鬼の守り部

白原 糸

序章 ペトリコール

序章 ペトリコール

 吹き抜ける風に雨のおとなう匂いを感じた時、午後の静かな執務室が雨の音でちた。雨の音は地面を叩きつけるように降り始め、激しい音が執務室の中を満たした時、静寂せいじゃくが再び訪れた。

 今年、三十一を迎えた男は鋭い目に警戒の色をたたえた。軍装の上からでも程良い筋肉のついた強靭な身体をしていることが分かる。その身体は中心に芯を入れているかのように正しい姿勢を保ちながら木の椅子に腰掛け、両腕は机の上にあった。整えられた短い黒髪。つり上がった眉毛と切れ長の目は見る者に威圧感を与える力があった。

 人によっては鬼と形容するだろう顔をしている男は、息を呑む程に鋭い目を開いた本に向けたまま、うろを凝視していた。

 高久たかひさただすの思考を妨げたのは雨の匂いではない。どこからか聞こえた柏手かしわてのような音だった。軽やかに響く柏手の音が水面にしょうじた波紋のように広がり、体をやわく包んだような気がしたのだ。

 高久は、目だけを左に動かした。人の気配のない執務室に異変は見えない。それでも高久は鋭い目で誰もいない執務室を横目に注視したまま、警戒をかなかった。

 やがて耳に雨の音が戻り、再び静けさをもたらす頃、執務室に何の異変もないことを確認した高久は視線を本に戻した。

 そうして、純白の分厚い本を閉じると、高久はこうべれながら深く、息を吐いた。息を吐いて、吸う。当たり前の行為を意識しながら何度か繰り返して、高久はようやく、顔を上げた。

 斜め背後の開け放たれた窓から土と草木の濡れた、雨の匂いがする。高久は雨の匂いをかき消すように机に手をついて椅子から立ち上がると、窓に向かった。窓を閉めてから床を見る。雨は露台ろだいと室内の床を一続きに濡らし、窓近くの床が水溜まりのようになっていた。

 耳にへばりつくような、静寂にも似た激しい雨の音に気怠さを感じながら高久は軍装の上着を脱いで椅子の背もたれに掛けるとシャツを捲り、バケツと雑巾を取りに執務室から出た。

 バケツと雑巾を片手に戻った高久は窓の外を見た。雨に濡れた硝子の向こうで、遠雷が見える。遠雷を横目に軍袴ぐんこを濡らさないようにしゃがむと高久は濡れた床を拭き始めた。あっという間に水を含んだ雑巾をバケツの中で絞り、床を拭く。何度か繰り返して綺麗になった床を眺めながら高久は息を吐いた。窓の隙間から入り込む風に雨の匂いがしたのを感じた高久は思わず眉をひそめた。

 高久は雨の匂いが嫌いだった。

 土と草木のむせ返るような匂い。それは思い出したくもない、だけど忘れてはならない過去を呼び起こす匂いだからだ。

 床を拭き終えた高久は道具全てを片付けてから、執務室の隣にある給湯室で石鹸を手に取り手を洗った。給湯室の小さな窓から見える街並みは、空の鈍色にびいろに負けぬんだ白色をしていた。重く垂れこめた曇り空が街に影を落としても尚、この国特有の白はくすむことなく輝いている。

 執務室に戻った高久は椅子に座り、背もたれに深くもたれかかると、天井を見上げた。

 そうして静かに目を閉じた。



 高久が産まれたのは周囲を山と崖に挟まれた、人口千人に満たない小さい村だ。

白幹ノ国しろもとのくに〉から遠く離れた南西に位置する村は小さいながらも水と土に恵まれた、天然の要塞とも言われる村だった。侵入するには骨が折れると言われる村で高久と——ただすは産まれた。

