異国訛りの令嬢と王子の恋愛は難しすぎる

ぜろ

第1話

 ツォベール辺境伯の事をこの国で知らない者はほぼいないだろう。長く続いていた隣国との領土争いに終止符を打ち、貿易の要としてしっかりと輸入物・輸出物を管理し、過ぎた場合は還元として領民に返還していることから人気も高い。老人になったら住みたい街一位をこの十年ほど独占しているが、驕らず正直で笑顔の絶えない人だと言う。

 俺も一応会った事はあるが、四年前、五歳の頃だからよく覚えているとは言い難かった。だからなのかその陰に隠れていた少女の事はすっかりと抜け落ちていて、朝食を取っている最中に王である父からそう言えば、と言われるまでまったく思い出さなかった。辛うじて覚えているのは、ライトブラウンのくるくるした巻き毛であろうか。辺境伯の足の陰から、ちょろりと見えていたような覚えが、微かにある。本当、微かに。


「ツォベールの養女が今日から学園に就学するそうだが、ヴォロージャのクラスになるらしいぞ」


 ヴォロージャ――ウラジーミルの愛称である、父は俺をそう呼ぶ――と声を掛けられた俺は、え、となってフォークをかちゃりと鳴らしてしまう。思うがサラダの最後のきれっばしはフォークでどうこうできるものではないと思う。ナイフも使ってやっとぱくりと口の中に頬張る。バジルの匂いが香った。バジルとトマトの組み合わせは好きだ。

 カトラリーを置いてジュースを一口、ちょっと遠いテーブルの対面に座っている父と母を見てから、俺はナプキンで口元を拭く。

「辺境伯にお嬢様なんていましたっけ。俺は全然覚えてませんよ」

「現場主義で滅多に王都に出て来ない奴だからなあ、あの従兄弟は。無口だが気風の良い娘らしいぞ。無理に押し付けるつもりはないが、少し観察してみるのも面白いかもしれないな。そしたら私にも教えておくれ」

「あら、お母さんにも教えてくれなくちゃ嫌よ。ヴォロージャったら部屋のゴミ箱に恋文を開きもせず捨てているような子なんですから。メイド達はみんな知っていますよ、ツォベール伯のように突然子供だけポンと出て来るんじゃないかって」


 メイドたちめ。余計なことを。舌打ちしそうになるのを堪えて、こほん、と俺は喉の調子を整える。くすくす笑う声は何処からだ。じろっと壁際で並んでいるメイド達を見ると。全員背筋をピンと立てて目を伏せた。よくしつけられている。王宮メイドとはかくあるべきだが、主人の事を他に漏らすようではまだまだだ。

 ふんっと鼻を鳴らして、俺はナプキンをちょっとくしゃっとさせてからテーブルに置く。ジュースは葡萄。こんな甘くて美味しい物をワインみたいに酸っぱくしてしまうのは勿体なくはないのだろうかと、常々思う。

「名前は――なんだったかな、ローリィだったかな」

「巻き毛なだけに?」

「おや、覚えているじゃないか。あの頃は引っ込み思案でツォベールの足元から離れなかったが、お前には丁度良い高さだったのかもな」

「そもそも養女ってどういうことです? 辺境伯に愛人がいたとか、そう言う話も聞いたことありませんよ、俺は。身体の弱い奥方はいたんじゃなかったかな」

「まあ、人質交換のようなものかな」

 父上はそっと目を伏せ、母も同じようにする。


 人質交換とは物騒だが、どことのだろう。隣国相手に養女を預かり、何を渡したと言うのか。おお、と懐中時計をやにわに取り出した父は、俺を見てにっこり笑った。

「そろそろ時間だぞ。学園に行ってらっしゃい、ヴォロージャ」

「気を付けてね。それと、あなたは王子だけど、ナイトにもなれる事を忘れないように。ねえあなた」

「そうだな、我が果実」

「どっちかって言うと俺の方が果実じゃないですか?」

「あら、ませちゃってこの子ったら」


 事実だがこの二人はのろけだしたら止まらないから、さっさとジュースを飲み干して足元の鞄を取ることにした。さてツォベール伯の娘とはいかな令嬢だろう、ちょっとだけ興味をそそられて、馬車に乗る。学園は城とは切り離された社交の場だ。マナーを身に着けるためには幼い頃からこういった場に慣れておかなければならない。ラブレターも断りたいのだが、ロッカーに直接入っているものはどうしようもないから家で処分するしかないのだ。

