接ぎ木の系図
みりあむ
プロローグ
少年は、まだ十を数えたばかりだった。
彼のすまいは、この国でもっとも
敷地内には白くなめらかな石畳が広がり、水路や木々が整然と配置され、だだっ広い敷地の中心に、きらびやかな装飾をほどこされた王宮が建っている。
しかし少年は、美しくきらびやかな正面から離れた、奥まった場所で育てられた。人目につかない、暗く静かな一画だけが、彼に与えられた居場所。
王族にとってわずか用意されたプライベートな空間という理由にとどまらず、王や王の
少年はその日、世話係から日に当たるよう言いつかっていた。
少しでも肌を焼けば、そのおぞましい見てくれも、少しはマシになるだろう。はっきり言われたわけではないが、召使いが言外にそう言っていることは伝わった。
大人は子どもをあなどる。相手を軽んじてあつかっても、どうせ気がつかないとたかをくくる。だが、他者から見くだされているとき、人はそれに気づく。大人も子どもも変わりなく。
少年は宮廷の裏手の庭に追いやられ、そのまましめ出された。
彼の白い肌は太陽に焼かれたとて、こんがりと茶色に焼けることはなく、ただ赤くはれあがって苦しむだけ。わかっていたから、少年はできるだけ日影を求めて木々のあいだに入りこんだ。
トネリコの木の下でうずくまり、ひざのあいだに頭をうずめていたとき。
彼と出会った。
「ねえ、君。それ、拾ってくれないか」
少年ははっと目をあげた。きょろり、あたりを見まわす。
「ここだよ、ほら、ここ」
よく見ると、しげった葉の向こうに黒い
「椅子に座って足をゆらしていたら、うっかりアンクレットをそっちに落としちゃったんだ。ほら、そこにある。たのむ、拾ってくれないか」
少年はゆっくりと起きあがり、男のさししめすほうへ進んだ。そろりそろり、落とし穴に足をかけないように。だが、自分をおとしめる罠はどこにもなかった。
言われた場所に、ナナカマドのアンクレットが落ちていた。
だまって拾いあげ、進んでいって男の手の上にそれを落とす。
腕をつかまれ、引きよせられないように、距離をとるのを忘れなかった。しかし男は少年を傷つける様子もなく、くだけた笑顔で礼を言った。
「ありがとう。本当にありがとう。助かったよ。えっと、君は」
そこではじめて、彼は少年をきちんと見た、らしい。
少年はこぶしをにぎりしめ、くっと笑った。
「奴隷だと思ったか?」
「え?」
「……ケルティス人だと思って声をかけたんだろ」
アンクレットを受けとった男は目をぱちくりさせ、ああ、とうなずいた。
「そうだな。ケルティス人の小姓さんかな、と思ったよ。だけど、奴隷だと決めてかかったわけじゃない」
少年はまゆをひそめた。
男の言っている意味がわからない。
「おなじことだ。ケルティス人は奴隷だろう」
「二百年前はそうでもなかった。歴史の話になるけどね」
少年には、男がなぜほほ笑みをうかべているのかわからなかった。
「なにがおかしい」
「君は王宮に住んでるんだね。ならきっと、英才教育を受けてるんだろ?」
男はふわりと笑っている。その笑顔は、少年が見なれている、見くだす種類の笑みとはちがった。冷笑でも嘲笑でもなく……親しみがあった。
「奴隷って、なんのことだかわかるかい」
男の問いに、少年は警戒しながら答えた。
「……使役されている者たち。もとは捕虜。反抗しないように管理して、ときには罰を与えないといけない者たちだ」
「じつは、そうじゃない。君んとこの家庭教師はそう言うだろうけど」
男は言った。
「奴隷というのは、“人間に所有された人間”のことだ」
少年は理解するために男の言葉をくり返した。
「人間に所有された人間」
「そう。必ずしも使役されたり、罰を与えられるとはかぎらない。所有者の思惑ひとつで幸福にも不幸にもなれるけど、どちらにせよ自由はない。そういう人間を、奴隷と呼ぶんだ。民族も肌の色も無関係。所有された時点で、だれもが奴隷になる。だから君のことを、見た目だけで奴隷と早合点したわけじゃない」
少年は困惑しながら男を見上げた。
「……肌の色は、関係ない?」
「皮をはいだらみんなおなじ色の血を流す。そんなもんだよ、人間なんて」
そう考えたことはなかった。奴隷がおなじ人間だと言いきる大人は、少年の前にはひとりもいなかった。この、にこにことした、妙な男に出会うまでは。
奴隷がおなじ人間ならば。所有する人間がいるかいないかだけの差ならば。
彼も、おなじく人間なのだろうか。
自分も、みなとおなじ、ひとりの人間?
男はかがみこみ、アンクレットを足首にはめ、ほれぼれとながめた。柵の向こうは官邸の敷地だ。ならば、この男は政府の役人か。とてもそうは思えない気安さで、ふたたび彼は少年に礼を言った。
「……それは、奴隷の装身具だろう」
少年が言うと、男はこくりとうなずいた。
「死んだ妻が作ってくれたんだ。ケルティス人に作り方を教わって」
そう言う男の笑みにかげがさした。男の妻が死んだと聞いても、少年は「ふうん」としか思わなかった。ふっと笑って、男が言う。
「よかったよ、少しでも話せて。いい顔だ。さっきまで、ちょっと前までの僕みたいな顔をしていたのに」
「……どんな顔?」
「いっそ、死んでしまいたいような顔」
少年はどきりとした。そのとき、少年を呼ぶ召使いの声がひびきわたった。
さっとうしろをうかがうと、男が「おっと」と声をひそめた。
「王子さまを呼んでるぞ。君は氏族の子だろ? 行って、いっしょに探したほうがいいんじゃないかな?」
少年はゆっくりと気づかされた。
そうか。
彼は、知らずに自分と話していたのだ。
「氏族じゃない」
少年は一歩あとずさり、にこりと男を見あげた。
「呼ばれたから、もう行く。会えてよかった」
少年はきびすをかえし、男に背を向けて歩いていった。
あんぐりと口をあけてしまった男をあとに残して。
歩いていきながら、男の名前くらいきけばよかったと、少年――この国の正統な第一王子――は思った。
いつか、また会えるかもしれない。いや、きっとまた会う。
そのときには、なにもかもが変わっているだろう。
彼の立場、彼の言葉の重さ、そして権威が。
心に誓ったわけではない。ただゆっくりと確信めいて、少年は王宮に戻った。
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