 男と女の双子の誕生に高久家の人間は喜んだが、心の底から誕生を喜ぶことは出来なかった。高久の村では双子は忌むべきものとして伝えられていたからだ。

 村の産土神様が双子であることから憂き目にあったという言い伝えの為に、村では双子が生まれると、ある年頃を境に間引くことになっている。

 間引く。それは殺すこと。双子がもたらす災いによって家が断絶しないようにとの願いを込めて、どちらかはあの世に送り出される。

 その為、どちらが残っても良いように双子として生まれた子には漢字が違いながらも、同じ呼び名を与えられた。

 高久たかひさただす。そして妹の名前もまた、高久たかひさただすだった。

『ただす』の呼び名を与えられた二人は村のならいとして、先に産まれた子が名字を名乗り、後に産まれた子は名前を名乗ることになる。兄である高久匡は高久として、妹である高久糺は糺として、周囲の愛情を受けて伸び伸びと育てられた。

 そうして下に弟妹が五人生まれ、賑やかな家で高久と糺は育った。それでも十四になる頃、どちらかは間引かれることが決まっていた。

 ——この村を出て行こう。

 二人の答えはとうの昔に決まっていた。

 自分を殺すその刃を家族に、生まれ育った村の人に持たせてはならない。

 高久家は長子である父が軍人の道を選んだ為に三男が跡を継いだ。

 父が軍人であることが二人のその後を決めたと言っても良い。高久と糺の父は二人が十三になる前に戦死しているが、父の階級から幸いにも軍から多額の援助と補償を頂いていた。父が軍人である為、その子どもは学費が免除される。父の残した家もあるとなれば答えはとうに決まっていた。

 ——軍人として生きる。それが二人の決めた道行きだった。


 十四を迎える五日前の夜、二人は村を出た。

 住み慣れた家を出る時、胸が締め付けられる痛みと共に、諦めにも似た感情が広がっていくような、不思議な感覚を味わった。

 糺もまた、同じ感情だったのだろう。仕方ない、という表情で笑んでみせた。その顔が自分とそっくりだったことに高久は不思議な感情を抱きながらも同じく、笑んでみせた。その時の顔は互いにそっくりだったことだろう。

「行こうか」

 高久が囁くと、糺は頷いた。

 初夏の風は夜になると身震いするほど、冷たくなる。鼻の奥を刺すような冷たく澄んだ風は草木の匂いがした。

 村を出て〈鏡ノ径かがみのこみち〉を足早に歩き、村の外に繋がる山道に差し掛かると、遠くで鐘の音が聞こえた。

 鐘の音に立ち止まることなく、高久は糺と共に山道を歩き始めた。僅かな月明かりを頼りに歩き、やがて山頂近くの道に差し掛かる頃、耳をつんざくような法螺貝の音が二人の足を止めた。

 振り返ると、遙か下の方に生まれ育った村が見えた。点々としたほんのりと淡い朱色の灯りが増え始め、朱色の灯りが村を覆う頃、歌声が聞こえた。朗々とした力強い歌声だった。


 ――今ははるかな全天ぜんてん

   夜の静寂しじまに浮かぶ日は

   遠退とおのくあの日をかえりみる

   君が為におこす火ぞ

   別れの時よ 今こそは

   君に言葉を告げるまい

   さらば 昔日せきじつの夢を知り

   今宵わすは水杯みずさかずき

   生きよ生きよ

   君よ生きよ

   今ぞ願いの火をとも

   あけに染まる我が村を

   どうか忘れてくれるなよ

   帰ることなく生きてくれ

   言葉交わせぬ別れをみて

   今は遙かな全天の

   夜の静寂に浮かぶ歌

 

 胸が締め付けられる声だった。

 泣きながらも、声を張り上げて歌を歌う。小さい頃から何度も見聞きし、共に歌った歌だった。これは別れの歌だ。

 そして。

「兄さん。行こう」

 糺の声に我に返った高久は頷き、村から背を向けて歩き始めた。

 双子が産まれることを忌みながら、毎年、双子が産まれる村で高久と糺は育った。双子はある年頃を境に間引かれると言われるが、実はこっそりと逃がしていたことは村の人間以外は知らない。

 ある年頃になると双子は村を出る。誰にも告げることなく、他の村で生きることを選ぶことになる。そのことを村の人々も容認しており、双子が山道に入ったことを合図に村に灯りを灯し始め、祭を始めるのである。