 返事を出さないのが返事だと相手も解っているだろうが、それでもと思うことは止められないのだろう。少し茶色が混じり出した金髪――髪は日焼けするのだ、俺も十年経てば母上ぐらいのブラウンに落ち着くだろう――をちりちりいじりながら、俺は馬車から外を見た。歩いても三十分程度の道を馬車で行かせるのだから、うちは過保護だと思う。まあ、王子だから当然の警護かもしれないが。


「ローリィ・ド・ツォベールです」

 制服のスカートを綺麗に上げながら、その少女はそれ以上の言葉を言わなかった。よろしくもおはようも何も。


 ローリィは九歳にしては背が高い、俺より少し上だろうと見えた。ひざ丈の制服もちょっと長めにして、真っ黒なタイツを穿いている。髪はライトブラウンで、腰まであるのかもしれないが、あちこちでくるくると渦を巻いているから正確な所は解らなかった。見事な縦ロール。ローリィと言うだけはある。顔は前髪が長くてよく見えなかったが、白い頬にあんず色の眼をしていた。

 無表情なのでこちらも値踏みは出来ないな、ふぅっと息を吐いてみると、どこかで女子がこそこそ言っているのが聞こえた。何を喋っているのかは分からなかったが、不愛想な転入生は一部の女子に相容れないものであるらしい。ウラジーミル君、と呼ばれて、俺は返事をした。年配の女性講師、彼女を囲むように出来ている階段状の教室は自由席。その真ん中が俺と言う王子の居場所である。周りはぽっかり空いていた。ラブレターの前にまずこういう物理的距離を置かないで欲しいとは、我が侭なのだろうか。

「ローリィさんはまだ教科書の一部を受け取れていないので、あなたから見せて上げて下さいね。ローリィさん、ウラジーミル君の隣の席へ。場所は解りますか?」

「はい」

 ここでも口数が少ない。てこてこと階段を上がって来るその足を、一人の女子が引っ掛けようと足を出すのが見えた。慌てて立ち上がった俺は、傾いで階段の角に顔をぶつけそうになった彼女を支える。女子の声がより強くなった。あー、厄介ごとにならなきゃ良いんだが。思いながら俺は彼女の顔を覗き込む。


 ああ、思い出した。

 彼女はこんな仏頂面で俺をねめつけて来たんだっけ。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 俺達の最初の会話は、ここから始まった。

 ある意味とても普通だった。

 ふうっと息を吐くと、彼女の長い前髪が揺れてあんず色がちらちらした。


 さて、俺が主体性を持って初めて関わってしまった女の子が彼女で良いのだろうか。幼稚部から繰り上がりでこの学校で過ごしているが、心を開いてくれない相手に心を開けるとは思わない。歳を重ねるにつれ俺は『王子』であると周りに強く認識され、栄光ある孤立、なんて教科書に載っていそうな状態を続けて来ていたのだ。

 相手は貴族、もっともこの学園は貴族以外の生徒は少ない。その中で椿油の匂いをさせているこのくるくる娘がどんな立ち位置になるかは、俺の今後の態度に寄ってしまうのだと思えば、ちょっとは重荷だった。

 いや、身体は軽かったんだけど。骨が当たって痛い程度には。よいしょと彼女を抱え直して立たせてから席に戻ると、ローリィはその隣に座って鞄を机に引っ掛ける。朝は定番のマナー講座からだから特に用意するものはない。


 そうして俺達の新たな一日が、着実に一歩始まってしまった。

 女子の囁きの煩さは、昼食まで続いた。

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