不器用な男

津川肇

不器用な男

 冷蔵庫から昨日の味噌汁の残りを取り出し、火にかける。その間に納豆をかき混ぜ、ご飯を盛る。千佐子がいなくなって四年が経った今では、朝食の準備も慣れたものだ。

 雄一が寝ぼけまなこをこすりながら台所へやって来た頃には、味噌汁も温まっていた。「おはよう」と声を掛けるが、返事はない。昨日の高速バスの長旅で疲れているだろうから、叱るのはよした。

「父さん、コーヒーないの?」

 黙って食器棚をあさりコーヒーカップを取り出すと、雄一がやっと声を発した。

「インスタントならある。けど、和食には合わんだろう」

 そう答えて、私は食卓に並んだご飯と納豆を見やった。しかし、雄一は朝食には目もくれず、またもや勝手に戸棚からインスタントコーヒーを取りだした。それから、ポットの湯が沸いていないことに気付くと、小さく舌を鳴らした。二十歳も過ぎて反抗期のような態度を見せる雄一に気を取られ、いつの間にか味噌汁が沸騰していることに気付いた私は、慌ててコンロの火を止めた。

「あ、俺いらないから。朝はコーヒー派」

 雄一は水道水をレンジで温めることにしたようで、オレンジ色の光を眺めながらそう言い捨てた。いつの間に雄一は朝食をコーヒーで済ますようになったのだろう。高校の頃はコンビニで買うからと飯代をせがんで登校していたから分からないし、中学以前は千佐子が用意していたから知るはずもない。

「今日は一緒に墓参りに出かけるんだから、少しは腹に入れんと倒れるぞ。涼しい午前中に済ませるといっても、お盆にかけて気温が――」

 コーヒーができあがると、私の言葉を遮るように雄一はドアをぴしゃりと閉めて出ていった。テーブルに並んだ二人分の朝食を見て、ため息がこぼれる。大学二年になってから初めて帰省したというのに、一人息子はまともに食事に付き合ってすらくれない。私は仕方なく雄一の分のご飯を炊飯器に戻し、納豆は二人分平らげることにした。千佐子に納豆臭いと嫌がられるかもしれないが、かわいい息子のわがままならと、笑って許してくれることを願った。


 朝食を終え、洗濯物を取り込みに庭に出る。畳む手間を省くために今日の服はここから選ぼうと無地のTシャツを手に取ると、その後ろに干していたポロシャツが目に入った。三十年も前に買ったそれはもう色褪せていたが、胸の辺りの小さな刺繍は今も鮮やかなままだ。ちょうどあの事故の一か月前の千佐子の誕生日に、二人で鮨を食べに出かけた日に着ていたものだ。久しぶりの夫婦水入らずの時間にといい店を予約したが、ポロシャツの私はなんだか店内で浮いている気がして、しまいにうっかり醤油が飛び散るものだから、私は惨めな気持ちを沈黙というかたちで千佐子にぶつけてしまった。そんな醤油の染みを隠すように千佐子が施してくれた馬の刺繍をやさしくなぞり、私は今更当時の態度を反省した。

「無地のポロシャツなんて寂しいじゃない。かわいいでしょう」

 しかし、あの日の千佐子はそんな夫の不機嫌は気にもしませんといった態度で、翌朝にこのポロシャツを私に見せた。「これなら競馬も当たるかも」といたずらに口角を上げたその顔は、出会ったばかりの無邪気な彼女を思い起こさせたものだ。手先だけでなく何事にも器用な千佐子がいたなら、不器用な父親と息子の仲も、刺繍糸を編むようにするりと取り持ってくれたに違いない。

 

 車に乗り込んできた雄一はほのかに煙草臭かった。部屋で吸っていないか、いつの間にそんなものを吸い始めたのか、どう尋ねても煙たがられそうで、私は言葉を飲み込んだ。墓参りへの道中、やはり二人の間にこれといった会話はなく、「エアコンつけるか?」という私の言葉に雄一が頷いただけだった。

 

 ぬかりなく準備したと思っていた墓参りの道具の不備に気が付いたのは、そのあとだった。水がたっぷり入った重いバケツを持ってやっと墓の前までたどり着いたというのに、チャッカマンの火がつかないのだ。頬に汗が伝い、どうしようかと惨めに思考を巡らせる間にも、チャッカマンはかちかちとやる気のない音を出すだけだった。そんな私を見かねてか、雄一がジーンズのポケットからライターを取り出した。

「俺が喫煙者でよかったね」

 そう言って口の右端を上げた雄一の表情は、馬の刺繍を見せた千佐子によく似ていた。

「母さんみたいだな」

 思わずそう口に出すと、「母さんは煙草吸わないでしょ」と雄一がようやく笑顔を見せた。

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不器用な男 津川肇 @suskhs

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