 それは最後の別れを告げる為の儀式でもあった。

 歩きながら、高久と糺は終始、無言だった。無言で歩き続ける二人の頬は涙に濡れていたが、二人は涙を拭うことなく、黙々と歩き続けた。やがて二人の手が触れ合うと、手を固く繋いだ。酷く冷たい手を温め合うように、二人は手を繋ぎ続けた。

 伸び伸びと育った村にはもう、帰れない。帰らないことが村人の願いでもあり、生きて欲しいという心からの願いだった。傍目には因習と呼ばれるこの風習に抗い続けた村人の、せめてもの抵抗だった。

 誰もが知っているから、こっそりと村を出る。本当なら命を奪われ死にゆく風習に抗う村人の、優しさだった。

 そして、村の産土神様もまた、その優しさをもって黙認してくださっていることを、村人も、出て行った双子も知っている。

 そのことを理解するものは少なく、理解出来るものは村の外の人には居ない。

 酷い村だと言われても、言い返すことはしない。

 説明して分かるものではないからだ。高久と糺は村を愛していた。深く、深く、愛していた。愛していたからこそ、村を出た。もう二度と、帰らないことを願っていた。

 ――死にゆく時はその骨を異郷の地に。

 年老いて、異郷の地に骨を埋める。村に戻らないことをただ、願っていた。



 激しい雨の音はまだ、続いている。

 高久はゆっくりと目を開けた。その鋭い目は歴史を重ねた天井の色を見ていなかった。雨の音の向こう、匂いによって呼び覚まされた記憶の映像を、高久は見つめていた。

「……ただす

 妹の名を呼ぶ。

 もう、返事をすることのない妹の名を、もう一度呼ぶ。

 十年前、糺は死んだ。〈白天ノ子はくてんのこ〉として、この国のすめらであるまほらを守り、死んだのだ。

 純白の御姿を持つ無垢なる命。この国全ての産土神様の橋渡しとなる〈白幹ノ国しろもとのくに〉の、すめら

 糺はその命を以て、まほらを殺そうとしていた人から、まほらを守り、死んだ。

 石畳に流れる血が、激しく降る雨に洗い流されても、白い軍服を染めた血の色が鮮明なままだったことを今でもはっきりと覚えている。

 糺の腹部からあふれるおびただしい血を止めようと押さえ付ける己の手が真っ赤だったことも、その時の、雨の匂いも、はっきりと。

 だから、雨は嫌いだ。

 雨の匂いが、音が、あの日を呼び起こす。


 ――ペトリコールだ。


 自分が死にゆくのに、呑気で雨の匂いの名称を呟き笑んだ、糺の顔を思い出してしまう。

 自分と同じ顔、同じ名前を与えられた、この世において唯一の理解者。

 愛する者を残して、この世から去っていった糺の顔を思い出す。

 最期にごめんと言って、笑って死んだ糺の顔を、雨の匂いひとつで鮮明に思い出す。

 ――生きなければ、ならなかったのに。

 生きて、帰らざる故郷を思い、年老いていかねばならなかったのに。

 あの日から、雨は嫌いだ。

 糺の死を何度でも思い出す雨の音が――今、耳の奥にある。耳鳴りのように拭えぬ雨の音が過ぎた年月を告げるかのように鳴り響いている。

(十年か)

 あれから十年。一人で年を重ねた高久は今年、三十一を迎えた。一方で妹は年を重ねることなく雨の中に倒れている。

 あれだけ長く共に居たというのに、思い出すのは雨に濡れた妹の姿だった。


 高久は三十一を迎えても軍曹の階級を維持したまま、新人少尉の教育教官と補佐役の軍務を務め続けている。

 階級を上げる打診は度々あったが、高久は軍曹にこだわり続け、全て辞退していた。

 ――生きろ。

 軍曹の手を離れる少尉に送る高久の最後の言葉はいつも、生きろ、だった。何を置いてでもしぶとく生の道を選び続けろ、と繰り返し教え続けた教官である高久の、短い言葉だった。

 言祝ことほぎでもあり、呪いにも似た言葉。それは――高久から糺への弔いの言葉でもあった。

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