天命

鉤尻尾

第一章

第1話 弾劾文

 その日、都察院とさついん左副都御史さふくとぎょし李宇軒リ ユーシュェンは上司である左都御史さとぎょしの執務室に呼ばれた。


「李宇軒、参りました」


 拱手きょうしゅをしながら、宇軒が挨拶すると、左都御史の張雲チョウ ウンは笑いながら言った。


「堅苦しい挨拶は必要ない。小宇しょうう※ここでは宇軒君という意味、調査を頼みたい案件があり君をここに呼んだ。詳しい話をしたいから、そこに座りなさい」


 その言葉に宇軒は相手にわからぬ程度に眉を顰めた。


「では、失礼いたします」



 李宇軒リ ユーシュェンは、中央官吏を監視・弾劾する都察院とさついんの官吏だ。

 歳は二十を少し過ぎたばかりの若者であるが、十代で殿試に主席で合格し、ある事情から目の前の上司に引き立てられ、あれよあれよという間に都察院の次官の席に居る。


 勿論、その道なりは平坦なものではなかった。

 監視対象である官吏たちの冷たい目、同僚たちのねたそねみ、如何様いかようにしてとぼしめてやろうという計略けいりゃくくぐり、宇軒はここに居る。

 しかし、宇軒にとっての一番の苦難はこれらのことではなかった。いつも一番の苦難は、張雲と共にやって来る。


「実は、ある弾劾文について調査せよとの命があってな。」


 宇軒はやはりな、と思った。上司が彼を呼ぶとき、それはやっかいな事件があった時だ。


「まずは、これを読んでくれ」


 宇軒は上司から渡された弾劾文を読み、目を見開いた。


「これは……」



 宇軒は憂鬱だった。張雲に見せられた弾劾文が発端だ。やっかいどころの話ではなかったのだ。

 その弾劾文には、ある重臣に謀反の意があり、一派の官吏がこれにくみしているとあった。

 この文書は恐ろしいことに出所不明で、上奏文に紛れ皇帝の目にとまった。皇帝は勿論これに激怒した。

 出所不明な文書が皇帝の目に入ること自体が不適切であるし、その内容は言うまでもない。弾劾されている重臣は、皇帝の腹心であり、皇帝の腹違いの兄だった。

 皇帝はこれを無視することもできたが、弾劾が事実無根なら告発者にこそ謀反の意があると言える。

 また、兄の無実を信じてはいるが、その周りの官吏については白と言い切れない。弾劾文にはそう思わせるだけの信憑性しんぴょうせいがあった。


 結局、皇帝はこの件を、東廠とうしょう(皇帝直属の諜報機関)、錦衣衛きんいえい(皇帝直属の秘密警察・軍事機関)、都察院とさついん(皇帝直属の監察機関)に合同で調査させることにした。

 一に、告発者を突き止めること。

 二に、弾劾文にある官吏たちの不正が真実かを確かめること。

 張雲はこれらの命を受けた。しかし、張雲は皇帝にある進言をした。曰く、都察院には目端が利く次官がおり、歳も若く遠方への調査にも適している。今回の調査は、この者に任せていただけませんでしょうか?と。


「……あの狸じじぃ」


 宇軒は暗い顔で呟いた。官吏の仕事に歳を理由にしないで欲しい。あなたのやっていることは職務怠慢では?

 宇軒は弾劾したかった。しかし、悲しいかな次官の身。皇帝は勿論、長官の命にも逆らうことはできない。


「承ります」


 そう頭を垂れるしかないのだ。



 宇軒は、明日からの憂鬱な日々に思い馳せながら、帰路についた。宇軒の家は京城きょうじょう(苑国の首都)の中心街の外れにある。

 慎ましやかながら、落ち着く、宇軒だけの城だ。その城で、宇軒は帰路の途中で手に入れた夕飯と、好物の甘味に舌鼓を打ち、趣味の読書に勤しむことにした。


 本の虫。そう称するのが自然なほど、宇軒の家には本があふれていた。宇軒の興味はいつだって、これらの本と好物の甘味に注がれていた。そんな宇軒が今、熱中しているのが、巷でも人気の恋愛小説だ。

 菓子屋の娘が、ひょんなことから事件に巻き込まれ、調査に当たっていた錦衣衛の青年と何度も共に危機を乗り越え、やがて互いにとって互いが離れ難い人だと知る、そんな話だ。

 その小説を読んでいて、宇軒はまた昼間のことを思い出してしまった。そういえば、合同調査をする東廠、錦衣衛とは……。

 宇軒はある事件で巡り会った、二人の人物を思い浮かべた。

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