戦友スパイ
夕凛
プロローグ/追われる者/
───クウェルティ帝国首都クウェルティシア某所にて────
男は走る。
時刻は、日が沈み、時間が経つ頃。
辺りは暗い。
街灯一つ灯っておらず、人の影もない真夜中だ。
男は背後から突き刺さる視線に逃げ惑いながら、或いは身体中から血を垂れ流して必死に走っていた。
「はぁっ...はぁっ...はぁっ...はぁ....」
建物と建物の間にいくつも広がる、人一人分ほどの寂れた細い路地の一つに入り、ようやく男は息つく。
肺に溜まった二酸化炭素を効率よく吐き出しながら、呼吸を整える。
「まだ...もう少し離れなければっ...」
背後からの視線が消え、息を吸うたびに震えていた体もその震えは徐々に治まり、足を運ぶことさえ転ぶのではないかと臆病になっていた男の脳は、生き延びるために頭を回し始めていた。
「ここを離れながら考えよう。あの女がいつ戻ってくるやもしれない」
と、男の脳はとりあえずこの細い路地を奥まで進むことを最善とし、再び足を運び始めたその瞬間だった。
彼の体には数分前の震えと、絶望が戻っていた。
耳からは、背中の方から微かにカチリとハンドガンの安全装置を外す音が聞こえた。
「残念ね」
降参の合図に、男は躊躇わずゆっくり両の手を挙げる。
恥やプライドなんてものは、即刻捨て去った。命あってのものだねだ。恥もプライドも、生き残ってから取り戻せば良い。彼はそう考えた。
「そんなことしても無駄よ」
女は銃口を、確実に男の脳天を撃ち抜けるところに向けている。
「頼むっ!『朧(おぼろ)』の情報でも、なんでも喋るからっ!!」
「それはもう全部知ってるからいらないわ。たとえ貴方がその『朧』のメンバーだったとしてもね。まあ、貴方が『朧』のメンバーなら拍子抜けも良いところだけど。これからまた進捗を聞きに行くところよ。うちで『朧』の動向を探っているとこなの。残念ね」
男は唖然とした。
スパイチーム『朧』の情報など、この国の皇帝ですら知りえない情報なのだ。ましてや他国の者が知っている訳がなかった。
「嘘だっ!『朧』の情報が漏れてるわけやねぇ」
当然、男はハッタリを疑った。
「朧」の情報が漏洩(ろうえい)しているのを疑ったのもあるが、それ以外にも理由はあった。
それは、目の前の女がやたらと饒舌(じょうぜつ)だったことだ。
「現メンバーは七人。いや、六人か。ボスは元孤児だけど、スパイの能力を買われて今の地位に至る」
普通のスパイならば、ましてや「霞」を名乗る者が、自分たちの情報をこうもべらべらと喋るわけがない。
あるとしたらそれは、今口にしていることが全て嘘だということ。もしくは、今ここで自分を殺すから問題ない、という意思表示。
「.....」
「ボス代理を務める実質のナンバーツーにしてチーム『朧』の最年長者、コードネーム『明朝(みょうちょう)』イェーラ」
「ハッタリだ!!」
男の声は、薄暗い闇のなかに消えていく。
「少し声が騒がしいわね。まるで赤子が泣いて親を呼んでいるよう」
「うるさい!」
「聞こえなかった?黙れって言ったのよ」
と言って、女は男の足に弾を一発撃ち込んだ。
「.....っ」
「あら、うめき声もあげないのね」
そう言いながら、女は再び手に持ったハンドガンの安全装置を外す。
「そんなことはどうでもいい」
当の男は、ここで少しでも声をあげたら「うるさい」とまた一発撃たれるのでは、と危惧していた次第であった。
「なっ...なんでお前にそんなことがわかるっ!?」
「なぜかしらね。ここら辺に人はいないし、喋ってもいいのだけど。どうせ貴方はここで殺すし」
「おっ...お願いだ!助けてくれ!!あんたの仲間にでも、なんにでもなるからっ!!!」
「アホね。スパイがスパイの言うこと信じてどうするのよ」
「ど、どうして俺を狙う!?」
「『朧』を誘(おび)きだすため」
「仮に誘き出されたとしても、あの『朧』が負けるわけやねぇ」
「へぇ。でも相手が『霞』ならちょっと厳しいんじゃないの?」
「相手があの『霞』でもだ。彼らは負けない」
このやり取りの間にも、男は逃げる手立てを考えていた。
当然、足を片方撃たれているために自身の足で逃げることはできない。
彼が逃げのびるためには、助けが来てくれるのを願うだけだ。それまで、せいぜい話を引き伸ばす事ぐらいしか彼には出来なかった。
「まるで、あんたが『霞』のメンバーみたいな口ぶりだな。大層な口をきいてると、後々恥をかくぜ?」
だが、この男は心の内で確信していた。
目の前にいる彼女がスパイチーム「霞」のメンバーならば、なるほど自分ほどのスパイでも簡単に追い込まれてしまうのも合点がいった。
男も、並みのスパイと比べればそれなりであった。今まで、数々の死線を潜り抜けてきた、それなりの猛者である。だが今回ばかりは、相手が悪すぎた。
男はそれを分かった上で、疑問を呈していた。
「一応言っておくけど、助けなんて来ないわよ」
男の考えなど、端から読まれていたのだ。だが、男もそれは承知済み。話さえ長引けばそれでいい。自分だって、今まで詰めが甘くて土壇場で殺された猛者を、何人も見てきたからだ。
「...なぜ言い切れる」
「貴方が所属しているチーム、『水無月』と言ったかしら。そのお仲間さんは全員私が殺したわ。もう貴方が最後ね」
その言葉を耳にしたとき、男の脳は完全に思考を停止させた。
絶望のあまりか、男は数秒だけ口をあんぐり開けた。
「はっ...じょ、冗談だよな...?」
スパイチーム『水無月』は、クウェルティ帝国でも三番目に強いとされているスパイチームだった。それが、たった一人に、自分以外のメンバー全員が殺された。
男にとっては、あり得ない話だった。
「ごめんなさいね。私、冗談(ジョーク)とかそういうの苦手なのよ」
「本当に殺ったのか...いつ...?数時間前まで、俺と一緒に飲んで....」
「ついさっきよ。よかったわね。お仲間さんたちに置いてけぼりにされなくて」
「う、嘘だ!?アイツらがこんな女一人にやられるなんて...」
言葉を発するうちに、男は気力を失っていった。
「お仲間さんを信じて疑わない人。頑固なのね。まあいいわ」
「へ...」
唐突に銃口を突き付けられて出た拍子の抜けた返事の後には、銃声が一発。ものすごく静かな音だけを残してその場は静まり返った。
「これで何人目かしらね。この国のスパイを殺したの」
男の脳天をきっちり射抜いた後、女はその場を足音も残さず後にした。
その背中は、何も物語ってはいなかった。
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