一期一会

柴山 涙

一期一会

 僕には人には見えない双子の兄弟がいた。

 「そいつ」の姿を見たことはなかったが、初めて「そいつ」の存在を認識したのは5歳の頃だ。

 確かあれは、図書館で読んだ一冊の絵本。

 悪いことをして地獄に堕ちた大人にお釈迦様が救いの手を差し伸べる話……

 だったかな?正直、細かい内容はあんまり覚えちゃいない。

 まだ5歳だったんだ。仕方ないだろ?

 ただ独特で禍々しい表紙に惹かれて手に取ってみる。本の選び方なんてそんなもんだし、感想だって普段は「面白かった」とか「つまらなかった」とか、そのくらいのもので作者の意図だとか、作品のテーマだとかそんなことはどうだって良かった。

 

 けれども、その時は違ったんだ。作品に出てきた「地獄」という概念。

 実際のところはどうなのだろうか?なんて2、3日母親に泣きついたのを覚えている。

 自分が死んでしまうなんてことを考えたことがなかったからね。そもそも人生に終わりがあることだって知らなかった。

 その時初めて「そいつ」の足音が遠くに聞こえた気がしたんだ。

 幸いなことに、子供なんてものは何度か眠りにつけば大概のことは忘れられたので、なんとか「そいつ」とは一旦距離を取る事ができたものの、もう一度その存在を認識することになるまで、それほど長い時間はかからなかった。


 7歳の時、級友が車に轢かれて死んだ。風で帽子が飛ばされたことで道路に飛び出してしまったらしい。

 子供というのはなかなかに残酷なもので現場にいた子供達によって、級友の無残な姿については事細かく噂が広がっていった。

 中には事故のことを嘆いたり、トラウマを抱えてしまったという子もいたのだが、薄情な事に、僕は事故に遭ったのが自分ではなかった事に安堵する気持ちでいっぱいになっていた。

 その子とは家が近所だったこともあって、よく一緒に帰宅していたので、その日たまたま教師に呼び出されていなければ風がさらっていたのは僕の帽子だったかも知れなかったのだ。

 その事について考えていると、なんだか前よりもはるかに近い場所で「そいつ」とすれ違ったような気がして、また怖くなって母親に泣きつきたい気持ちになった。

 けれど、その時にはもうどんな慰めを受けても意味がないように感じられて、ただ放っておくうちにそういった恐怖心はだんだんと薄れていった。

 

 中学に上がる頃、事故で亡くなった彼のことが友人達の間で話題に上がった。

 こんな事があったとか、あんな事をしたとか、それぞれが記憶を辿って色々なことを話していたが、みんな少しずつ記憶に違いがあった。

 それを機に僕もあいつがどんな奴だったかを思い出そうとしてみたけれど、その頃にはもう声色すらはっきりと思い出す事ができなくなっていた。

 顔だって何も見ずに描いてみろと言われれば、ありふれた顔つきになんとなくの雰囲気を出すことしかできなかっただろうし、正直どんな人間であったかすらも心の中で美化されて、既に原型を留めていないのではないかと思えた。


 その日の夜、僕は「生きる」という事について深く考えてみた。

 何かを学んで、思考を積み、その結果何かを生み出したとしても、結局のところ死んでしまっては何も意味がないのではないか?なんてことを思った。

 もし、仮にそれが何かしらの形となり死後も未来に受け継がれる事になったとしても、形あるものはいつか滅びてしまうのだとすれば、この地球上で起きている事柄には何の意味があるのだろうなんてことも考えたりした。

 しかし、そんなことを考えたところでどうというわけでもないのだ。

 意味がないからと言って自分から全てを投げ出せるほどの勇気は僕にはなかった。

 だから、その日は夜が更ける前に眠りにつく事にした。

 寝てしまえば、翌朝には全てを忘られる様な気がしたから。


 大学に入り少し経った頃、大きな病気にかかり手術を受ける事になった。生存率はそれほど高くなかったらしい。

 当時、僕は「生きる」という事に対して言葉にし難い不安を抱いていた。

 前に進もうという意思もあったのだが、それとは別に後ろへ引きずり込もうとする力も働いていて、それらが両腕を掴んで綱引きをしているような状態だった。


 死を覚悟する為のいい機会をもらったのだと思った。それこそが自分に与えられた使命であり、進むべき道はそこにあるのだと、そう思い込むために必死になった。

 しかし、死を目前にした僕は幼少期に読んだ絵本のことを思い出した。天国と地獄。

 そう言った概念があるけれど、実際はどうかわからない。

 善と悪の基準とは何なのか?死の先には本当に別の世界が広がっているのだろうか?それとも、そこにあるのは無か?神経が少しずつ死んでいって、だんだんと自分の中から自分が消えていけば、最後には何が残るのだろうか?

 そこにもし、意志が残ってしまっていたら、身体を失い、五感が消えていく中で僕は一体何を思うのだろうか?

 考えれば考えるほど恐怖が汗と一緒に全身から流れ出る。自分の選択とは関係なく、身体が、精神が、勝手に「そいつ」のいる所に向かって歩み出しているのを感じて、初めて「生きる」ということを選択肢に入れられる状況が幸せなのだと感じられた。

 とはいえ、もう一度その選択肢を手に入れようにも、ただ病院の布団の中で、微かに聞こえてくる「そいつ」の足音が自分のところに向かってこないことを願って、震えながら時が過ぎるのを待つことしかできないのであった。


 それから数年が経ち、僕はどうにも何をするにも積極的になれなくなってしまっていた。

 別に何がしたいというわけでもないのだが、どうにも腰が重くなったなと思う。

 とはいえ、何もせずに静かにしているとどこからかあの足音が聞こえてくる。

 今でも、「いっそこちらから挨拶にでも行くか?」なんて思うこともあるのだが、不意にこの先の人生において、何か小さな音なんざ聞こえなくなってしまうような賑やかな出来事があるかも知れない。なんてことを考えると、どうにも自分から選択肢を投げ打ってしまうのはもったいないような気もして、結局何もできなくなってしまうのである。

 まぁ、あまり考えすぎるのも良くないのだろう。耳を澄まさなければ、すぐ後ろの足音にすら気づかないことだってある。逆に、気にしすぎれば、よくわからない音にも過敏に反応してしまうものだ。だから、これからはできるだけ何も気にすることなく、大きな音を立てながら前に進もう。そしたら、何か別のことが見えてくるはずだ。


 そのはずなんだ。


 だからさ、もう少し……少しだけ僕のところに来るのは待ってくれないかな……


 あっ、はじめまして……

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