌で嫌でならなかった……!」

 悲鳴のような世奈の声を前に高久は膝の上に置いていた手を握りしめた。

 ふっと店内が暗くなり、まばらな雨の音が聞こえた時、高久は雨の匂いを感じた。しめやかな風が店内を吹き抜けた一瞬の静寂の後、石畳を叩きつけるような激しい音が聞こえてきた。

 高久には世奈の言っていることがよく分かった。

 雨の匂いがする度に糺があの日を繰り返し突き付けられる。今も思い出すのは腹部を赤い血で染めた糺の姿だ。

 ――ペトリコールだ。

 緊迫した場にそぐわぬ糺の呑気な声を聞きながら、糺の腹部から流れる血を押さえていた。

 ――兄さん。ごめん。

 笑って死んだ糺の顔を今もこうして思い出せる。記憶は褪せることなく年を重ねる毎に鮮明になっていく。

 ――嫌だ、私を置いて行かないで。糺!

 世奈の細い指が糺に伸びる。生を乞い縋り、叶わなかった祈りが砕かれる瞬間を高久はあの日に見た。

 糺の名を何度も呼ぶ世奈の哀切な声を忘れられない。世奈は動くことのない糺の手を優しく包んだ。互いの小指の指輪が当たり、冷たい音を立てていたことが耳の奥に残っている。

 糺は世奈との未来を歩まなかった。歩めなかったのではない。あの時、咄嗟に体が動いたにせよ、糺が選んだのは世奈との未来ではなく、まほらの未来だった。

 軍人として正しい道を糺は選んだ。だけど、そこに肯定はない。選ばれなかった未来は静かに、もしもという淡い希望を日常の中にちらつかせて残された者の中に残る。

 激しい雨の音に紛れて天の唸る音が聞こえる。雨にかき消されるような遠雷の、かそけし音を聞きながら、二人は雨があがるまでの僅かの間、口を開かなかった。


 先程までの雨が嘘のように店内は鮮烈な光に満ちていた。石畳が雨に濡れたことで反射した日の光が店内の天井や壁をまばらに彩った。

 椅子から立ち上がった高久は手提げ鞄を肩にかけると、深々と頭を下げた。

「以前に頼んだ軍装は今度、受け取ります」

「かしこまりました。お待ちしております」

 高久の言葉を受けて、世奈は接客で返した。

 世奈も分かっているのだ。それでも今の高久には他に返せる言葉がなかった。

「よろしくお願いします」

 高久は世奈の顔を見ることなく、〈いちのえ〉を出た。扉をゆっくりと閉めると、歴史を重ねた鈴の音が重々しく鳴り響く。

 雨に濡れた石畳の上を歩きながら、高久は御者を待たせている馬車へと歩いた。

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