第2話 接触
半年前のことだ。各部の長官と大臣たちが集まる朝議に、宇軒は居た。
本来なら張雲が出席すべきところだが、張雲が先日の朝議の帰りに階段で足を滑らせ、腰を痛めたことは誰もが知るところであった。
皇帝の許しを得て宇軒を出席させた張雲は、今頃家で愛妻の作った昼飯に舌鼓を打っているだろう。
宇軒は軽く張雲を呪った。誰よりも官位が下で、誰よりも若輩の宇軒は朝議に居場所などない。やり過ごし、音も立てず帰る、そう決意し息を潜める。
朝議も後半。大きな問題もなく都察院の事案報告も済ませ、さぁ、やっと帰れると思った時、事件は起きた。
報告に来た太監は、東廠の長である
しかし、茶と菓子が貴妃からの贈り物であると言うことに多くの者が騒ぎ立て、ある人に注目が集まった。錦衣衛の
ひそひそと貴妃の贈り物に何かあったのでは?と言う声が聞こえる。高指揮使の斜め後ろに居る宇軒に聞こえるのだから、高指揮使にも聞こえてしまうだろう。
高指揮使は声がする方に振り向いた。高指揮使は整った精悍な顔立ちをしているが、温度のない目をしている。そのせいでとても威圧感があった。今はその目が更に温度を失い、目が合った者を凍らせてしまいそうな程だ。声がする方向を高指揮使が一瞥すれば、声はぴたりと止んだ。
その代わりに、胡督公が高指揮使に近づいた。胡督公は拱手しながら、高指揮使に言う。
「高指揮使にお伺いします。高貴妃様は、お召し上がりになったもので中毒症状を起こされたことはございますか?」
高指揮使は一拍考えたあと、「ないが、それが今回の事となんの関係が?」と返した。
胡督公はその言葉に笑顔を返すだけだったが、その質問に対する答えは思いもよらない所から返ってきた。
「西洋医学の書には、落花生は一部の者にとって毒になるとの記述がある。貴妃様はそのことをご存知であったのでは、と胡督公はお考えなのだよ」
そう言ったのは、今の皇后の父君であり、宰輔の
皇后一派が、高貴妃一派と折り合いが悪いのは、周知の事実だ。徐宰輔はこの件を高貴妃の責任にして、高指揮使諸共引きづり降ろしたいと考えているようだった。
「しかし、貴妃様はそのようなことご存知ない」
高指揮使がそう反論しても、徐宰補は取り合わない。
「入宮前はそうだったかもしれませんが、入宮後にお知りになったのやも」
高指揮使は徐宰輔を冷たい目で見つめ返した。
「疑義があるならば、徹底的に調べましょう。もう一度、淑妃様が召し上がった物の毒の有無を調べるのは勿論、食器や、衣類の異変も全て。貴妃様を疑うならば、それからだ」
二人の間に一触即発の空気が流れる。
斜め後ろで話を聞いていた宇軒は、息を潜めていようと思っていたが、耐えきれず声を上げた。
「あ、あの、発言をお許しいただけますでしょうか?」
後宮のことには無関心で、ことの成り行きを静観していた皇帝が宇軒の声を耳に止めた。
「都察院の李宇軒だったな。よい、申せ」
「確かに西洋医学の書には、一部の者にとって落花生は毒になり得るとあります。ただ、同じように蟹も一部の者にとっては毒になり得るとの記述もあります。どちらが淑妃様にとっての毒だったのかが分からない以上、全ては憶測に過ぎません。まずは、淑妃様の周りの者に確認して、これらの食べ物で淑妃様やそのご家族が中毒症状を引き起こしたことがないかを調査するべきです」
そう宇軒が述べれば、同調した者が居た。胡督公だ。
「陛下、淑妃様には一緒に入宮した乳母がおります。その者に聞けば、何か分かるやも」
胡督公は、陛下の許可を得て、この場に乳母を連れて来させた。
乳母は主が倒れたことに取り乱し、また皇帝と高官たちが集まる場に臆していたが、胡督公の質問はそれでも答えることが出来るほど、簡潔だった。
「淑妃様は、食事後に今回のような症状が出たことはあるか?」
「いいえ」
「それは、落花生や蟹を召し上がった時もか?」
「淑妃様は、どちらもあまり召し上がることはございませんが、今までこのような症状が出たことはございません」
「では、淑妃様のご家族はどうだ?落花生や蟹を召し上がって中毒症状を引き起こされた方はいないか?」
「そういえば……」
「そういえば、何だ?」
「淑妃様の弟君ですが、蟹を食べて嘔吐し、発疹が出たことがあります」
その時、朝議の場に後宮の太監がやって来た。
「太医より、淑妃様の容態が安定したとのことです。原因はおそらく、昼食に含まれていた物に対する中毒症状だと」
宇軒は拱手しながら、皇帝に述べた。
「血縁者は体質が似ると言います。淑妃様の弟君が蟹で中毒症状を起こしたことがあるならば、淑妃様も同じ症状を起こす可能性が高い。今後は、淑妃様の召し上がる物には、蟹を含まないようにし、また蟹に中毒症状を引き起こす者は海老にも中毒症状を引き起こすことがあるため海老も召し上がらない方が宜しいかと存じます」
皇帝は無駄な争いを嫌うため、宇軒の迅速な見立てに満足して言った。
「流石は殿試で
宇軒は平伏した。
「有り難きお言葉にございます」
この騒動は、皇帝のこの言葉で終結を見せ、朝議はようやく終わりを迎えた。皇帝が朝議の場を去り、高官たちもその場を去り始めた。
その中には、何も言わない者、宇軒が余計なことをしたと言う者様々だったが、徐宰輔が宇軒を睨み付けて去ったのは確かだった。
宇軒がそのことに内心ため息を吐いていると、前に人が立った。
「李殿。貴妃様への疑いを晴らしていただき感謝します」
高指揮使が宇軒に対し拱手している。宇軒は自分より官位が高い人が自分に向かって頭を下げるのにぎょっとした。
「頭を上げてください。
「しかし、それで貴方の立場が悪くなったのでは?」
「都祭院が官吏に目の敵にされるのは、いつものことです。お気になさらずに」
そう宇軒が言うと、高指揮使は宇軒を探るような目で見た。宇軒がその視線に居心地の悪さを感じていると、今日最も聞いたのではないかと思われれる声がかかった。
「お二人共、皆さんもうお帰りになりましたよ」
穏和な笑みを浮かべた、胡督公だ。胡督公はさも驚いたと言う風に宇軒に言った。
「しかし、李殿は博識でいらっしゃる。お手柄ですね」
ここにも居たか狸親父。宇軒は思ったが、口には出さなかった。
「胡督公がすかさず、乳母に質問をしてくださったからです」
そう、この人は宇軒が事を明らかにする前から、何が起こったのか分かっていたはずだ。ただ、己で明らかにすることを避けた。そのせいで、宇軒はまた敵を増やした。胡督公は宇軒の言葉に微笑んだ。
「さぁ、問題は解決したので帰りましょう」
その言葉に高指揮使は頷いたが、宇軒は頷くことが出来ない。
「お二人は先にお帰りください」
そう二人に促す。胡督公は不思議そうに首を傾げた。
「まだ、何かあるのですか?」
「いえ、ただ……」
宇軒は言い淀んだ。
「ただ?」
胡督公は首を傾げる。
「……腰が抜けてすぐには歩けそうにないのです!」
宇軒は自棄になって言った。その時やっと宇軒にも、高指揮使と胡督公の考えていることがはっきりと分かった。
(何だこいつは?)
二人はそんな顔をしていた。
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